3月5日 お花見するにはまだ少し早そうですね。……利川先輩。 | |||||
---|---|---|---|---|---|
(凍える季節もやがては過ぎ去り、芽吹く花と共に迎えた春――門出の日。去る者も見送る者もそれぞれの悲喜交々はあれど、何れの当事者にもなれぬ糸川にとっては卒業式もまた一介の行事に他ならず、強いて言うなら来年の手本という認識でしかないのが正直なところだ。だから講堂への移動が始まるまでの待ち時間、文庫本を手に粛々と過ごす姿は普段通りの素っ気なさで。けれどページを捲る手は表紙を開いた段階から動こうとはせず、上の空な瞳も青いチャームが揺れるブックマーカーを見詰めたまま全く活字を映さない。ここ最近、卒業という単語を聞くたび何かを失くしたような言い知れぬ不安に襲われるのは何故だろう。溜息を吐き、視線を窓の外に向け、未だ蕾のままの桜の下にあの人の姿を探しそうになり、"あの人”とは誰だと我に返ってまた溜息を吐く――そんな不毛な行動も数え切れないほど繰り返したというのに。肝心な部分が見出せない違和感は苛立ちと焦燥に代わり、意識を切り替えようと乱雑に紙を捲る。その時「あれ?」と声を上げたのは愛用のタロットカードが一枚、ブックマーカーと同じページに挟まれていたからで。枚数が足りないと思ってはいたが、何故こんなところに紛れ込んでいたのだと、何気なく返した絵札に小さく息を飲んだ。カードが示すのは1番、魔術師。そこには自らの筆跡で走り書きめいた文字が綴られていて、)……何があっても……忘れないように?(読み上げた声が震えたのはバラバラだった破片が一気に噛み合わさったからだ。忘れない、忘れたくないと。何よりも願っていた記憶が悪足掻きとして連ねた一文によって蘇り、ガタンと椅子を蹴立て、愕然とした表情を浮かべた少女は教室を飛び出し廊下を駆ける。屋上――否、その前に果たすべき事があると、探し求めるのは己の寂しさを取り払ってくれたただ一人。3年A組、大講堂、或いは冬の日に想いを重ねたあの場所。会える可能性など良くても五分で、仮に会えたとしても以前と同じには戻れないのかもしれないけれど。それでも何処かで見つける事が出来たなら数歩分の距離を置いて足を止め、切れ切れに口を開こう)…あの……急にすみません。あたし、先輩が卒業する前に、どうしても言いたいことがあって…。(僅かに伏せた双眸が向き合う表情を捉えられずにいるのは、焦がれて止まぬ碧色に忘却を認めるのが怖いからだ。ぎゅっと自らの片腕を抱き、躊躇いの間を置いて)先に約束破ったのはこっちだし、覚えてないかもしれないことは分かってるんです。…でもまだ間に合うなら、お願い……もう一度だけでも、(見て――あたしを見て欲しい。そう紡ぐ前に感極まった想いは堪え切れず、透明な雫として流れ落ちた。そこから堰を切って溢れる涙はまともな理性を阻害し、伝えたい事はあるのに何一つ声にならない。それがひどく辛くて歯痒くて、更に涙が増す悪循環)……―――っ、ぅ、ごめ……なさ。……こんな…最低。(泣き顔を見られたくないのと、もし彼が思い出していないなら挙動不審以外の何物でもないのと。笑顔で送り出したかったはなむけの日に、相変わらず弱いままの自分で居る事が嫌で。くるりと背を向け顔を隠したなら、いっそこのまま、思い出のまま走り去ってしまおうかとすら考えてしまう。けれど春に桜を見ようと言ってくれた約束だけが、辛うじて糸川の足を留めさせていた) | |||||
そ?…じゃあ綾ちゃんの終業式の時に見に来るとすっかな。名案でしょ? | |||||
(“飽き性”の己が此の寮で一年近くも過ごしたのだと言う事実は正直信じ難いものであった。此れだけ長く人の傍に居て、執着を恐れる己がそんな危険を伴う場所にずっと居られる訳が無いと。疑問を覚えたのは其れだけではない。携帯を開けば知らない名前がズラリと登録されていて、しかも数日前まで特定の人物と遣り取りを交わしていたのだから。それもかなり親しげに。けれどそんな遣り取りを誰かと交わした覚えなどなく、けれど恐らく飽きて忘却した友達ごっこの相手だろうと、何時ものようにメールを綺麗サッパリ削除しようとして躊躇した。……?此の胸につっかえる違和感の正体は何なのだろう、消せばきっと後悔すると、何故だか理由もわからないまま漠然とそう感じては――最終的にそれらは別のフォルダへと移動させて。他にも引き出しを開けば拳銃と見慣れないロゴの―パスケースに彫られていたものと同じ腕章が入っていたし、腕には覚えのないレザーウォッチ。特に腕時計は見る度に名前の付け難い感情が込み上げる、もどかしいような。焦がれるような。なにか、何か大切な事を忘れてしまっているような――不可解な事だらけだが其れも全て飽きてしまったお遊びの名残に違いなく、けれど棄てる事は結局出来ないまま机の奥へと仕舞いこまれた。――それから卒業までの一ヶ月間は実に目まぐるしく過ぎて行った。資料を捲れば面白そうな大学などもっと他に沢山あったのに、教師から己が予め決めていたのだと告げられた此処から一番近い大学へも無事に進学を決め、利川は遂に卒業を迎えた。何度も何度も別れを繰り返して来た身としては卒業式も決して特別なイベントなどではなく、特別抱くような感情もなく、出た所できっと退屈で眠ってしまうだろうと踏み――さぼり場所に選んだのが校庭だった。以前までは邪魔の入らない中庭の柿の木の傍で寝ていたというのに、此処一ヶ月は何故か気付けば、校庭の木の下で寝るようになっていた。未だ蕾の状態の桜の木の下に頭を組んで仰向けになり、浅い眠りは何時も変わらぬ夢を利川に運んだ。――木の下に誰かが、女の子がひとり佇んでいる夢。艶やかな長い黒髪、華奢で小さな身体、顔を見たくて少女の後ろ姿へと手を伸ばすと――“利川先輩”と、振り返ってくれるのだけれど後光が差して顔ははっきりと窺えずに、夢は何時も此処で醒める。今日もまた、)……あの子って、誰だ。(最初はクラスメイトだと思い捜した事もある。特徴に当て嵌まる人物は居ない事もなかったけれど、夢で見た時のように焦がれるような思いは感じなかったからきっと違う。伏せていた双眸を開いてぽつり、言葉が落ちたタイミングで現れた少女は寮の、…誰だったか。名も覚えていないという事は接点が無かったか、或いは飽きてしまったひとりか。木に凭れる形で上半身を起こせば無感情に少女の話しを聞いていたのだけれど――彼女の輪郭から零れた透明な滴に、碧は驚愕に見開かれて。飽きて捨てた人間が如何泣こうと喚こうと忘却すればもう他人、関係ないと切り捨て来たというのに、彼女にだけは何故かそれが出来なかった。綺麗な灰青から零れ落ちる其の涙を見ていると胸が締め付けられるようで、込み上げる感情の理由もわからぬまま彼女の涙を拭わんと無意識に腕を伸ばし――腕をするりと躱すように向けられた其の背中に重なったのは、夢の中の少女。己の名を呼び、振り返った少女の顔が鮮明に浮かべば、膨大な記憶がまるで枷でも外れた様に一斉に脳へと流れ込む。影時間、シャドウ、S.E.E.S、仲間、友達、初めて手放したくないと願った愛しい少女の存在。嗚呼、俺は――俺は如何して、忘れていたのだろう。全てを思い出した今、背を向ける彼女へと手を伸ばす事に躊躇などなかった。華奢な肩を捉えて、引き寄せて、小さな彼女の此の胸へと力強く閉じ込めてしまおうと。)――あや、ちゃん。(名を紡ぐ音には一ヶ月此の胸の奥に奥に、ずっと燻ぶっていた愛おしさを乗せて。ああ、でも、震えた声では少し格好付かなかったかもしれないけれど。)…………約束、守ってくれて、ありがとな。あと、ごめん…忘れてて。綾ちゃんのこと、ずっと忘れてたなんてマジ、ほんっと、バッカだよなぁ…。もう二度と忘れねえって、……手放さねえって誓ったのに。(泣きそうに歪んだ顔など彼女には絶対に見られないように、背後から彼女を拘束する腕に強く強く力を込める。同時に今の今まで彼女を忘却してしまっていた罪悪感は己を責めても責め切れない、けれど春になったら桜を見ようと彼女と約束した事がこうした形でも叶った事が嬉しくて、此の腕に再び彼女を抱き締められる幸福に今はただ浸っていたくて、其の肩口に顔を埋めた。――会いに来てくれて、有難う。) | |||||
先輩の進学祝いを兼ねたらもっと名案だと思います。桜が咲くの、楽しみ。 | |||||
(忘れない、忘れたくない――その願いを何よりも強いものとして最後の戦いに赴いた筈なのに実際の現実はどうだろう。同じ寮に住んでいたのだから彼や仲間たちと顔を合わせる機会などあれから幾度もあったにも拘らず、通り過ぎてゆく人々以上の関心を抱けなかったひと月が今はとても信じられない。罪悪感と後悔に軋む胸は今一度巡り会えた彼の色無い眼差しを浴びるにつけ鋭い痛みを訴えるけれど、約束を違えてしまった己にはそれを嘆く資格など何処にも無く。だというのに溢れる熱は一向に治まる気配を見せないのだから自己嫌悪は増すばかりだ。背けてしまった視界では此方に手を伸ばす様子にも気付かぬまま、なんでもいい、一言掛けて貰えたならそれで割り切ってみせようと決意して濡れた目元を拭おうとした刹那。後ろから強い力で引かれた体は簡単に抱き竦められ、予想外の出来事に驚愕の表情を浮かべたなら)………利川先輩?(耳に馴染んだ自分の名前でも、彼が呼んでくれるだけで特別な響きとして聞こえるようになったのは何時からだろう。切なげに掠れたこんな声を聞くのも初めての事だったから、俄かに大きくなる心音が気取られぬよう戸惑いがちに名を呼び返す。――思い出したのか、なんて尋ねるのはきっと愚問。彼の腕の中に捕らえられた途端ぴたりと涙が止まった自覚もないまま、紡がれる言葉をただ静かに聞き入って)…止めて下さい。あたし、皆が……先輩が生きていてくれただけで嬉しいんですよ。こうしてまた春を迎えられて、諦めなくて本当に良かった…って。(辛い気持ちも申し訳ない気持ちも確かに根深く存在していたが、それ以上に、自らの手で守りたいものを守る事が出来た喜びも本心からのもので。お互いを責めるより世界が続いている幸福を噛み締めたいのだと、やんわりと首を横に振る。強く抱かれた状態では少しの息苦しさも感じるけれど、それすら彼からの想いの丈として受け取れば、欠けた一ヶ月を埋め合わせるには充分過ぎる程だ)それに、何もかも忘れて手放して、先輩がまた何処かに行ってしまうとしても、あたしが覚えている限り追いかけることは出来ますから。…迷惑でも知りません。手を伸ばせって言ったのはそっちなんだし。