「――…、ないで、ボクのこと、……ないで…。」
ぽつん。暗闇の中に三つの椅子とリビングテーブルが並んでいる。その内の椅子のひとつに座って、子供が一人泣いていた。けれど誰も気付かない。気にも留めない。見向きすらしない。其処に子供が居るという事を、みんな てしまっているから。けれど、 だけは唯一、いつも傍に居てくれた。ひとりぼっちの暗闇から光へと連れ出してくれた。 夕焼けの砂場。二つ仲良く並んだ影は引き剥がされてやがて一つになる。嫌がり泣きじゃくる子供の手を引く女性が強く言った。「此処にはもう居られないのよ。」と。 「…なかないで、だいじょうぶだよ。」 「またあおうね、ずっとずっと だよ。」「 」 絡め合った小指は、あたたかかった。其の言葉だけが希望だった。唯一だった。あたたかな小指は引っ越しを重ねる毎に熱量を増し、其れに比例して泣きじゃくる事もなくなった。また会える事にも、一緒に遊べる事にも疑いはなかった。彼らだけは でいてくれる。――――そう、思っていた。 「オマエ、 ?」 キャハハハハ、アハハハハハ。光はあっという間に暗闇に呑まれて、空間にたくさんの三日月が浮かび、嗤う。蔑むような声。非難の声。耳を塞いでも、どんなに力強く塞いでも、次第に増えて大きくなる其れが途絶える事はない。―――「どうして、」 だったのに。 だと思っていたのに。 ないって、約束してくれたのに。なのに、なんで皆、 てしまうの?笑い声が耳に入る度にぎゅうっと胸が強く強く締め付けられたように痛むものだから、ぽろぽろと両目から冷たい滴が生理的に零れ落ちる。どうしたらこの笑い声を止められるだろう?どうしたら、痛い思いをしなくて済む?すると暗闇に浮かぶ三日月の一つが、徐に口を動かした。 ≪――簡単なことさ。魔法の言葉を教えてあげるよ――≫ 空間から三日月が剥がれ落ち、仮面となって手元に残る。涙を浮かべて尚笑う、ピエロの仮面。身に付けて魔法の言葉を唱えれば、ひとつ、またひとつ、笑い声が消えていく。 ≪――― のが嫌なら、先に捨てちゃえばいい。全部全部 ちゃいなよ。今が楽しければ、別に長続きしなくったっていいじゃん―――執着するから、傷つくんだよ。≫ ……、…………。(――前回よりも鮮明な其れは、まるで何かを訴えかけられているようにも思えた。此処に来てから数度目の満月の夜。待機も虚しく何も起きず、眠りに就いてみればこのザマだ。何故今更になってこんな悪夢を見なければならないのかと問いを投げたってどうしようもない。だって理由は何よりも自分が一番わかってる。わかっているけど、わからない。わかりたくなどない。責められる謂われも理由も、ない。)いいんだよ、……俺はこれでいいんだよ。………………後悔なんか、してねえよ。(そうして来た。だからいいんだ。いいじゃねえか。そうだ、いいに決まってる。何度も繰り返し、繰り返し「いいんだ」と。其れは己に言い聞かせるように。陰が掛って隠れた表情を暴かんと窓から差し込む満月の光から逃れるように、今度は両手で顔を覆った。寮を共にする仲間の顔が浮かんでは消える。今までも、今回も、変わらない。変えない。いつもの事だ。魔法の言葉を唱えれば、それで全て終わり。そう、それで”いい”。ゆっくりと双眸を伏せればきっともう悪夢を見る事はないだろう。――本当はただ、ずっと、 が欲しかっただけなのに。なんて、それこそ今更だった。) |
(影の現れぬ静かな夜に安息の眠りを求めたはずが、微睡む世界に広がったのは淡く曖昧な波紋を投げかける悪しき夢。謳うような誰かの声を伴う其れは、否応なく過去と現在のあわいを突きつける)