……謝るぐらいなら、責任、取って下さい。(背中から肩口にかけて感じる体温に少しずつ実感が追いつき始め、広がる安堵は強がりな性根をも呼び起こす。しかし己も忘却していた手前偉そうな事は言えないかと、口にしてから思い直しては、たっぷりと躊躇うような間を置き)…………そのぐらい、好きだから。……先輩のこと。(頬が熱い。こんな時にどんな顔をすればいいのか分からない。何より、これでは謝罪にも言い訳にもなっていないと――ぐるぐると煮え滾る思考で導き出せた結論といえば、彼と直接目を合わせられる体勢でなくて良かったという事。多分、あの碧に見詰められたら今度こそ羞恥で逃げ出してしまうに違いない。尤も逃げられるか怪しいのは重々承知だが、今更ながらに告げた好意は自分でも驚くぐらい募り続けた恋心の大きさを物語っていて。「…お願い、何も言わないで」と勝手に反応を封じてしまえば気まずさを誤魔化すため頭上を仰いだ。棚引く雲に麗らかな春陽。澄んだ空色を背景に綻ぶ桜の蕾は色づき始めて間もないけれど、もうすぐ雪のように花が降り注ぐ景色が見れるのだろう。そこには寂しさも孤独も存在しないのだと確信出来たから、希望溢れる未来を思って少女は微笑む)――卒業おめでとうございます。少しの間離れてしまいますけど、先輩が呼んでくれたらいつでも会いに行くので…一年だけ、待っていて下さいね。(式典は既に始まっているかもしれない。在校生の己はともかく彼が欠席というのは拙い気もしたが、この限りある時に、愛しい人と過ごす一瞬を誰が進んで断ち切れよう。もし怒られたとしても二人一緒だと腹を括って、彼の気が済むまで大人しく腕の中に納まっている事を決めたなら、視線は再度上へと。得難い絆を経ての再会に思いを馳せながら、人知れず繰り広げられた戦いの日々は終わり、されど物語を見送るのはまだ早い。約束の"ずっと”が果たされるその時まで、愚かで弱くても生き抜いてみせるのだ。勿論それはこの先も――大切で二度と失いたくない、たった一人の傍で) |
3月5日 ………徳永さん。 良ければ、少しだけ俺に貴女の時間を下さい。 | |||||
---|---|---|---|---|---|
(最初に違和を感じたのは、何時だったろう。着けた記憶のない百合の紋章のラベルピン、部屋に漂う甘く爽やかな香り。百合を象った香水瓶。平素好まぬ暖色のマフラー。全てに於いて購入した記憶も誰かから貰った記憶も無い。そも、貰った所で取って置く理由もなく、首を傾げるばかり。「妙だな…。」思わず舌に乗せた其の言葉と共に手に掴んだラベルピンと香水瓶を屑篭へと落とそうとして、…止めた。何時の間にか部屋に在り、且つ記憶に無い物等気味が悪い筈なのに、何故躊躇うのか、自身の不可解な行動に尚更傾ぐ首の角度を深く。何にせよ、大切な受験迫る今日、割く時間すら勿体無いと、乱雑に机の片隅に纏めて置いた。ボルドーのマフラーも棚の奥へと。共に引越しの際にでも処分すれば良いと。妙に騒ぐ胸に、何故だか焦燥にも似た感覚を抱きながら。此れが、本命の国立大学の受験間近に控えた2月某日の話。――そうして、来る卒業式当日。第一志望に無事合格し、久しぶりとなる登校。何か大切な物を失くしたかのような焦燥感は増すばかりで、其れは日毎に苛立ちへと姿を変える。人生の節目となる式典の最中もまた。そもそも、こういった式典は無駄な産物としか捉える事が出来ず、其れもまた、苛立ちを増長した。『卒業』―全ての人が必ず口にする其の単語を捉える度、頭に僅かな痛み走る。そうして、其れは、壇上に登った凛々しい生徒会長の姿を視界に入れ、彼女の凛々しい声音が同じ言葉を発した時。痛みよりも鮮やかな記憶へと―…『”卒業式”、再び平穏の戻ったこの街がよく見える場所…月光館学園の屋上で。』決戦前の其の言葉を契機として引き戻される記憶達は異様な熱を伴って。一筋流れた涙は、生徒会長の答辞に感極まった人々に紛れたお陰で目立つ事無く処理できた事だろう。此処一ヶ月、再び心揺れぬ生活をしていたから。急激に訪れた其の波に対処等出来なくて。唯々一つだけ、何よりも確かな此の思い。其れだけは誰よりも先に、彼女へと伝えなければと。会場を出る列が、各々の思いから乱れ始めた頃。彼女の肩を叩く力は弱く。)……徳永さん。少し時間取れますか。HRが始まるまでには終えるので。(過ぎる僅かな躊躇。―彼女は思い出していないかもしれない、思い出さないかもしれない。それどころか、此の記憶が本物かどうかすら、今はまだ、確かめられては居ないのだから。けれど、胸に浮かぶこの想いが、紛い物だとは到底、思えなかったから。本来、理解など出来ない感情が、確かに此処に在る。男にとって、其れが何よりの証明だった。―眉下げ投げる疑問符に、彼女が頷いてくれれば人気の無い裏庭にでも、首横に振れば其の侭教室へと戻る道すがら。何方にしても、紡ぐ言葉は変わらない。)……ごめん、…違うな、すみませんでした。…貴女に。これだけは先に伝えなければと、思ったので。…分からないならそれはそれで良いんです。俺のけじめみたいな物なので。(―騒いだ胸は確かな警告。眠りに就いた自分から、愚かな過去の自身への。捨てなくて良かった。思い出せて良かった。震える声音と伏せた瞼は、胸中に宿る恐怖と怒り故に。永久誓った其の指で、在りし日すら捨てようとした自身への。赦しを乞う為の謝辞では無い故、一方的に紡ぎ終えれば「それだけです、唐突にすみませんでした。」と、今一度謝罪重ねよう。) | |||||
勿論よ。…でも、……本当に少しだけで、構わないの? | |||||
(――夢を、見る。柔かな陽射しを受け東雲に染まる空。誰かの暖かな腕に抱かれ、規則正しい鼓動に安堵を覚えながら覗き込んだ漆黒に永遠を感じて。花のように甘く、爽やかな芳香に包まれ瞼を閉じる幸福な朝焼けの、夢。眠りに落ちる度に身を委ねる幸せな情景はけれど、目覚めの時を迎えると同じくして其の形を失って。ただ身体を起こした今も胸を締め付ける切なさばかりがたった一つ、夜毎溺れる夢を繋ぐ縁だった。何度も、何度も。一体いつの日から繰り返して居るのか。気付けは部屋に飾っていた白百合、以前まで持ち合わせていなかった深紅の服飾品、志した看護大から栄養学科へ切り替わっていた第一志望、手に取る事さえ無くなった男物の傘。覚えの無い変化の数々に幾度も遡る記憶は靄が掛り明確な理由を導く事は出来なくて。込み上げる疑問を飲み干し粛々と現実を受け入れた女は指先が求めるが侭、香水を身に付け慣れ親しんだ部屋を後にした。甘く爽やかな香りを感じる程に何故か滲む視界に目許をそっと拭いながら。――卒業式、人より年月を掛け迎えた其の日は感慨深く、然し抱くべき安寧は訪れぬ侭。言い知れぬ不安を微笑みの下にひた隠し、見据えた赤の少女が放つ声は何故か強く心揺さ振った。募る恐怖は、胸を引き裂く痛みは一体何を自分へ訴えかけているのか。式を終えた今も判然とせず混乱を来すばかりの記憶に罪悪感と疼痛を抱え、半ば茫然と会場を後にする最中。弱弱しい力に振り返れば思いがけぬ青年の姿に何故かまた心は強く、揺れて。)勿論よ、加賀美君。…私で良ければ、喜んで。(彼の願いを無碍に断る事は何故か出来なかった。きっと其れは平素の彼からは想像出来ぬ肩に触れた弱い力の所為。何処か悲し気にも見えた眉下がる其の表情の所為。即ち彼の所為だと判じてしまえば手にした結論は何故かしっくりと心へ落ち着いて。穏やかに三日月描く口唇は常と変わらず彼を包み込むように。斯くして、背中を追う程に込み上げる罪の意識から目を背け、辿り付いた裏庭。唐突な謝罪を受け落とす瞬きは深く、色濃い困惑が心を更に掻き乱す。何故、どうして。当然の疑問を抱く事さえ許さぬとばかりの痛みは強く、如何にか浮かべた笑みは些か歪になってしまったけれど、)君が謝る事なんて何も、……それとも、…私達には何か、あった?(温和に示す受容は、一瞬。胸を貫く自責の念に囚われ問を紡ぐ声音には悲哀の色が自ずと滲んだ。閉ざされた漆黒の瞳へ抱く寂寞は彼が己が名を呼んだ瞬間から止まらぬ喪失感に良く似て。思わず彼の頬へ掌を伸ばすも寸での所で押し留めたなら、力無く虚空を彷徨った指先をそっと胸の前で組み合わせた。其れ以上、続く言葉持たず訪れた沈黙に別れの時を察せども、焦燥感に駆られた唇は意図せず其の胸中を暴き、)私の方こそ突然、ごめんなさい。…少し感傷的になっているみたいだわ。ダメね、私。いくら誠の前だからって、こん、な、……、(彼と、自分。向かい合って二人言葉を交わすなど今日が初めての筈なのに。誠、だなんて気安い呼称。一度として記憶に無い筈だったのに。舌に乗せた彼の名は驚く程に心に馴染み、それどころか温かな幸福が胸中へ芽生えて。幾度も心中にて反芻す彼の名に、深く沈んだ記憶が少しずつ呼び起される。)――……どうして、(嗄れる声、込み上げる熱、碧眼から溢れ伝う涙は止め処無く。心に安寧齎すべく平素腹部を這う指先は何故か、組み合わせた薬指をそっと撫ぜるばかり。本当に初めてなんだろうか。彼との思い出は乏しかっただろうか。成らば何故、涙が零れるのか。温もりが胸に満ちるのか。心乱れる程に何度辿れど判然としなかった朝焼けの夢が今、鮮やかに――)……、…誠。(不完全ながら蘇り始めた記憶を手繰り寄せるべく紡ぐ彼の名は何処か甘く、胸締め付ける罪悪感はきっと、深い眠りに落ちた自分が抱き続けた恋心だった。) | |||||
…徳永さん、なら少しだけで。…小百合、なら。そもそも、全部もう貰ってる。…違う? | |||||