――かつてそこには確かな幸せがあった。 夢見がちな母、堅実な父、甘えたがりな一人娘。 愛し愛される彼らはまさしく、絵に描いたような『家族』だった。 ――けれどどんなに固い絆でも、些細な綻びは生じるもの。 結ばれていた糸はいつしか切れて縺れて絡まって。 気がついた時にはもう元の一本には戻らない。 ――いったいどうすれば良かったのだろう? 真夜中に聞こえる口論に怯え、 無人の家に鳴り響く電話を待ち、 薄れていく暖かな思い出に縋り付いて繰り返す。 ――少しずつ瓦解する『家族』であっても、その枠だけは守りたかった。 母の夢に合わせた知識も、父の意見に合わせた価値観も。 何もかも愛する彼らを繋ぎ続けるために、身に着けた愚かしさ。 ――「でも、」と包帯を巻いた幼い頃の自分が笑う。 無邪気に慈悲深く、我儘に。今のあたし自身を嗤ってる。 ――終わりが見えてる未来は嫌い。独りきりも本当は大嫌い。 だってあたしが一番望んでる幸せは、今だって…――、…、 …………っ、止めて!……やめ…、(自らの叫び声に跳ね起き、宙を舞う髪が乱れて顔を覆うのとほぼ同時、何かを押し留めようと伸ばした手は虚空にて静止した。――ゆめ、夢だったのかと。正常な理解が及ぶにつれ見開いた瞳は伏せられて、冷えていく心とは裏腹に眦に熱い衝動がこみ上げる。堪え難いほど強いそれを枕に突っ伏してやり過ごそうと試みるが、小刻みに震える肩もくぐもった嗚咽も、完全に押し留める事は出来そうになかった。――そのまま、いったいどのくらいの時間そうしていたのだろう。枕元の携帯電話から突如として鳴り響いた軽快なメロディに、ぴたりと嘆きの声が止まる。ゆっくりと顔を上げ濡れた目元を拭うと、暗く淀んだ視界がバックライトに照らし出された"ママ”の二文字を捉えた)…もしもし、どうしたの…今日は随分遅くに。……何かあった?(涙声が電話口の向こうに悟られぬよう、穏やかな口調を意識して語り掛ける。己から見ても過保護な両親が連絡を入れてくるのは今も昔も日常茶飯事だが、こんな深夜に掛けてくるのは珍しい。少しの遣り取りを経てその要因が知るところとなれば、胸に伸し掛かる鉛は尚も重く――重く)……パパに会ってきたんだ。…そっか、…そう。(年に数度も顔を合わせぬ夫婦が、よりにもよって七夕の夜に対話の機会を持つとは何たる皮肉か。もちろんそれが引き裂かれた織姫と彦星のような幸い満ちる逢瀬でない事は知っていたから、坐したベッドのシーツをぐっと握り締め、溢れ出しそうになる沢山の不平不満に必死で蓋をする。代わりに喉からせり上がってくるのは何時も通り、自己を守るための強がりだ)あたしは平気。こっちじゃ何事もないし……心配しないで。(10年前からしつこいほど告げた言葉を今日もまた繰り返し、二言三言近況報告を行ってから「仕事頑張ってね」と気遣う言葉を最後に電話を放り出す。何事もないわけなんかない。周囲に人の居る環境が、夜毎に赴く戦いが、そしてこの不可思議な夢が、とっくに諦めて受け入れた未来を覆そうと鈍い痛みを訴える。けれども今はまだ認める事は許されない、自分自身が許さない。決して地上には乾いた裏側を見せないあの月のように在る事だけが、二人の大人の間に立ち続ける少女の、たったひとつの――) |
(誰もが家路を急ぐ黄昏時。小さな手を引く二つの温もりに守られて、少女があどけなく笑顔を零す。然し見上げた其の顔は黒く塗り潰され、伝わる体温も徐々に薄れ消えて行く。描いた夢の中でさえ、知らないものは所詮紛い物。取り残された少女の背後には同年代の子供達と彼らを取り巻く大人の姿)
「どうして小百合ちゃんはいつもひとりぼっちなの?」 「かわいそうな娘さん、本当に寂しそう。お母さんの事、あんなに信じて。」 (誰も訪れる筈のない病室から響く笑い声。眩暈さえ起こす真白な室内を覗けば傍らに佇む黒いスーツは他でも無い、男の証。私の知らない笑顔を浮かべ、愛しげに言葉交わす其の人は一体だあれ?おかあさん。) (私には小百合だけ、だから離れていても一人じゃないわ。――嘘で固めた甘い言葉を信じて微笑んだ。孤独じゃない、寂しくない。だってあの人がいない今だけは、私を愛してくれるでしょう?) (降り続く五月雨に追い遣られ、辿りついた屋根の下。空に広がる曇天見上げ、溜息漏らした女の視界に差し出されたるは黒い傘。隔絶した世界にて傘を押しつける其の男は仄かな笑みを最後に残し走り去る。遠のく背中は強く輝いて、仄暗い世界しか知らぬ瞳に焼き付いた。) 「大丈夫?良ければこの傘、使ってくれ。」 「ひとりじゃない、いつだって俺が傍に居る。……愛してるよ、小百合。」 (初めて出会ったあの日から、探し求めた其の笑顔。雨の日に出会う青年に気付く間もなく恋をして。重ねた温もりに心の隙間は埋められた。捧げれば与えられる愛に溺れ心は幸福に満たされた) (この人は永劫私を愛してくれる。必ず、絶対――……ほんとうに?) (祝辞の言葉を告げる白衣は然しにこりとも笑わぬ侭、女を諭す声音は憂いに染まる。――震える唇で懺悔を紡げど男は静かに微笑んで、) 「ごめんなさい、……―――が、できたって、……」 「……大丈夫だ、俺はずっと傍にいる。お前は俺が幸せにするよ。」 (枷と化した女を受け入れ、困難に立ち向かう青年は億尾にも怖れを出さぬ侭。二人手を取り紡ぐ夢は実感を伴い確かに形を成していた) (押し寄せる孤独に涙を流した夜に別れを告げ、 で手を取り合う。小さな頃から描き続けた幸せな――) (強く絡めた指先頼りに肩を並べて歩く逢魔時。未来に向かう足取りは然し背後より響く声に何時しか鈍る。やがて立ち止まった青年が呼び声に誘われ、過去を振り返ったなら――途端、繋いだ絆は容易く途絶え、広がる闇が其の姿を飲み込んだ。過去に立ち返ってはならないと、あれ程約束して居たのに。触れた無情な事実に打ちのめされた女に纏わりつく業火が腕を、腹を焼く姿は命の欠片を?ぎ取るにも似て、) 「あんた達さえいなければ、こんなことにはならなかったのよ!!」 ……分かってるわよ。(突き付けられた罪と罰に苛まれ、見開いた眼は微か揺らげど女の声音は酷く落ち着き払っていた。生を謳歌す機会すら与えられずに潰えた命の証を此の世に深く刻むべく、大人として母として、贖罪の為に歩む姿は決意を固めたあの日から何も変わらぬ筈なのに。一年の時を費やし受け止めた過去が今更何故、以前にも況して鮮明に此の身へ降り注ぐのか。及ばぬ理解に込み上げる疑念と悲鳴を押し殺さんと気海を撫ぜ)大丈夫、忘れたりしないわ…何が在っても私は、あなたの、…… 。(熱に浮かされ引き攣れた醜い肌はたった一つ、此の世に残された存在の証。生も死も知る事無く、けれど確かにあの時そこに居たあの子の為に歩む道は険しい程意義が在る。――だから、求めてはならない。重ねた出会いに綻ぶ心が叫ぶ望みから目を逸らし、湛えた微笑みで歪な記憶と向き合えば孤独な心を押し潰すなど造作も無く)見返りなんて必要ない。(狭い部屋で一人漏らす宣誓が虚しさを湛えども、満月を睥睨す女の耳には届かない。人に愛を注ぎ母として生きる為。不要な全てに別れを告げ、腹部を撫ぜる指先は穏やかな色彩を放っていた。――誰か 、子ども染みて を乞う醜い女なんて、私は知らない) |
(しあわせな家庭なんてものは、存外ありふれたものなのだと。幼心ながらにそう感じた過去があった。欲しい物は何でも手に入り、両親からは惜しみない愛情を注がれ、どこへ行っても「いい子だね」と褒められる。あなたは私の自慢の息子よ。よく母親が口にしていた言葉は少し照れ臭くて、けれど誇らしかった。大好きな両親のために、ずっといい子でいようと決めた。)