(記憶戻った後の其の行動は、如何しようもなく身勝手で、我侭で、醜い自己満足に相違無かった。それでも、それが自分なのだと、半ば開き直りにも近い感覚は此の一ヶ月の間に失われていた物の内の一つ。あの日々の中で、得た物の、一つ。――押し付けだとしても。誰かが彼女に何かを口にするより先に言わねば気が済まなかったから。然れど混乱した様子の彼女見れば僅かに胸が痛む。今の自身に其の資格無かろうとも、彼女の苦しそうな顔等、見たくはないのだから。動きそうになる腕を必死の思いで抑え付ければ、寧ろ彼女から伸ばされた手に瞬き一つ。然れど触れぬ手を素直に追った己に気が付けば薄い口唇歪めて。 そんな中飛んだ疑問符には沈黙以上の返答持ち得ない。 持ち得なかった。けれど。呼ばれた名に、小さく小さく肩を揺らして、)………さゆ、…(嗚呼でも、今の自分に彼女の名を呼ぶ資格があるとは、とても。反射のように零れ落ちた名を堰止める為下唇を噛んだ。―矢張り、偽りの記憶等ではないと与えられた実感は強く。其れは彼女の両の瞳から雫溢れればより確かな物へと。そうして再度耳朶を打つ名に、反射的に動いた腕は、最早理性や自責の念で縫い止められる性質の物ではなく。そうっと彼女の頬に添えた右手の親指は、其の雫拭うように、頬撫でるように、動く。)…………泣かないで。貴女の涙は幸福を感じた時に流す物でしょう?(躊躇う口唇から落ちた願いは、常の調子からは幾分か弱く。それでも同意求めるように傾いだ首は、彼女の記憶擽れば良いと言う打算含んで。――確かに抱く罪悪感は、外れぬ敬語となって表出する。けれど其れを上回る身勝手な欲望は確かに彼女求めて。相反する二つの感情を片す事など出来ず、其の手は動きを止め、視線は足許に落ち、動いた口唇は再度、「…ごめん」と三文字。―…然れど確かに鼻腔擽る其の香りに誘われるよう、そうっと視線彼女へ戻し、薄い口唇僅かに開いて)……小百合、(舌に乗せた名は、何処までも柔く。其の瞬間胸を打つ確かな悔悟に、触れた右手離して。けれど視線は落ちる事無く、何処か伺うように彼女に向かった。) | |||||
そうね、…今度は約束通り私に誠をちょうだいね?もっと誠に…溺れたいから。 | |||||
(声に出した彼の名を契機に脳裏へ過る情景はどれも分不相応な幸福に彩られていた。贖罪の為に捨てた筈の自分、望み求めるが故に目を逸らした感情。蘇る嘗ての日々の中で、微笑み涙を零す其の女は嫌悪し続けた徳永自身に相違無く。過去を顧みればとても信じ切れぬ記憶の数々に思考は混迷を来すばかり。然し、碧眼に映した彼の姿へ抱く慕情は深く、此方へ伸びる彼の指先を自然と享受したならば、其の柔らかな心地は困惑や苦しみさえ包み込むようで、)私の、涙は………、(頬を濡らす雫は彼が齎す幸福の象徴。此の胸に満ちる恋情の証。春の陽射しを受けて頑なな蕾が花を咲かすように。其の温もりに触れて目覚めを迎えた数多の記憶が不可解だった事象全てに理由を与え、此の身に起きた変化に確かな実感を与えていく。苦境を共にした仲間、あの日交わした約束、大切な親友。そしてこの世でたった一人、永遠を教えてくれた掛け替えの無い愛しい人。其の優しい声が名を呼ぶだけで世界は鮮やかに色付き、胸に灯る熱は記憶を手放す以前と変わらぬ侭。それどころか募る想いは以前にも増して強く、強く。遠ざかる温もりへ抱く寂寞は紛れも無い本物で。焦がれる心に身を委ね、躊躇い無く伸ばす左手は彼の右手を柔く包み込んだ。――ひと時、止まっていた涙が再び零れ落ちる。然し靄の晴れた今や其処に惑いは無く、後ろめたさ以上の喜びに自ずと弧を描く口許は穏やかな微笑みを携えて、)…そうよ、幸せだからこそ流す涙もあるって君が教えてくれたから。……誠が私の記憶を呼び起こしてくれたから。(胸を刺した痛みは寂寞と、悔恨。記憶を失くした侭、彼と相対した自分への苛立ち。彼がいなければ、自分を呼び止めていなければ。もしもの時を思う程に背筋伝う恐怖は甚大で。彼をもう二度と手放さぬように、空いた右手にて彼の頬に触れて、)謝らなければならないのは、私の方よ。ごめん、…ごめんね。…私、君の事まで忘れて……こんなにも誠の事が愛しいのに、(けじめだと告げた彼の真意を解した訳では無いけれど。緩やかに彼の頬を撫ぜる指先は平素、彼が齎す所作を真似るように。やがて心へ抱いた恋情が彼に届くことを祈り、包んだ其の手へと指先を絡めた。彼の痛みを少しでも癒したくて。)一番に私の所へ来てくれたんでしょう?……ありがとう、誠。(謝罪に勝るとも劣らぬ真摯さ滲み告げる感謝の言葉に満ちる喜びは強く。想い通わせた過日のように彼の名を再度、囁いた。過ぎた時を埋めるべく、愛しさを込めて。) | |||||
勿論。……君にもう要らないって言われるまで、俺は君の物だよ。 | |||||
(忘れてしまった。捨てようとした。共に永遠を誓ったのに。思い出して欲しいと、もう一度其の声で己の名を呼んで欲しいと願う事は筋違いで、そんな資格など無いと、頭では分かっているのに。相反する行動は抑えきれぬ欲望故に。彼女が記憶を取り戻すのならば、其の最初の記憶は自分で在って欲しい、だとか。余りの身勝手に胸を焼く自責の念は、然れど触れた彼女の温もりに因って和らいだ。戸惑いながらも拒絶する事はなく、優しい微笑浮かべる彼女を見遣る。――さすれば、頬に触れた指先。謝辞受ければ小さく瞬いて、)……忘れていた、だけじゃあないんだ。……あと一歩間違えば、俺は。君と繋がる物を捨てていた、貰ったラベルピンも、香水も。………なのに、思い出した途端、君に逢いたくて仕方なくて、(独善的で、身勝手で。優しく呼ばれる己の名に誘われるよう口唇開けば、紡ぐ言葉はどうにも情けなく弱く場に落ちる。頬を撫でる指が嬉しく、同時に胸が痛む。指先絡んだ彼女の左手を、握り返す事も出来ないまま、彼女の涙を拭う事すら出来ないまま、口許に昇るは自嘲的な、)…分からないならそれで良い、って言ったの、…多分嘘だ。思い出して欲しかったんだと思う。君に、俺を。他の誰よりも最初に。……捨てようとした癖にね。…だから、礼も、謝罪も、見当違いだ。………本当に、ごめん。(こんな時でも、彼女の優しい言葉が嬉しくて心揺れるのだから、本当に現金だ。確りと彼女見据えて紡ぐ本日四度目の謝罪。然れど、右手に絡む指先に力入れ、空いた左手は頬撫でる彼女の右手にそうっと重ねる。さすれば、何時かの満月の夜と恰度対になるだろうか。)君はきっと、許してくれるんだと思う。…けれど、俺が俺を許せない。(今もこうして、包み込んでくれる温もりは、何時だって安心与えてくれるから。浮かんだ自嘲の笑みは何時の間にか掻き消えて、)だから。…今度こそ、君の傍から離れない。……我ながら、我侭だって思うよ。虫が好すぎるとも、思う。でも、もう二度とこんな思いはしたくないから。…君が居ないと困るんだ。(記憶を喪って過ごした一ヶ月の自分、今この場に在る自分。別人と称しても差し支えの無い程の変化は、自分自身という枠組みの中に、彼女の存在が組み込まれて居るからだった。「……小百合。」請うような声色で呼ぶ名は柔く。頬に触れる其の手を、重ねた左手でそうっと撫でた。) | |||||
じゃあ誠は永遠に私の物ね。…手放したりしないから安心して、…必ず、幸せにするわ。 | |||||
(先頃まで過去への罪悪感を増長させるばかりだった記憶の数々は今と成っては彼への慕情を募らせる一方で。愛しい人で溢れた思い出に触れる度、此の一ヶ月が空虚な時間に感じられた。成ればこそ、過ぎた時を憂い悔恨に耽るでは無く、寄り添えずに居た間の彼を知りたいと願いは強く。彼の告白に一度は瞳を見開くも、隠す事無く綴られる真摯な想いに気付けば莞爾とした微笑みが浮かんでいた。決して逸らさず真直ぐに、凪いだ碧眼にて彼の双眸を見つめながら。返らぬ力に変わって、傍にいる自分の存在を伝えんと時に其の右手を握り、一層の恋慕を込めて慈しむように頬を優しく撫でやった。愛するが故に其の痛み受け止め、分かち合いたいと望むが侭。故に、嘲りの色が消えれば安堵は深く、柔い声音が齎す幸福を噛み締め手の甲を撫ぜる温もりに涙を零した。余りに自分を解す彼の言葉に肩を揺らし小さな笑みを漏らしながら、)許す許さない以前に、やっぱり君が謝る必要なんて何処にも無いわ。……記憶を失くしても、誠の心は私を忘れずに想い続けてくれていた。だから、君は思い留まったんだって…私は、そう思うもの。(与えられた愛が偽物だと知った其の日から、目には見えぬ愛情を疑い生きて来た自分。故に愛に飢え、形ある思慕と証を求め罪を犯した自分。――そんな在りし日が嘘のように、今では彼の愛を信じ彼を愛する事が出来るから。身勝手極まる憶測を穏やかに零し、)…私は誠のおかげで記憶を取り戻したわ。…前に誠が言った通り、君が君の為にした事が巡り巡って私の為になったって、…そう言う事じゃないかしら?(幸福な誕生日に思いを馳せ、小首を傾げながらも眼差しは同意を求めた。然し、例え誰に何を言われても曲げられぬ意志が在ると知っているから。其の様子を窺う眼は何処までも穏やかに)……我侭な誠も好き、大好きよ。君が傍に居てくれて、私を必要としてくれる……こんな幸福、誠と二人じゃなきゃきっと感じる事は出来ないわ。…大丈夫、ずっと傍に居るわ、…私も決して誠を離したりしない。だって私は誠を、……(零しかけた言葉を一度飲み込み彼の傍へと身を寄せて。耳朶擽った心地良い声を想起し、微笑みを浮かべたならば爪先立って彼の双眸を覗き込み――其の瞳の下、頬の上。そうっと唇寄せて触れる其の場所は想い通わせた朝焼けの時を辿る様に。)――……愛してるわ、誠。(気恥しさに頬を赤く染め、小さな声で囁く睦言は終わりの前夜に秘した其の言葉。改まる程に羞恥が募り瞳を彷徨わせるも、ちらと双眸を上目に窺えば、悪戯めかして其の下唇にリップ音を立て口付けた。噛み締めた唇の痛みを癒すように、其の声を更に強請るように。「…誠。」一ヶ月分の愛慕を捧げ彼に請われるが侭、其の名を繰り返す声には甘い熱が籠っていた。) | |||||
嬉しいよ。…けど。幸せにする、される、じゃなくて、2人で、幸せになりたい。 | |||||
(――其処彼処から伝わる愛しい温度。さざめいていた心に齎される安寧は、其の深い碧に良く似ていた。零れた涙が今度は正しく幸福示すと理解するは、確かに共に過ごした記憶故。)……君は俺に甘過ぎる。……でも、言われてみれば、それ以外に捨てなかった理由がないんだ。昔の俺なら、迷うことなく捨てていたはずの物だから。……なら、君のおかげだ。ありがとう。(思わず漏れた本音は常に包み込む彼女が、何時だって此の心融かしてくれるから。懺悔のように口端から落ちる言葉は、然して今の男と照らせば違和すら齎す過去の素行。変えてくれたのは、間違いなく彼女だから。行き着いた結論に、礼の言葉は自然と溢れた。――触れた両の手の熱、感じながら。)…何だか、励まされてばかりだな。うん、そうだと良い。…俺が何かをしなくても、思い出したかもしれないから、君の為になったかは少し微妙なところな気もするけれど。君がそう言ってくれる事に、君がそう感じてくれている事に、意味が有ると思うから。(相も変わらず素直な性根は誤魔化しを良しとしないから、彼女と視線絡ませながら素直に感ずるがまま言葉落とした。――耳朶に響く優しく甘い言葉に僅かに瞬く。それでも其の言葉に疑う余地など無く、釣られるように小さく笑った。唐突に中断された彼女の言葉に声掛ける間もなく、近付く距離と、心をも捉える碧眼に否応なく思考停止。唇触れた箇所を先まで頬撫でる彼女の手に重ねていた指先てそうっとなぞれば、漸く理解した状況。そうして言葉返すより先に、また、甘い言葉が鼓膜を揺するから。変わらぬ愛情に、胸中に幸福満ち満ちて。色付く頬も、其の深碧も。愛おしくて愛おしくて。―軽快な音と共に下唇に温もり感ずれば再び瞬き静止するも、重ねて呼ばれた名にもう我慢ならないと、彼女の左手握る右手を少し引いて、有りっ丈の恋情込めて抱きしめた。)…小百合。(何時かの流れ、準るように。彼女が自身の名呼んだ数と同じだけ、彼女の名を呼び返そう。――そうして、昂ぶった感情の波が少しだけ引いたならば、)……俺、まだ。愛が何か、とか分からないけれど。君を想うこの気持ちがそうでないなら、きっと一生分からないと、思う。それくらい、君の事が好きだよ。(空いた左手で彼女の長い後ろ髪撫でて。嘘の吐けぬ不器用で生真面目な性根故、彼女と同じ言葉を返す事は敵わないけれど。そうして笑み零して、彼女抱く腕の力緩めて、今度は此方から彼女の瞳を覗き込みながら、)……1ヶ月分の小百合が足りてないから、もう少しだけ、離せそうにない。……HR、少し遅れても、良い? | |||||