(「約束して。いいお兄ちゃんになるのよ。」――優しい微笑みにうんと頷くと、お腹の膨らんだ母親が頭を撫でてくれた。だけど、いいお兄ちゃんってなんだろう? 弟が生まれた後も、たくさん悩んだ。弟の世話を手伝おうとしたら、危ないでしょうと怒られた。大きくなるまで弟には近づかないと決めた。二人が弟につきっきりの毎日がさみしくなって甘えにいったら、お願いだからいい子にしててと扉を閉められた。かなしくて、さみしくて、部屋の隅で泣いていたら、それを見つけた母親は困ったように声をあげた。) 「なんでも好きなものを買ってあげる。なにをしていても怒らないわ。 だからお願い、いい子にしてて。お願いだから……。」 (――なにをしていてもいいから、私達と勇人に近付かないでって。つまりは、そういうことだった。) (涙が枯れたくらいから、孤独な生活が始まった。家政婦に頼んで、読みたかった本をたくさん買ってもらって、いっぱい読んで、好きなときに寝て、食べたいものを食べて、王様にでもなった気分だった。だけど心は満たされない。いい子でいると決めたくせに、二人にとっての“いい子”になるために、空っぽの寂しい心をどうにか別の何かで埋めようと、我儘になり続けた。ほんとうは我儘を続けるうちに、怒った二人がこっちを見てくれるかもしれないと、小さな可能性にも縋っていた。けれど家はどこまでも裕福で、我儘を咎める人間も、愛してくれる人間も、誰一人として居なかった。金さえ与えれば一人で過ごせる自身のことを、手の掛からない“いい子”だとすら称していた。自分を除いた家族は、誰の目から見てもしあわせで。息を吸うように自然と、皆が笑っていた。母親も、父親も、二人に愛された勇人だって。特別な何かがあった訳ではない。それでもいつだって笑みの絶えないその空間は、とても暖かなものだった。――少し前までは、そこが自分にとっての居場所だったのに。中心に居る者にとってひどく暖かいその空間は、けれど他人に対しては排他的であるのだと、からからになった心で思い知った。) (――そんな日常が当然なものになって。痛みは既に消えていた。 したんだと悟った。習慣はそう簡単に消えなくて、また咎める者も居ないのだから、やがて自分の中でそれが“普通”になった。歳を重ねても変わらない。勉強は得意で、運動もなんとなく出来て、だけれど昔よりも苦手なものが増えていた。「児玉くんは何でも出来て、成績も優秀だけれど、――……」) 「そうなの。――まるで、勇人とは正反対ね。」 はあっ、――…………うるさい、(溜息混じりに落ちた声に苛立ちが交じる。最悪な気分だった。以前見た夢よりもずっと鮮明なそれは心を乱すのに十分なもので、冷や汗を拭うと同時にまた頬が濡れている事に気が付けば、不快感はまるで止まらなかった。――夢。消えて欲しいとすら思う過去を明確に辿るそれは、人為的に見せられているとしか考えられず、溜息を通り越して僅かに吐き気すら込み上がる。 元々、夢を見るのは好きだった。幸せな気持ちでまどろんでいれば、見る夢はどこか穏やかで、幸福に溢れていた気がしたから。常に眠りを欲する体も、もしかすればそれを望んでいるのやもしれないと考えたことは一度や二度ではない。それが悪夢によって上書きされるなんて、耐え難いことだった。)(長年会っていない両親の顔なんて忘れてしまったけれど、幼い頃に見た優しい笑顔だけは決して脳裏から離れずに、今だって残っている。もし弟が生まれずあの生活が続いていたなら、或いは弟が生まれるのがもう数年後だったとすれば、何かが変わっていたやもしれないけれど。今の自分が変わることは無い。心の底に抱える自身の問題も、時が解決してくれるなんて事は無いだろう。だから、今日も夢に祈る。理想の詰まったあたたかな夢が見れるようにと。こんな現実こそが“夢”であるようにと。 なんて出来やしない。 なんて知るものか。そんなあたたかさは、きっと、自分には一生手に出来ないものだから。) |