……えぇ、2人で幸せになりましょう、…これからは誠と一緒に生きて行きたいもの。 | |||||
……私は自分の感じた事を言葉にしただけよ。…それにね?君の心を信じられるのは誠が私に誓ってくれたおかげなの。だから、どういたしまして。それと、私からも…ありがとう。(抱いた想いを口にする。彼の心を信じられる。彼が自分を受け入れてくれたからこそ成し得る事ばかりだから。窘めめいた言葉を受け不可思議気に碧眼を瞬かせるも、口唇より零れる調子は平素の彼を真似て。先頃まで触れていた己の薬指を瞳に映せば緩々と浮かぶ微笑みには幸福が滲むから。憂いも喜びも分かち合わんと自分も感謝の想いを声にした。――素直な彼の思いに返す首肯は深く、嘘偽り無い姿にまた愛しさが込上げる。然し、はたと自らの言動を振り返れば恥じ入るように僅か俯き瞳は地を彷徨って、)ごめんなさい、君はこんなに心を砕いてくれているのに私ったら自分の事ばかりで…。……本当にね、嬉しかったの。例え記憶が戻っても君が傍に居なかったら私、寂しさに押し潰されていたと思うから。誠が来てくれて、名前を呼んでくれて、……幸せなの。(此の言葉に意味があるならば、少しでも沢山、心に広がる温もりを伝えたい。願う程に想いは溢れ、舌に乗せる度に安らぎを得て。届け切れぬ思慕の奔流に意図せず声を詰まらせながら柔い声音で囁きちらと彼の姿を窺った。――繰り返される瞬きと緩慢な其の仕草。記憶に残ると良く似た姿に覚える胸の高鳴りは甘く、緩む頬を抑えきれず「可愛い人」なんて零すつぶやきはうっそりと。―すっかり心奪われ黒々とした瞳を見つめるばかりの女が彼の情動の変化に気付ける訳も無く。僅かな引力に導かれるが侭、短い悲鳴と共に彼の腕へ飛び込んだ。驚きは一瞬。其の腕の温もりに、伝わる鼓動の穏やかさに。抱く安堵と心地よさは夜毎、揺蕩う夢を彷彿とさせたから、)…やっぱり、本物の誠が一番ね。(微睡むように瞳を細め独り言ちながらころころ笑えば頬に触れていた右手を回し、そっと彼の背を静かに撫ぜた。――真直ぐな其の恋慕に速度を上げた鼓動を感じながら、募る愛しさに回した腕へ力を籠めたなら堪え切れぬと彼に身を委ね、)……大丈夫、大丈夫よ。…少しずつ時間を掛けてゆっくりと伝えるから、想いを重ねて二人で一緒に考えましょう?……私たちには未来があるんだから。(はらはらと涙を零す碧眼が見据えるは、希望に満ちた二人寄り添い歩む未来。共に悩めばこそ、得られる想いは新た愛しさを伝えてくれる筈だから。とは言え答え何て決まっているのに此の心を問うてくれる彼へ恋焦がれる想いは募る一方で。交錯する眼差しに目許は熱を帯び、蕩けた笑みが自然と零れて、)…もう、……良いわ、今日は特別。一緒に悪い子になりましょう?…だから、ちゃんと私を感じて誠の心を満たしてね。(これで名実共に共犯者、なんて。真面目を気取った窘めも束の間、くすくすと肩を揺らし相好崩す姿は幼子の如く。――けれど、彼と過ごし意志持つ程に欲深な自分が首を擡げ、彼に全て捧げる以上を望み始めてしまったから。一瞬一秒でも言葉交わし触れ合いたいと胸へ芽生えた情動に羞恥を覚え其の瞳から逃れんと逸らす視線とは裏腹に彼の背へ添えた指先にきゅ、と力を込め、)……その代わり、…わ、私のことも……誠で一杯にしてくれる? | |||||
…そのために、まずは部屋を探すところから始めないとね。忙しくなりそうだ。 | |||||
(何処かで聞いたような言い回しに、僅かに瞬けば自然、笑みが零れた。よくよく覚えがある感情を、彼女が抱えてくれているのだとしたら否定するのも筋違いと云う物。口唇は弧を描いたまま、「うん。」と首肯と共に、彼女の謝辞を漸く受け取った。――そうして、俄かに外された視線に首傾いで、)……何度でも言うけど、俺は俺のことしか考えてないよ。だから、君も自分の事だけ考えてくれて良い。…俺の勝手で君が喜んでくれているのなら、それ以上に嬉しい事はないし、…俺も今。君が自分のため、にした行動で幸せな気持ちになったしさ。……、君がどういう事を考えているか、とか。そういう事はね、聞ければ聞けるだけ嬉しいから。(控えめな彼女の視線受ければ、自然落ちる言葉は 柔く拙く。相も変わらず押し付ける身勝手は、然し願いにも似て。胸に満ちる暖かさは、彼女の傍に在ればこそ感じられる物に違いないから。――彼女の唇が触れた箇所は未だ熱篭り、撫でれば余韻増したようにすら。そんな中、彼女の声が耳朶震わせれば、照れたような笑み覗かせつつ、「…君からされるのは、いつまで経っても慣れる気がしない。」と零す文句は甘い色調にて。―衝動の侭腕に抱いた温もりは、僅かな隙間を彼女で埋めてくれる。そうして、背に感ずる彼女の優しい温度は、何時かと同じに優しいから、)…今は、夢の中の俺にも妬いてしまいそうだな。(なんて、熱に浮かされた戯言一つ。)……そうだね。失くした時間よりも、…出会う前の時間よりも、きっと今から君と過ごす時間のが長い。…君と会って、色んな事が 少しずつ分かるようになったから。これからだって、きっとそうだ。(先頃まで髪撫でていた左手で、彼女の頬伝う涙をそうっと拭えば、小さく笑ってそう述べた。過去惜しむよりも先見据える彼女の強さが愛おしく、また、描く未来信じてくれる事が嬉しくて。降り積もる感情に解見出す日も近いだろう。)…ありがとう。…本当は我慢するつもりだったんだけど、どうにも出来そうにない。(愉快そうな笑声が耳朶打てば、呼応するように肩揺らし、そう零した。せめて1日くらい、と自身に課した罰の筈だったのに、募った恋情は彼女を眼前にして落ち着ける程優しい物ではないのだから。僅かに感ずる力に瞬き、視線絡まずとも、彼女の双眸を見詰めれば、鼓膜震わすは、愛らしい願い、)…勿論。(一瞬の沈黙は込み上げる情動飲み込む為に。して、歯切れよくそう返すも、直ぐに行動に移すことはなく、再び僅かな沈黙落とした。後、何時かのようにとん、と彼女の額に自身の額合わせて)……どうしたら、君は俺で満ちてくれる?…ねえ、小百合は俺にどうして欲しい?(低く囁き問うは些か意地が悪いだろうか。一度自身の枷外してしまえばもう戻す事等出来ずに。彼女の口から彼女の欲求をもっと聞きたいのだと、我侭に乞うた。) | |||||
でも、きっと充実した毎日になるわ。……ご家族にもちゃんと、お知らせしないとね。 | |||||
(自分を心の奥底へひた隠し半ば無意識の内に己を繕う度、穏やかな彼の言葉にどれほど救われた事だろう。繰り返し惑えども飽かず此の心を導く彼の温もりがただ嬉しくて。込み上げる恋情を噛み締めれば、自分には他の誰でもない彼が必要なのだと思い知る。けれど、満ちて尚も溢れる想いを抱けば言葉を紡ぐことさえ侭成らず、何度も子供じみた頷きを返すばかり。次第、落ち着きを取り戻せど謝罪や感謝はそぐわぬ気がして、「……大好き。」と睦言一つ。彼と共にあれば自分は変わっていけるから。晴れやかな微笑み浮かべ、抱いた確信伝えるべく絡めた指先へ力を込めた。――綻ぶ笑みも、愛らしい文句も好ましい事この上なく。心躍るときめきに小さな吐息を零したなら、「可愛い君に会いたくなったら私から触れるわね。」なんて、艶めいた囁きを。―強引さ滲む素振りも、感じる熱も愛しい記憶と何ら変わらぬ筈なのに今日の彼は何時にも増して愛らしく。ぽんぽん、と背中を撫ぜながらも心を射抜く其の言動に悪戯心が首を擡げ、)…夢の中の誠も、とっても優しく…抱き締めてくれたのよ。(彼の心へ漣立てんと煽るように嘯く儚い夢の情景には仄かな甘さを滲ませ。)私もね、君とだから気付けた事、感じた事…どちらも沢山あったから。掛け替えの無い毎日を大切に、生きていきましょうね。…まずは交わした約束を果たして、それから……新しい約束を幾つも結んで。(抗えぬ恐怖を体感し、分たれた時あればこそ日常を慈しむ気持ちは以前にも増して深く。平素と同じくして触れる彼の指先にも新た愛しさ覚えたなら擽った気に碧眼細め、回した腕をそっと解いて立てた小指を其の目前へ差し出した。「ずっと一緒、…ね?」と小首を傾げて乞う一つ目にはそんな当たり前の約束を。)じゃあ……私、おあずけされずに済んだのね。(満たされたい、満たしたい。冗談めかせど際限無い欲の一端を零す声は恥じ入るように小さく、小さく。未だ視線交わす事さえ気恥ずかしいと、彷徨う眼差しは肯定を受けて期待の色を滲ませた。然し、落ちる沈黙に困惑と焦燥抱きそっと彼を窺えば至近距離にて見据えた黒曜に心まで囚われ、)っ、…そ、んな…こと……。(耳朶を打つ低音に身を強張らせ、募るばかりの面映さに示す躊躇いは其れが彼の望みと解すれば力無く。恥じらいを自制す建前とあさましい欲に溺れ彼を求む本能に苛まれ、濡れた瞳は悩まし気に揺れ動く。けれど、其の黒々とした愛しい双眸に最果て迄、此の心を見透かされた錯覚に陥るから。)……心も、身体も、…――この傷、だって。全部、誠に見せるから…沢山、私に触れて…もっと、私を知って、(彼にさえ晒した事の無い醜い火傷の痕までいっそ暴いて欲しい、なんて。震える口唇より熱を帯びた欲を零せばじわり紅が眦へと淡く灯る。全ては此の欲を望む彼の所為。嗚呼、でも今はただ、此の身を蕩かす彼の熱が欲しいから)…………キス、…して欲しい、です。(沈黙の果て、懇願めいた甘さ孕む囁きは消え入るようにか細く。昂る欲望はたった一人、愛し彼を求めて―。) | |||||
…俺の両親は暫く帰って来ないから、電話で。君のお母さんには、ご挨拶したいな。 | |||||
(何処となく唐突に思える彼女の言葉に、ぱちりと瞬くも、指先から伝わる熱も、其の言葉も、疑問に思うこと等何一つ無いから。返す笑みは晴れやかに、彼女の想い受け取りながら、「うん。俺も。」と此の気持ちを重ねよう。――何処となく照れ臭く、常に彼女はこんな心持ちなのだろうか、だなんて自惚れ含む推察為しつつ、艶やかな囁きに当てられたように今一度唇が触れた箇所を撫で、「…いつでも君から触れて欲しいとは、思うよ。」なんて、些か擦れた欲望漏らした。―久方振りに腕に抱く彼女の温もりが嬉しくて、一月分の喪失を埋めたくて。跳ねる心の幼さに、気がついては居たのだけれど、宥めるような仕草に加えて彼女の言葉が耳に届けば、)……君は時折、とても意地が悪い。(吐息と共に落とす文句は、何時かよりも随分と冗談染みて。僅かな間の後、「…今は。今ここに居る俺だけの小百合で居て。」と願う声色は切に。例え対象が自身であっても嫌なのだと、何処までも幼い独占欲を顕にして。)…うん。一歩一歩、君と一緒に進んでいきたい。部屋も探して、指輪も買って、写真を撮って、料理も教えて貰わないとね。…俺は、君と何処か遠くに行ってみたいな。君の目に映る世界を、もっと知りたいから。(頷いて意思述べ、交わした幾つもの約束反芻しよう。次いで、あの日思い着く事が出来なかった自身の希望も並べて。背に感じる彼女の温もりが遠ざかれば、名残惜し気に瞼伏せるも、眼前に迫る彼女の小指が愛おしくて、安堵にも似た笑顔覗かせ、自身の小指絡めて、「…約束する。ずっと一緒に。」と言葉と共に、絡んだ小指へ口唇落とした。――小さく、然れど確かに聞こえた言葉は、想定外も良いところで。彼女が少しずつでも、其の欲求を見せてくれる事がこんなにも。喜びから自然と口端には笑み広がり、)…君が余りにも可愛いから。(と、短く言葉落とした。絡まぬ視線も、彼女の心持ち考えれば愛しさ募る一方で。此方に向かう彼女の視線受ければ、先の仕返しとばかり、悪戯に双眸細めて、請う。戸惑う声が聞こえようとも、黙して彼女を見詰めるばかり。――然れど沈黙続けば、流石に意地が悪かったろうか、と口唇開こうとした、其の瞬間、望んだ以上の言葉が、此の心に響くから。)………っ、本当に、(背筋駆けるは熱情。漏れた言葉は何かを表現するにはお粗末過ぎた。可愛くて、愛しくて、もっと深く、触れ合いたくて。――更に小さな其の声が、此の耳に届いたのならば。そもそも彼女の前では脆い理性の壁が完全に崩れ落ちた。彼女の顎に手を添え、そうっと彼女の口唇に触れ、何時かのように乱暴にではなく、上唇と下唇、交互に愛撫するように。ゆっくりと彼女の口唇堪能し、漸く離したと思えば、「足りる?」なんて疑問符投げるも、彼女が答えるより先、「俺は足りない。」と、身勝手に述べ、今一度唇重ねよう。先よりも深く。幾度か口唇離しては、浅い息吐き、角度変えて口唇貪る、其の繰り返し。それでも、夜明けの屋上や、彼女の部屋での其れよりも、幾分か優しく、理性的に。――幾度目か、名残惜し気に離れれば、)……そろそろ、時間かな。君が余りに可愛いから、屋上にも行かせられなくなるところだった。(HRは恐らく随分前に始まっている頃合、級友達は平素品行方正な二人組が其の場に居ない事に不審がっているかもしれない。これ以上遅れると、探しに来られてしまう可能性も有るのだから。―自ら強請った癖にそんな文句を零して、)戻ろう、教室に。…教室前まで、離さなくても良い?(身体離す代わりに、右手で彼女の左手握りつつ、そんな確認を一つ。――歩む足取りは、一月振りに幸福に満ち。道中、「また今度、ゆっくり君に触れたい。…傷も含めた、全てに。…約束。」なんて、零す囁き甘く。――彼女が隣に居れば、それだけで、描く未来は光に溢れる。彼女の存在こそが、此の道輝かせるのだから。彼女の温もりを一番近くで感じられる喜びを噛み締め、今日も明日も、其処から続く更なる未来へも また、一歩。) | |||||
…うん、一緒に。誠が居るから私は幸せだって、…母にちゃんと伝えたいの。 | |||||
(声や表情、其の仕草。彼の織成す全てに翻弄されがちな日々を思えば現状は常の立場が逆転したにも等しく。滅多に味わえぬ心地に浸り、面映ゆさ滲む姿を目に留める度に先の宣言とは裏腹な願望がゆっくりと胸中へ広がって。思わず突き動く指先と共に芽吹いた情動を押し殺すも、束の間。鼓膜揺るがす其の欲に掻き乱された心を制御出来る訳も無く。「今日はこれで我慢してね、…おねだり上手さん。」いつかのように爪先立って、其の耳朶へと口唇寄せて。秘め事めかした吐息混じりの囁き零し、叶うならば其の侭、口唇にて耳の輪郭へ淡く触れようか。さて、真に我慢を為すべきは彼と女、果たして一体どちらやら。)……ごめんね。…君の可愛い反応を見たくて、つい。(過去と比べ幾許もの柔さ呈す懐かしき遣り取りに彼を真似て付け添えるは甘い戯言。然し、幼き頃の己と重なる真摯な声音に深い碧を細めたなら、「勿論、…今の誠だけを感じるから。…私の事も、独り占めしてね。」と紡ぐ想いは愛おしげに。少しでも不安取り除かんと心も身体も全てを重ね合わせ、甘く爽やかな香水の残り香を少しでも彼へ移さんと、其の胸元へ身を摺り寄せた。)ふふ、…部屋は早く決めなきゃね。指輪も、二つで一つになる図柄が良いな。それから、……折角だから写真は色々な所で撮りましょう?時間を作って、色々な所を旅行して。帰ってからも、二人で重ねた時をちゃんと振り返れるように。……最初は、何処が良いかしらね。贅沢な悩みばかりで本当、…困ってしまうわ。(彼が新たな望み添えればこそ綻ぶ表情は幸福に満ち、彼と過ごす時を思い悩める喜びが果ての無い遠い未来を鮮やかに色付ける。何処か揺らぎ見せる表情へ瞬きを落とすも絡めた小指に触れた温もりが心へ安寧齎すから、「…君の隣が、私の居場所よ。」なんて、垣間見えた憂慮を拭わんと一度、二度と柔く小指へ力を籠めた。――想い通わせた折から何度も紡がれた其の言葉に慣れる事など叶わぬ侭で。困惑、喜び、それから面映さ。数多の感情入り混じれば素直な感謝等、伝えられる訳も無く、)…やっぱり、趣味が悪いわ。(嬉々として跳ねる心をひた隠すべく身を縮めれば拗ねた調子の不服を一つ。悪戯な眼差しも当初は威勢良く睥睨し返してみせたものの、黙して彼と見つめ合うだけでいとも容易く頬緩むものだから。惑う碧眼は降伏の証に相違無かった。――漸く零した望む限りの欲を秘めた言の葉は刻一刻と時が過ぎるほど羞恥を煽る一方で。流石に欲深が過ぎたかと、伏目がちに瞳を揺らすも、彼の指先に促され再び視線を交わせば平素の触れ合い想起し強く目を瞑った。――けれど、淡く慈しみ満ち口唇を撫する愛慕は此の心まで蕩かすようで。篭る力はいつしか解け、温もりを得る度に募る甘美な熱に浮かされるが侭、彼の肩口に添えた手を這わせては、其の項を愛でるが如く幾度も撫ぜて。未だ燻る情動を持て余し、僅か生じた距離さえ惜しいと切なげに瞳揺らせば、問に応えんと紡いだ彼の名は再び重なる口唇へ吸い込まれた。吐息混じりの声にもならぬ声零し、強請るように柔くも深く、果てまで望むが侭に繰り返す口付けに耽溺した。――遠ざかる熱残る指先を握り、浅い呼気落とせば黒々とした瞳を覗き、)もう、またそんなこと言って。……先に我慢が出来無くなったのは誠じゃなかったかしら。(非難めいた色彩滲ませ澄ました調子を繕う傍ら、漸く於かれた現状察すれば今更ながらに周囲を窺って。さて、なんと言い訳弄したものかと巡る思考は左手包む彼の温もりに遮られ、)……皆にばれても知らないわよ。(全てを捧げた今も尚、此の心問うてくれる彼にまた愛しさ湧いて。冗談めかし囁けば得た熱を離す気概等更々無いと、握り返した彼の手を一度両の手で包み其の掌に口付けを。――肩並べ愛し人と同じ道歩む、幾度も夢に描いた情景はけれど、指先から伝わる体温とこの心掬い上げる彼の囁きを得て現と化し、心に咲く花は幸福の色を成す。「……必ず。…私の全てを、…君に伝えるから。」痛み放つ古傷も、胸の奥底秘めた欲望も、止めど無く未来にも新た芽生える恋情さえ。彼あればこそ輝き放つ全てに愛しさを寄せて。何時如何なる時にも彼の隣で幸せを紡ぎ想いを重ね永遠に続く愛を伝えよう。――いつの日か限りある時が終わりを告げる其の最果てまで。ずっと、ずっと。) |
3月6日(感情の侭に執る筆は、過ぎし日々を思えばこそ。) | |||||
---|---|---|---|---|---|
(3月6日。全てを思い出し、分かち合った昨日。1日経とうと処理の出来ない程の記憶と感情の渦に呑まれた足が向かうは商店街。買い求めたのは、生涯使う事等ないと思っていた便箋。季節柄か、然し一際目を引く桜舞う暖かな色合いの其れは、何処となく彼女を思わせたから。―――結果、一日仕事と為った其れを、彼女の部屋へと運んだのはすっかり日も暮れた頃。今となっては懐かしくすらある、影時間が訪れていたであろう時刻の、少し前。ノックをする事すらせずに、扉の隙間から滑り込ませた其れは、無事彼女の手に渡るかどうかも怪しいところではあったけれど、そもそもが自己満足。きっと大丈夫だと、根拠のない自信と共に。それにきっと、顔を見たら、離れられなくなってしまうだろうから。――彼女が其の存在に気がついてくれたのならば、空色に桜舞う、便箋と同じ柄の封筒が其処に在る筈で。開けば、几帳面な文字が整列している事だろう。) 小百合へ 君に伝えておきたいと思っている事があったのだけれど、顔を合わせると他の話がしたくなるから、君の真似をして手紙を書く事にした。…只でさえ、自分の想いを伝えるという事が不得手だから、纏まりがなくなってしまうのを許して欲しい。そもそも、まともな手紙なんて初めて書くんだ。君はきっと捨てはしないだろうから、手元に残ると思うと、緊張するな。 …少し、昔の話になる。 小学校、中学校と、俺の価値観が原因で、喧嘩になった事がある。…でも、結局は大きな問題になる事はなくて。小学校の時は教師から軽く注意された記憶もあるけれど、結局親にまでは伝わらなかった。友達、とも仲直りをして。中学校の時は、生徒間だけで一応解決した。もしここで、もっと大きな問題を起こしていたら、もう少しだけ早くに自分に向き合えていたのかもしれない。 両親は、きちんと俺のことを考えてくれている人達だけれど、結局、俺のそういう部分には、気がつかなかった。