(音が聞こえる。………。………。………。 声が次第に激しくなってきた。まるで何かに堰き立てられているかのようだ。) 「啓、お前は賢い子だなあ」 (男が此方に手を伸ばして、満足気に笑った。頭を撫で、褒めてもらった少年は、誇らしげに胸を張り、それから照れくさそうに笑い返した。──取り留めて何てことない、穏やかな時間が流れている。) 「全くとんでもない事態に巻き混んでくれたものだ…」 「あなたは何処へ行っても恥ずかしくないようになるのよ」 (別の男が頭を抱えている。隣にいる女性が口早に言った。冷たい瞳だった。彼らが自分の──であるなどと、考えたくもなかった。自分の本来の──は、何処へ行ってしまったんだろう。少年は強張った表情で、二人の話を聞いている) 「何だこれは!!」 「いい加減になさい。私はあなたを生んだことが恥ずかしいわ。」 「お前がそんなんじゃ、僕の株まで落ちるだろ」 (──怒号が聞こえる。少年は揺れる視線を隠しきれないまま、ただただその場に突っ立っている。) 「ねえねえあの人って」 「あいつほんと──」 「あの人さ──」 (遠くに、小さな眼が見える。複数の眼。二つの眼が、沢山。少年は怯えながら目を閉じる。瞼の裏に焼きつく、――――め。) (視界が開けた瞬間、目尻から素肌へ伝う水滴。──嗚呼、如何しよう。気持ちが悪い。)何で、今更こんな夢ばかり見るんだ……。(気持ち悪い。気持ち悪い。けれど起き上って手を洗う気力もない。毛布で丁寧に両手を拭ってから、赤萩は枕もとの電気を付け、近くの本を手に取った。少し本を読んでから寝るとしようか、嫌な夢の事など一刻も早く忘れてしまおうと──夢のわりに、気分のわりに。妙に凪いだ胸裏だけが、不思議だったけれど。) |
(疲れた体でベッドに入り―最初に映し出されたのはもう懐かしい小学生の頃の遠い記憶。「かすみちゃんって、――ばっかり見てるよね。」無邪気な笑顔で知らぬ間に図星を突く友人たち。彼女らが何も気付いていない事も軽い気持ちで出た発言だとも分かっている―でも、其れでも。其れが表面上でも見破られたという事実が怖くて仕方なかった。口ではそんな事ないよと何でもない様子で笑いながら、心の中は誰かに本心を見透かされやしないか恐怖にぶるぶると震えていた。体中に冷たい汗が伝い、手は一杯の汗で湿っぽくて気持ち悪かった。きっと誰も気づいていないと言い聞かせながら、一人になった時には動揺で足が震えて暫く立ち上がれなかった。誰にも悩みを知られてはならないと深く心に刻み込んだ日のこと。)
(そしてまた時期は少し飛び、あれはもう中学三年生の終わり頃だったろうか。「普通は――なんて、有り得ないだろう。」「そうね、―――なんてとんでもない。」両親の一般論として口にされた何気ない言葉が真壁の心の温度を一気に氷点下まで冷やした。其れが自分の事を指したのではないと知っていても、ほんの一瞬でも気を緩めたら声が情けなく震えそうだった。同時に心臓ごと深く抉られるような生々しい痛みの感触。其の時の自分がどんな受け答えをしたのかは誤魔化すのに夢中過ぎて記憶にない。ただただ僅かでも違和感を与えないよう必死に平静を取り繕い、遣り過ごせるまでは生きた心地がしなかった。そして夜中に部屋で密かに涙を流していた自分の姿。以前から感じてはいたことだけれど、実際の言葉にされると予想以上に鋭い刃となり、何時までも抜けないものとなった。彼らにだけは何が何でも隠さねばならないと心に誓った瞬間でもあった。) (其処から舞台は一転して優しい光に包まれた世界。届いた年賀状。丁寧な筆致で綴られた直筆の手紙。糊付けが上手く剥がせずにボロボロになってしまった封筒の開け口。もう何度も読み返した所為で汗と涙で濡れてふやけた便箋。予期せず繋がれた細い糸。大勢の誰かではなくたった一人の自分だけに宛てられた、温もりに満ちた優しい言葉たち。現実だなんて思えず世界の全てが輝いて見えた日―其れも長くは続かないけれど。幸せそうな笑顔、心から楽しそうな横顔、真剣な瞳、怒った時の悲しみも内包した複雑な表情――どれもこれも世界で一番、大好きだった。其の気持ちで負ける気なんてしなかった。たとえ伝える事が許されなくとも、絶対に叶わなくとも、傍に感じられるだけでよかった。そう思おうとしていた。やがて其の姿が完全に見えなくなっても、街の何処かで出会えないかと馬鹿みたいな希望に縋って彷徨った日々。明るい顔を作る事だけが上手くなり、抜け殻のように生きた時間。其の中で本当にゆっくりと存在が薄れていくようになったのは何時からだろうか。自分が遠ざかっていくのが怖くて、其れを受け入れたくなくて、躍起になって追いかけようとした。そんな悪足掻きをしてもより深く沈むだけだと心の何処かでは理解していたのに。――そして、最後に大きく浮かび上がったのは明らかに同年代のものではなく10歳以上も歳の離れた大人の顔―其の顔がくしゃりと満面の笑みを描いたところで、ぷつりと優しい幻想は途絶え、温もりの乏しい現実の世界に引き戻された。其処にはもう何も残っていない。)……、ああ。……せんせい。(喉の奥から絞り出した声は笑えるほど掠れていた。もう過去の思い出になりかけているけれど、全てを振り返るにはまだ早過ぎる。如何してこんな夢ばかり見てしまうのだろう。あの気持ちはもう何処にも行けないのに―前は綺麗と眺めていた満月を少し嫌いになりそうな夜だった。) |
(少年は、記憶を巡る。家族の記憶。苦しい、寂しい、そんな記憶。)
(どれだけ努力しても、勝てない人がいた。どれだけ手を伸ばしても、届かない人がいた。少年が誰よりも尊敬する人。頭が良くて、運動が出来て、格好良くて、強くて、優しくて。あの人のようになりたいと、少年は思った。だから、其の背を追い続けた。いつからか、其の背を追うのを強いられ始めた。どうしてだろう。心が、苦しくなった。) 「どうしてお前は、慈みたいに出来ないんだ!」 (───慈。チカ。 “愛”よりもずっと愛されるのは、其の名前。) 「慈はあんなにも優秀なのに、貴方はどうして出来ないの」 (ほら、また。 彼等が大切なのは“慈”だけ。“愛”はいらない。) (気付けばいつでも、少年の評価には別の存在が付き纏った。評価は誰かと比べて得られるもの。少年自身が評価されることはない。少年は思う。自分自身を見て欲しい、と。少年は叫ぶ。僕は僕だ、と。でも、声は届かない。誰も、聞いちゃくれない。) (“愛”を与えられて生まれた筈の少年は、見て貰えない寂しさに、踞る。) 「大丈夫。愛は俺の大事な弟だから。俺が守ってやるから。」 (少年は、彼のようになりたいと願った。誰よりも尊敬する、兄のようになりたいと強く。只々純粋に持ち続けた尊敬という感情は、いつしか劣等感になって押し寄せる。言葉の渦から救い出してくれるのは彼なのに、頭を撫ぜる掌は鉛のように重たくて堪らない。どうしたって彼には敵わない。其れを悟った少年の心は、小さく歪み始めた。) (ある日、少年は道を外れた。何処までも続いていた一本道から目を逸らし、進む筈のなかった道を歩む。少年の評価が“異端”に満ちようとも、少年は引き返すことはなかった。何故?──────其れが、少年の望んだことだったから。) (あの夜に見た夢よりもずっと鮮明だったというのに、目覚めは落ち着いていた。軋むベッドに身を預け、天井を見詰める濃紺の縁から、雫が伝い落ちた。また、泣いていた。父親の声、母親の声、兄の声。まるで其々の感情が其の侭に押し寄せて来るような感覚だった。忘れてしまいたい、でも忘れられない。写真を黒で塗り潰しても、鋏で切り刻んでも、血の繋がりだけは消えることはない。