俺も、意図的に見せないようにしていたと思う。…それでも。多分、見つけて欲しかった。俺が何を言わなくても、気がついて欲しかった。 友人達は、理解だとかそういう物の前に、そもそも見ようとしてくれた事がなかった。俺がそういうところを見せたら、頭ごなしに否定された。普通じゃあないから、怖かったんだろうな、と思う。仕方がないと今は思うけれど、当時は多分、それが苦しかった。自分は理解しようとも、されようともしなかった癖にね。我ながら、馬鹿みたいに自分勝手だ。 だから、君に打ち明けた時、嬉しかったんだ。…俺は多分、君が受け入れてくれなくても良かった。その前に、君はちゃんと、俺を見てくれたから。…それだけで、十分に嬉しかった。認めてくれた、受け入れてくれた、否定しなかった、…最初は、そういう事が嬉しかったんだと思ったんだけど、もっと、根本的なところだったんだ。その時から、君は他とは違う、特別な人だったよ。 俺は、我侭だから、自分を初めてちゃんと見てくれた人を離したくなかったんだと思う。だから、作戦日に、君の姿が無かった時は焦ったよ。頼ってくれなかったから寂しかった、…そんな高尚な事じゃなくて。俺は、初めて得た存在が、自分から離れていくのが嫌だったんだ。だから、君が俺を突き放そうとした時、腹が立ったし、……もう一度、俺をちゃんと見て欲しいと思った。本当に、俺はずっと、俺のことしか考えていなかった。君はあんなにも、苦しんでいたのに。でも、楽になって欲しいと思っていた事も本当だよ。少し、信憑性に欠けてしまうかもしれないけれど。 今思えば、告白の返事をした時も、多分、君に離れて欲しくない一心だった。好きとか、恋とか、そういった感情は分からず仕舞いで、でも俺は君の傍に居たかった。君に傍に居て欲しかった。それだけだったから、君が泣いて喜んでくれた時、本当に驚いた。どうして良いか分からなくなった。…でも、同時に、守りたいって思った。傍にいたいだけじゃなくて、そんな君を守りたくて、…これはきちんと伝えたと思うけれど、誰にも見せたくなくなった。 後は、俺がどれだけ君の事が好きか、とか、そういう話になるから、その辺りはこれから何年でも掛けて、直接伝えて行こうと思う。 こう、文字にしてみると自分がどれだけ勝手で幼いのか嫌という程分かる。それでも、そんな俺に気が付けた事は、決して悪いことではないと思うから。だから、君にも知っていて欲しかった。君には、俺の嫌なところも、もっとちゃんと、知っていて欲しいから。それを知った上でも、君は俺のことを好きだって、言ってくれるんじゃないかな、と思う事が出来るから。 ああそうだ、伝え忘れていた事がある。俺、誰かに形に残る物を贈るのが、嫌だった。…自分基準でしか物を考えられないから、捨てられてしまうかもしれないと思って、怖かったのかもしれないし、単純に自分だったら要らない物を贈る事に意義が感じられなかっただけかもしれない。それでも、君には、形に残る物をあげたいと思った。使って無くなるような物じゃあなくて、後から見返せるような物。君から貰った誕生日プレゼントが、捨てられなくて、嬉しくて。だから君にも、同じように思って欲しかったんだと思う。だから、君の部屋に捨てられずにあの花束が在ったのを見た時、これ以上ないくらい、嬉しかった。 随分と、長くなったな。もう少し、纏めようと思ったのだけれど。それでも、ここ数ヶ月の事を一気に思い出したから、溢れていた感情を整理出来たような気がする。なんだか随分と押し付けがましい手紙になってしまったような気もするけれど、どうか笑って許して欲しい。いつか、君から貰った手紙のように、暖かい手紙が書けるように、俺ももう少し、努力しようと思う。 好きだよ、小百合。君の事が誰よりも。これからも、ずっと俺の傍に居て欲しい。 2010年3月6日 加賀美誠 | |||||
あったかい。……不思議ね、まるで誠の腕に包まれてるみたいだわ。 | |||||
(新たな始まりの日と成った卒業式翌日の夜更け。迫り来る影時間へ身構える事も無くなった日付変更間際のひとときを白百合咲き誇る自室にて過ごしながら、卓上カレンダーへ指を這わせた女は彼と重ねた月日へ想いを馳せていた。――彼と出会ってからあと少しで丁度、1年。想い通わせた己の誕生日からは記憶を失くしていた期間を合算しても未だ満の4ヶ月。思えば随分と駆け足で恋をしたものだと、安寧を取り戻したが故に抱く感慨は深くとも其処に不安の色は無く。真円輝く秋の夜、朝焼けの屋上、或いは此の部屋で交わした永遠の誓い。回帰したひとつひとつの記憶から溢れる愛しさを噛み締めては部屋へ満ちる甘くも爽やかな香りに頬緩め百合の花を模した香水瓶を眺めるばかり。其の上、新生活の準備に感けて彼との逢瀬も侭成らず一日を終えんとしていたものだから。胸裡へ芽生えた確かな寂寞に苦笑を零しながら思案に耽る事暫し。どうしたものかと芽生えた衝動を持て余し横目に扉を窺ったのだけれど。さて、扉の前、室内に存在す覚えの無い封筒は一体何事か。ぱちり、瞬きを繰り返しながら、それでも椅子から立ち上がり歩み寄れば今度こそ瞳に飛び込むは優美な桜と澄んだ空。拾い上げた桜をなぞれば、其の色彩からは暖かな心地が指先を介し心まで届くようで、)…もう、……声を掛けてくれれば良かったのに。(懐かしき決断の前日。彼もまた、同じ心地でいたのだろうかと自惚れめいた思考と逸る気持ちを抑えながら。封を切らずとも確信した送り主を想い、口唇より零れ落ちた戯言は甘く、募るばかりの愛しさに溢れていた。) (―――見覚えのある、生真面目な彼らしさ滲む几帳面に綴られた字列。平素より幾分かゆっくりと、時間を掛けて読み進めれば嘘言えぬ正直で実直な性分が窺えて。机に向かい苦心する愛し人の微笑ましい姿を想像すればころころと、些か人の悪い楽しげな笑みが零れ落ちた。けれど。幼き頃の彼の記憶に、初めて触れ得た想いの丈に、形を為した其の、こころ、に。湛えた微笑は闇夜へ溶けて、頬を濡らす雫が深紅の膝掛けに小さな痕を刻むばかり。それでもまだ、溢れる感情の奔流は留まる所を知らなくて、抑え切れぬ嗚咽が静寂で満ちた世界に終わりを告げる。)……、…打算だって、…あれほど、…言った、の、に。(贖罪の為、憐みから逃れる為、其の見返りに肖る為。綺麗な笑顔を浮かべて、孤独を知らず余裕に満ちた振りをして。甘い言葉と優しい素振りで強くて凛とした母の如き姿を繕い、全てを受け入れさえすれば誰もが心を許してくれた。あの子の為と嘯きながら、其の裏に秘めた本当の願いを口にせずとも叶えてくれた。だから、彼からも。ただ自己満足に浸る為に手を伸ばすべく其の心の隙間を探り、付け入る為だったのに。空っぽの自分が取り繕わずとも為せる術が他に無かっただけだったのに。彼はこんなにも、素顔の自分を必要としてくれたから。)……そんな、君だから、…わたし、恋に、落ちたのよ。(直向きで責任感が強く、身勝手で我侭な、自分に無い物を沢山持った彼。其の心の思うが侭に、自分を求めてくれる愛しい彼。――他の誰かでは抱く事も、気付く事さえも出来なかった大切な想い。嫌われなければ其れだけで、十分だった。だから、傍に居たいと言ってくれただけで、嬉しくて。嬉しくて。余りの幸福に流れる涙もあるのだと初めて身を以て実感した。嗚呼、けれど。新たな彼を知る程に、恋へと落ちて随分と欲張りになった自分の心は今や其れだけでは、満たされないから。)……ねぇ、…もう私、独りじゃ涙さえ拭えないのよ。(再び封筒へ収めた手紙をそうっと彼の心へ触れるように、柔く恋慕を込めて抱き締めて。巡る想いと幸せに零れる涙に構いもせず、淡い微笑を一人零した。――喜びも、悲しみも。心揺らす沢山の想いを享受し、穏やかに世界を見つめる彼と共に。ずっとずっと、柔かな笑みを零す彼の隣で数多の恋慕を伝え、二人で幸福を紡ぎ自分も笑っていたいから。未来永劫、例え二人別たれる日が訪れようと、この心は彼と共にいつまでも。どんな時も、たった一人だけに捧ぐ此の恋心を、――君に。) (誰もが寝静まり街の明かりが消え、夜の帳に星が煌めきを灯す頃。眩いカサブランカの傍らへ暖かな想い詰まった手紙と香水瓶を添え、密やかに部屋を抜けだした女は一つ下の階、彼の部屋の前へ佇んでいた。夢の世界へ微睡む彼を呼び戻す気概など、更々無い。それでも胸に満ちた幸福を、此の身を包み込む温もりを。少しでも早く、彼に伝えたかったから。)…愛してるわ、誠。(甘い睦言を囁き、想いを乗せて折り重ねた薄紅色の千代紙を幾つも丁寧に組み合わせ、形作った掌サイズの桜の花にそうっと優しく口唇寄せて。数時間前、彼が為したと同じように其の扉の隙間から、彼の部屋へと忍び込ませた。僅かに染み込ませた彼と揃いの香水が送り主を告げる事を願いながら、明日の朝、彼が一番に自分の元へ駆けてくれる事を祈って。――新しい生活が幕を開けたら、良く晴れた青空の元、咲き誇る桜の花を彼と共に見に行こう。満開の染井吉野、薄紅連ねたしだれ桜。彼にはきっと、鮮やかな緑に咲き誇る真白な花弁が良く似合う。やがて訪れる幸福を描き、踵を返した足取りは静かに夜の寮を行く。――いつの日か自分も愛を籠めた花束を彼に。いつまでも幸せを重ね、共に生きる未来への約束をまた一つ、胸に秘めて。) |
3月9日(隣室の様子を窺いながら、部屋で息潜める理由と言えば。) | |||||
---|---|---|---|---|---|