其れを消し去ることを心から望んでいないのも、嘸かし滑稽なことだろう。長年変わらない実家の電話番号は記憶に刻まれているのに、携帯の電話帳からは消せないでいるんだから。)……ホント、………最悪だよ。(身体を静かに起こして立ち上がると、こざっぱりとした机の引き出しを開けた。大した物を収納していない其処に入っているのは、今、手許にある唯一の家族写真だ。全てを捨て切れない、子供だった。今更如何することも出来ないけれど、其の写真は一生捨てられない侭だろう。ぱたん、と引き出しを閉めると、また雫が伝った。) (再び身を預けたベッドで、天井に向けて手を伸ばした。其の指先に掴みたかったものは、きっともう、掴むことは出来ないだろうけど。) |
疲れた…。無駄な時間だったな。(徒労に終わった”狩り”。襲撃が無かった事は喜ぶべき事なのだと思うが、手応えが無い分時間を無駄にしたと云う感じが強く、気疲れとしては平生よりも本日の方が色濃い。ベッドに寝転びながら眺める満月は、そんな自分を嘲笑うかのように、煌々と輝いていた。胸を巡る奇妙な苛立ちを打ち払うように瞼を下ろせば、意識は何時の間にか夢の中へ落ちていった。)
(それは、少し前に聞いた、声だった。―然し、前回よりも余程鮮明で。ああ、自分の声まではっきりと聞こえる。) 『幸せになるためにはね、努力が必要なんだ。そのために今はしっかりとお友達を作って、勉強をするんだよ。』 ――はい、お父さん。 『誠くんは、どうしてそういう事をするの?』 ――どうしてって、だってそれ、要らないものじゃないか。 『世の中を生き抜く必要なもの、それは力だ!今お前たちはその力を育んでいるんだぞ〜。だから真面目に勉強しろよ〜。』 ――そうですね。俺も同意見です。必要なものはきちんと身につけていきたいな、と思っています。 『失敗したからってそんなひどいこと言わなくてもいいじゃない!好きで失敗したんじゃないんだから分かってくれてもいいでしょう!?』 ――頑張ったとか、頑張らないとかそういうの、関係ないだろ?”出来なかった”、大事なのはその一点だけだ。 『どうしてそんなに冷たくなれるんだ!人の気持ちをもう少し考えなよ!』 ――……そう言われても。 分からないものは、分からない…!(荒げた声に、受け手は居ない。此処は寮の個室であり、自分を責める過去の友人達等存在し得ないのだ。然し言葉の勢いの侭、起き上がれば、嫌に弾む左胸を抑えた。前回以上に喧しい鼓動を感じながら、力任せに濃紺のパジャマを掴む。掴めば掴むほど深くなる皺は、眉間の其れと応じるように。夢と現実は混ざり合い、不快な汗が背を伝う。悪夢も二度目であれば理解はし易く、浅い呼吸を収めるよう、深く息を吸うよう努めた。―幾度か繰り返す内に、鼓動は落ち着き、呼吸も平生と大差はなく、パジャマを掴む手も放された。然れど歪められた唇も、寄せられた眉根も、常の笑みとは程遠く。)そもそも理解出来ないのは当然じゃあないか…。何だって俺ばかりが、(息と共に吐き出された言葉は尻すぼみに消える。其れが本心からの言葉であったならばこうも空々しくは響くまい。本当は。―誰よりも理解したいと、他人と違うのは嫌だと。然し、嘘も吐けぬと、真っ直ぐな性根が仮面を粗雑な物にするのだ。そうして表層に現れる彼の意思は、相反する2つから捻じ曲がって見えてしまう。)大体何でこんな夢…、責めているのか…?(漏らす自嘲の笑みは、責められても致し方ないと理解しているからだろう。―自分が他人とは違うのだと理解はしても、そう簡単に矯正出来る物ではない。なればこそ、見せ掛ける事に必死で、根本は変わらぬ侭今日迄来てしまった。そうして、小さく吐いた息はそれこそ自身を責めているようで、下唇を噛み締めた。立ち上がる事も出来ず、かと云って眠る事も出来ず。ベッドの上に座り込んだ侭今度はシーツを強く握る。加賀美を見下ろす月だけが、変わらず煌めいていた。) (――加賀美誠は、他人の心情を慮ることが、出来ない。) |