(愛しき記憶を取り戻し、待ち望んだ春の時を謳歌して。以前にも増して色鮮やかな平凡を慈しみながら日々を過ごす徳永は然し、有り触れた毎日に浸るだけの余裕を持ち合わせてはいなかった。記憶が戻った卒業式が3月5日、4日前。本来ならばもっと時間を掛け、知恵を絞って今日に臨めた筈なのに。憂いようと戻る事無い時の尊さを知れども巡る悔恨と口惜しさは致し方無く。記憶を取り戻した状態で彼女の誕生日を迎えられた事がせめてもの救いだった。――然し、仲間達との約束を果たした今も尚、心に巣食う罪の意識が邪魔をして女は前へ進めずに居た。脳裏を過る前夜の記憶。確かに交わした彼女との、約束。あの忘却は致し方の無い摂理かもしれない。恋人や友人、仲間へ抱く罪悪感が薄かったわけではない。比較なんてそも、出来るようなものでは無い。けれど、彼女はいつだって自分との約束を破らずにいてくれたから。其の手を伸ばしてくれたから。たった一度、再会の時に告げた謝罪だけではとても足りない気がしていた。無論、為すべき事ならば分かっている。けれど、未だ自ら足を踏み出すに多大なる勇気を弄す女はメール一通送れもしない侭、彼女と自分の部屋を別つ酷く分厚い壁に背を委ね自室で其の時の訪れを待っていた。ひょっとすると、既に予定が入っているかもしれない。何処かへ出掛けるかもしれない。それでも、何とか今日を終える前に彼女の生誕を祝いたくて。――早朝、朝焼けの時分よりひっそりと息を潜めた成果はさて、いつ頃訪れた事だろう。元はホテルと言う寮の一室は生活音こそ遮れど、開いた扉の閉まる音ばかりは確かに此の鼓膜を震わせる筈。おまけに室内で終日を過ごせる造りではない、だから。彼女が廊下へ足を踏み出した瞬間を見計らい、些か急いた調子にて開け放つ扉の勢いは強く、けれど確実に彼女の視界に飛び込むタイミングを見計らい、)…あっ、あら、玄。ぐ、偶然ね!(上擦った声、背後に隠したリボン纏った小さな箱、如何にも慌てた其の姿。偶然と嘯くには無理のある現実も、ストーカー宜しく隣室の様子を窺い続けた自分の不審者ぶりも十分理解してはいるけれど。良くも悪くも真直ぐな彼女が現状へ面喰ってくれる事をいっそ祈りつつ。「丁度良いわ。少し、お時間頂ける?」なんてあくまで偶然を装いながら首を傾げて問い掛け一つ。胸を押えて深呼吸を繰り返せば、落ち着きを取り戻した碧眼にてそっと紫の瞳を見据え)……ごめんね。…ちゃんと君の言葉は聞き届けた筈だったのに、……私、玄との約束を破ってしまった。(漸く告げた謝罪は未だ十分とは思えずに。あの日、言葉交わした彼女の姿を脳裏に描けば「ごめんなさい。」と再度舌に乗せた言葉に合わせ、自然と其の頭を垂れた。然し、此の胸に宿った思いは過去に対する謝辞だけでは無かったから。再び紫を覗くと同時、穏やかな微笑みを浮かべて)だから、……私ねもう一度、玄の親友になりたいの。大切な今日を、…玄の誕生日を始まりにして私達の絆をもう一度、繋ぎ合わせたい。例えここを離れても二度と忘れる事なんてないように、…君ともっと沢山、思い出を作って行きたいから。(溢れて止まぬ思いの奔流を綴る声音は酷くゆっくりと、欠片も漏らさず彼女の元へ届く事を祈るが故に。一方的に吐露する思いに、随分と自分も我侭になったものだと内心苦笑を洩らしながら、然して幾分晴れやかな気持ちにて彼女の瞳と同じ紫に彩られた細長い小箱を差し出した。)お誕生日おめでとう。……君の誕生日をこうして祝う事が出来て私、とっても幸せよ。(「ね、開けてみて。」と開封を促しながら、遠い未来を見据えるように安堵の色彩滲む碧眼をそっと細めた。――箱の中、姿現す透明な硝子細工の花の中心には彼女の瞳より幾許か深い紫の石。連なる銀の鎖には葉を模したチャームと小さな青や紫の硝子が連なって。繊細な意匠を誂えた一本の簪は幾許か伸びたと言え彼女の短い髪を彩るには、まだ少し時間が足りないかもしれないけれど。)春の思い出はきっと、此の寮にいる間にまだ作れると思うから。…夏になったらまた、一緒に夏祭りへ行きましょう。まずは可愛い浴衣を誂えて叶うなら其の簪を挿して、…難しければ今年は帯飾りにでもして。……あの日、君が声を掛けてくれて本当に私、嬉しかったんだから。(過日へ思いを馳せ、浮かべる笑みは自然穏やかに。彼女と過ごした一年の時は短くとも確かに今、此の心に息衝くから。)おめでとう、玄。…これからも宜しくね、可愛い私の親友さん。(学校や寮、或いは非日常を体感した仲間。二人繋ぐそんな共通点が途絶えども、共にする時間が減ったとしても。彼女が頷いてくれさえすれば、今一度、繋ぐ絆の前には然したる障壁には成り得ぬと信じる心は強く、強く。どうか、彼女の元へ数多の幸福が降り注ぎますように。鈴蘭に託した願いだけは決して変わる事無く、今も女の胸には其の証たる白百合の花が輝いていた。) | |||||
毎年何でもない日だったのに…不思議だな。生まれたことを感謝する日になった。 | |||||
(後輩よりも一足先に迎えた春休み。退寮や進学に向けての準備に勤しむ日々の中、学校は無くとも平生と変わらぬ時間に起床し、3月9日、この日が何の日かなんて毎年の如く忘れ去った頭で朝食を作りに部屋を出た。――時刻は6時を回った頃。ガチャ、少々気を遣って閉めた扉が大きな音を立てることはなかったが、閉じた扉の横でバタン!間髪を入れず開いた扉。現れた少女。いっそ偶然と呼ばなければ納得出来ないような現象を前に驚き立ち止まるも)……おはよう、小百合。…すごい偶然だな。(幾つか見つけた不審点を指摘することもなく、見開いた目に驚きの名残を留めつつも、まずは昨日と変わりない朝の挨拶を告げ。そして、此方がどうしたと尋ねるよりも早く与えられた問いに頷きで返せば、些か落ち着きのない彼女自らの口に全てを委ね――思いの丈を、聞き届けた。最中、垂れた彼女の頭を前には何も言えず、けれど微笑む碧き瞳と視線を交わせば、長い長い沈黙を経て、ようやく言葉がこぼれ落ちた。先程よりもずっと大きな驚きを携えて)……ずるいな。…やっぱり小百合はずるい。(誕生日。その言葉を聞くまでそんな事は忘れていたし、祝辞を受けても尚今日が誕生日である実感など湧かなかった。だって、自分の生まれた日なんて知らない。それでも、)…嬉しい。…嬉しすぎてびっくりする。こんな誕生日、はじめてだ。(彼女の真摯な想い、それは事実よりもずっと大切な真実。して、寝起きの頭には夢のようにも思える喜びの連鎖はまだまだ続き、手にした宝箱。中身はさて、なんだろう――リボンを解き、蓋を開けてみると、視界に咲いた花。目にした瞬間の歓声はなく、沈黙を重ねて示す感動は相変わらずで)……きれいだ。…(箱の中、鎮座する煌きを手に取り、やっとのことで声にした感想も酷く簡潔なものだが、繊細な造りを壊さぬようにと大切に扱う手つきに本音は滲み、そっと朝陽に翳せば、きらきら光る硝子細工。それを映す紫もまた喜びの輝きに満ち、)…ありがとう。……夏までに頑張って、また髪伸ばさなきゃ…だな。(浮かべた嬉色はしかし、小箱に戻り輝きを隠された簪と共に陰りを見せる。冬の逢瀬のときには少しだけ伸びていた髪も、記憶と共に奪われていた。当たり前のように鋏を入れ、再び短く跳ねた襟足。すっきりとした項を指先が掠め、蘇る2月の喪失感)…過去は消えない。変わらないって思ってた。…それなのに、俺、小百合のこともみんなのことも忘れて、全部無かったことになってた。(失くした記憶と残された過去。覚えのないアクセサリーやヘアピンを見つけては首を傾げ、そのくせ処分も出来ず、知らぬ間の変化に戸惑う日々)…思い出したときは悔しくて悲しくて、自分を責めたり皆に謝ることばっかり考えてた。……でも今は、それよりも嬉しいんだ。…忘れたことも全部含めて、俺たちの過去でいい…そう、思えるようになったから。…だからもう、ごめんは要らない。俺からも、ごめんじゃなくて、ありがとう。…思い出してくれて、もう一度、俺と親友になってくれて。(ばらばらだった感情のピースがひとつになった今、溢れる歓びと愛しさで緩んだ涙腺は言うことを聞いてくれそうになかった。堪えるのはあんなに得意だったのに。濡れた苦笑を切欠に、永遠は叶わないと知りながらも目の前の幸福を抱き寄せるは我慢を忘れた幼子の如く)…こちらこそ、これからもよろしく。……――この先一緒に居られる時間が減って、また小百合の居ない生活が普通になることがあっても、たまにメールしたり、遊びに行ったりしてさ…そしたら、その度に小百合が大事だってこと思い出して、俺は幸せになれると思う。(あの夏の日から季節は巡り、春になった。今日まで、振り返れば重ねてきた二人の想い出が在って、前を向けば約束という名の未来が続いていく。いつしか過去の幸せの記憶が薄れたとしても、また新たな想い出を築けばいい。彼女がかけがえのない友であると気づく度に、幸福の再来、その願いは叶うはずだ。きっと、何度でも)小百合のおかげで、俺は幸せになれるんだ。……だから、ほんとうに、ありがとう。 |
3月9日(遠い地にて馳せる想いも饒舌な愛も、小さな箱に押し込めて。) |
---|
(三月九日、正午頃。卒業式の翌日に退寮した男の新たな住居と思われる住所から少女の元に、両手ほどの大きさで蓋部分にプリンセスと思しきシルエットが印刷された紫色の箱が届くだろう。シフォンのリボンで括られた其れの中身は、優美な白鳥をモチーフにしたシルバーとホワイトのイヤリングと、淡い桃色のマニキュア。そして、一通の手紙。均整の取れた丁寧な文字で綴られた手紙には仄かなフゼアの香りが付着しており、以下の言葉が長々と連なっている。) お誕生日おめでとう。玄ちゃん。まさひとです。直接お祝いができなくてごめんね。九日のお昼には届いてると思うけど、ドジやっちゃってたら、それもごめんなさい。 あと卒業式の時も言ったけど、君のこと忘れてたのもごめん。約束したのに、破りかけてごめん。 …今、君は俺のことを謝ってばっかりだなコイツと思ってるだろうね。でも、本当に申し訳ないと思ってるし、こうして顔が合わせられないのはそういう気持ちもあるからなんだ。 まあ実際は俺が忙しすぎて死にそうってのが大体なんだがな。引っ越しと独り暮らし、すげぇ大変。それに俺が受かったところがバカみたいに頭よくてさ、あ、自慢じゃなくてね?そうじゃないんだけど、俺でも勉強しないとやばいのね。あと課題もやばい。それと、体力も取り戻さなくちゃいけなくって。走り込みとかトレーニングとか、そういうのもあって、 忙しいわけ、なんです。……言い訳ですね。でももうちょっと付き合って。 …俺は今、将来の夢を叶える為に頑張ってます。アスレティックトレーナー、ってわかるかな?簡単に言えばスポーツ選手のサポートをする人。俺、自分が叶えられなかったから、運動神経良い人は今まで本っっっっっっっ当に嫌いだったんだけど、なんか最近考え方が変わってさ。俺自身がなろうとはもう思えないんだけど、せめてそういう人たちを助けられたらなって思えるようになったの。すげぇ成長っしょ?……うん。そんな感じ。折角できた夢だから、もう諦めたくねーんだ。でも君のことも諦めるつもりはないし放っておくつもりもないし、……今日は本当に申しわけないんですけど、…いっぱいいっぱいの俺見せてもなぁって思うので。ごめん。勘弁して下さい。 ――その代わり、来年の3月9日は丸一日、俺にくれませんか?…都合よくてごめんね。でも君が生まれてきてくれたこと、本当に感謝してるんだよ。だいすきだもん。 あ。勿論、来年まで俺ももつ自信はないから、…春休みに遊園地、行こうな。夏ごろには俺も大分落ち着いてると思うし、そこからデート沢山して、 俺の母親にも会わせたいなって思ってるよ。引越しの時にちょっと話したら、すげー興味津々だったし、たぶん、滅茶苦茶可愛がってくれると思う。 それでな、出来れば俺も君の親に会わせてくれると嬉しい。――…約束、一生傍にいてくれるって言ったから、挨拶しておきたいんだ。どんな立場でもいいから、考えておいてくれる? よろしくな (あの。でも俺、アメリカに留学するかもなので、早めの方がイイかも?です。ワガママごめん。) プレゼントはピアスはまずいかなと思ってイヤリングにしました。可愛いやつ。君がつけたらもっと可愛いと思う。間違いねぇよ。あとマニキュアは女の子らしくなるかなって思って。ナチュラルなやつだからそんなに違和感はないと思うぜ。あと指が綺麗だったら指輪も似合うだろうから、いつか って意味もこめて。 …ところで玄ちゃん、白鳥がでてくる有名な童話って知ってる? ―――…君は君が思ってる以上に、可愛くて綺麗で、強くて、愛してくれる人間がいるってコトだよ。…出会えてよかったね。 それじゃあ手紙までうるさくなっちゃったら、俺ただのうざい人になっちゃうから、寂しいですがここら辺で終わりにしようと思います。すきです。 …急だと思った?笑 本当はいつ書こうかなと思ってたけど、恥ずかしかったのと、直接言った方が玄ちゃんの可愛い反応が見れるからなあって温存してました。でも、やっぱり一番言いたいことはこれなので、書いちゃいますね。 好きだよ。すっげー好き。今すぐ抱き締めたいくらい好き。会えない日があると余計に好きって気持ちが大きくなるんだね。初めて知ったよ。玄ちゃんといると初めてってことばっかりで、楽しいし、嬉しい。ずっと、最後まで一緒に って約束してくれた時、俺、泣きそうだったんだ。ありがとう。本当に、 愛してるよ。 大切な貴女へ。 P.S. 近々会いに行きます。が、会いに来て頂いても構いません。…寧ろ、来て?さみしい。…勝手に離れといてなんだって感じだろうけど、君の将来の話とかも聞きたいから、…いっそ本気で一緒にいても、俺はいいんですが。……ただ、それまでに男の部屋に入ることの意味、もうちょっと考えといてくれると助かるよ。とかさァ、あーやばい追伸長い終わんない。文章ばり頭悪そうでごめん笑。この手紙は呼んだら廃棄してください。じゃあ、またね。 ほんとに会いに行くから。待ってて。 |
3月11日(生きることを教えてくれた貴女の幸せが、未来を照らす僕の灯火。) |
---|
(―――姑息な手段で祝った愛しい少女の誕生日から、数日後。夕焼けも既に沈み、窓から差し込む陽光が穏やかな月明かりに変わり始めた時分にて。少々久方ぶりに訪れた寮の中、足早に廊下を駆ける男の姿があった。たかだか数日空いただけだというのに妙に懐かしく感じるのは、残してきた想いが此処にあるからだろう。然して、先日したためた文字にも込めた通り、進むべき道を見つけられた今。今度こそ後悔をしない為にと選択したことは決して間違いではない筈だ。―――間違いといえば、それは“この前のようなこと”。なによりも大切な日を自分のプライドの為だけに無機質な紙とインクだけで伝えるなんて、まったくもってナンセンスだと、――気付けば足が動いていた。彼女の在宅は先程擦れ違った、これまた懐かしい仲間の一人に確認済みで、ならば、あとは眼前で閉ざされたその扉を三度ノックするだけ。―――だというのに。柄にもなく躊躇してしまうのは、送りつけた手紙の内容が脳裏でリフレインしているからだろう。――会いに行くとは言ったけれど、幾らなんでも早すぎるよなぁ可笑しいよなぁ――そんな思いが、ぐるぐるぐるぐる巡り巡って、あァもう当たって砕けろだと、開き直った心が握り締めた拳を緩く扉に押し付けた。コンコン、コン。―――。)……、…―――…。…っ、こ、「…コンバンハ〜。かわいい、かわいい…お嬢、さん?」(彼女が扉を開いてくれたのなら、視界いっぱいに真っ白な猫のぬいぐるみが広がることだろう。そして、その後ろには高く掲げたぬいぐるみに隠れるように、俯く男の顔。40cm程の大きな猫の脇を抱え乍ら、言葉に合わせて腕やら頭やらを動かす仕草はふざけているにしては少々ぎこちなくて、突発的な思いつきで、ついやってしまったという表現が適切だろう。だって昨日の今日だもん。やっぱり、恥ずかしかった。―――白い頬に仄かな桃色を乗せて、チラリとふわふわのボディから覗き見た彼女の反応は、どうだろう。連絡もなしに来て、驚いているのだろうか。――願わくばあの手紙の内容は思い出していませんように。考えれば考える程に赤らみを増しそうになる頬へと押し付けていたぬいぐるみは、数秒の空白の後。そっと彼女の元へ差し出して、 漸く、曝け出した顔はどこか困ったように、気恥ずかしそうにはにかんだ)……ぁ、あー、……来ちゃっ、た。(え、えへ。…あ!コレ、改めてお誕生日おめでとうのプレゼント追加ね。かわいいだろ?―――さも何でもないことのように、日常会話を始める体で喋り始めた舌は、すぐに絡まってしまう。なにか言わなければ。そう思う度に、この再会と、夢にまで見た愛しい少女が目の前にいるという事実にひどく胸が打たれるのだ。やっぱり、可愛い。好き。零れ出しそうになる言葉をグッと堪え きれる訳がない。それはもう、当たり前のお話で。「……玄ちゃん、追加の追加でプレゼントします」――故に。その言葉と同時、半ば強制的に贈った抱擁には、ともすれば彼女の肌を過剰に抑え付けてしまう程に力が篭もるのだ。愛しさが、抑え切れなくて。)…会いたかった。…ー、っ、玄ちゃん。…玄。……くっそ、やっぱ会っちまうと止めらンねぇわ…。……そんなに久しぶりって訳でもねぇのに。なんでだろ。忘れてた分なんかなァ…。……すげー寂しかった。……俺、ホントに玄ちゃんのこと好きなんだなって思わされたよ。……あ、君も寂しいだろうから…この猫は俺だと思って、可愛がってな?(そういやイヤリングはどう?マニキュアしてる?手紙、ちゃんと廃棄してくれたよな?――言いたいことは沢山あって、きっと、彼女を抱き締めることに満足すれば、思い出したようにそんな会話が始まるんだろう。でも、今はまだ、足りない。満足できない。――だから暫くは、このままその体温を感じて、不意に柔らかな頬に唇を落としたりして、終電も、別れの時も気にせずに、甘ったるい幸福感に身を任せてしまおう。蕩けた笑顔で最後に告げる言葉だけは、最初から決めていたから――、)…生まれてきてくれて、ありがとな。……あと、愛してる。(いつまでも。貴女との未来を、望んでもいいでしょうか。――肩口に埋めていた顔を真っ直ぐに少女へと向ければ、きらきら輝く瞳と黄金の花もまた、彼女へ降り注ぐ微かな光に成り得るだろうか。彼女が自分に言ってくれた“魔法の言葉”を思い出せば、もう一つ、言いたかった言葉が胸から溢れて、臆病な心に勇気を与えてくれる。勇者はどっちなんだか。――でも、それにしては君は可愛すぎるから、ねえ、ちょっとだけ勇ましくて、とっても可愛い僕のお姫さま。)…なぁ。すぐにじゃなくていいから…玄ちゃん。俺と、一緒に住まん?(しあわせにするよだとか、そんな言葉はまだ言えなくて、でも、僅かに強張った顔がへにゃりと緩んで、笑って、「これからも宜しくってコト!」――詰まり、言いたいのはそれだけ。辛くても苦しくても、病める時も健やかなる時も、この命ある限り――。俺は生きよう。君と。) |
幸せだよ。おまえと居るから。 |
(譲れない未来を勝ち取り、今日まで享受していた平穏が奇跡だと気づいた3月5日、その翌日、蘇った記憶に泣き笑う暇も与えてくれず、彼は姿を消した。――湧き上がった感情は怒りよりも悲しみ。これまでも顔を合わさぬ日は幾度となくあったけれど、会おうと思えばすぐ傍に彼が居た。どうして何も言ってくれなかったのか。あまりにも大きな喪失感。少なくとも退寮日まではいつでも会えるだろうと勝手に抱いていた確証もない安堵は容易く崩れ去り、残された者の戸惑いだけが横たわっていた数日間、自分の中の彼の大きさを思い知った。そして、沢山の祝福に包まれた3月9日。生まれて初めてマニキュアを塗った。匂いのキツさに眉を顰め、上手く塗れずに苛立ち、乾くまで暇を持て余した。3月10日。お世辞にも綺麗とは言えぬ爪は歪ながらも淡い桃色に色付いていた。あまりにも一方的な通達。その指で、追記通り手紙を廃棄処分にできたらどれだけすっきりしただろう。想像はした。けれど、早々に諦め贈り物と一緒に小箱に仕舞いこんでおいた。3月11日。「近々会いに行きます。」この一文に期待を募らせ二晩寝かせた寂しさは次第に膨れあがり、夜の帳が下りる頃、「会いに来て頂いても構いません。」その通りにしようと準備を始めていた。そうして明日には会いに行こう。我慢を忘れた少女の呟きは不意に聞こえたノック音に掻き消され、期待も予想も込めずに開けた扉の隙間から白猫が覗けば)……――……ばか。…何が、きちゃった…だ。(夢でも見ているのだろうか。始めこそ驚愕に閉口したものの、沈黙を重ねる合間にふつふつと湧き上がる怒りから元来の鋭さを十二分に発揮した三白眼は彼を睨めつけた。しかし、反射的に受け取ったぬいぐるみを抱き締める姿の所為で迫力は半減。不平を漏らす口調にすら上手く怒気を込められずに、)…ったく、…どうしておまえはこう、サプライズばっかりなんだ。…会いに来るなら事前に教えてくれって前も言ったろ…(不安を語るよりも彼らしさに呆れ、追加の追加プレゼントを受け取ってしまえばもう、隠しきれない悦びに赤く染まった眦、降参とばかりに目を伏せた。可愛がってと言われたそばから落としたぬいぐるみ。気に入らなかったわけじゃない。ただ、今この手で触れたいのは君だからと、たかだか数日、触れ合うほどに傍に在るのが当たり前ではなかったというのに、奪われていた温もりを取り戻すよう彼の背に手を回した。もっともっと。彼の紡ぐ祝詞と愛の言葉。触れたい。――そして、かち合った視線。齎された、とっておきの福音に)……選択肢なんて、初めからひとつしかない。もう、勝手に居なくなられたらいやだ。(傍に居たい。煌く淡緑に映る少女は頷いた。言葉にせずとも寂しかったと告げる指先に力を込めれば、最後の戦いの前、交わした約束を果たすべく、伝えよう。心からの愛を、感謝を、君に)…すきだよ。ありがとう。――…生まれてきてよかった。(自室、机の上に置かれた真新しいネイビーの手帳、真っ新なページが続く中、唯一書き込みが見られる2011年3月9日の欄には、“My Birthday 優一と一緒に”) |