(何時からだろう。当たり前のように出来ていたことが出来なくなって、誰かが言った。潔く“負け”を認めろと。小さな子供に投げかけるにはあまりにも鋭い言葉で、けれど、自然と涙は出なかった) (1番じゃなきゃ意味がない。1位じゃなければ“可笑しい”。大人はそう言う。自分は子供だったけれど。同じことを思っていた)
(伸ばした足は長く、長く、しなやかな筋肉が地を蹴り上げる。腹に纏わりついた白いテープ。いつからか、写真に写る少年は微笑みなど浮かべなくなっていた。誰も自分の笑顔なんて望んでいないとわかったから、振り上げた両手は汗を拭って、その水滴が涙に変わらないことだけを祈っていた) (けれど、この足は追いつけない。遠ざかって行く 本物達 が、輝かしい道へと進んで行く。きちんと敷かれていた筈の自分の道はどこに行ってしまったのか) (自分も ホンモノ の筈なのに――。) 「ごめんなさい」 (走っても、跳んでも、蹴っても、投げても、泳いでも、なにをしても、足りない。もっともっと。求めることも求められることも大きすぎて重たすぎて、小さな心がハレツする。) 『いいの。気にしないで。もういいのよ。もうわかったから、』 (なにが、わかったと言うんだろう。彼女がわかったことと、自分がわかったこと。それが果たして同じだったのか、今となってはもう分からない。問う言葉すら持たない) (彼女は、今、わらっている。) (“ ”は、とても、安堵している。) (それは、とても 諦め に似ている ?) (――――。――目は覚めた筈なのに、どうしてこんなにも意識は曖昧なんだろう。涙なんて少しも滲んでいないのに、視界がぼやけているのは、とっくの昔に世界を見つめることを放棄しているからだろうか。光に輝く双眸は一点の陰りもないようでいて、その全てが擦り硝子のように曇っている。大きな瞳に映りこむものは、自分の心を満たしてくれるもの。それだけ。それ以外は排除して、都合の良い言葉を吐く唇に笑みを貼り付ける。必要とされなかった微笑も、今は必要とされている。その事実が胸を打つ。結局、本当に必要だったものは何だったのか。聡い頭は考える。必要なもの、必要とされるもの。そして、自分が欲しいものは違う。――聡い頭は、考える――。決して答えを導いてはいけない命題。)(目が覚めても終わらない夢。寝台から零れ落ちたぬいぐるみたちは、感情のない瞳で自分を見つめる。可愛らしい顔。かわいらしいもの)ばぁか……馬鹿ばっかりか、(麻痺した脳が、掠れた笑みを含んで言葉を滑り落とした。閉め忘れたカーテンは風と共に揺らめいて穏やかな光で室内を照らす。見上げた黄金の球形は忌々しくも、恋しくもあった)…………泣きてぇ、 (足りない能力は、他の力で補うしかない。全てを捨て、努力をも捨て、“本物”の負け犬になることだけは嫌だった。其れは決して許されないことだ。分野は違えど到達する場所が頂点であれば 其処に立つことが出来たならば、 ぼくは許して貰えるだろうか。) (そもそも俺のコレは、罪なのだろうか) (わかってるよ、 ) |
ドキドキし損だったな〜。……って言うのも良くないけどっ。良くないんだけど、な〜んだ。ってなっちゃった。…………ふあぁ〜あ、寝〜ようっと。(時は遡ること卯月の満月の夜、”来訪者”への”予期せぬ来訪者”を契機とした人知れぬ夜の活動。実践訓練や刺激的過ぎるアクシデントに翻弄された水無月の満月の夜を経て、待ち受ける本日の来訪者は、折角の七夕とてシャドウを相手とした逢瀬ならば嵐となり流れてくれと思うが実ったか徒労に終わり今に至る。今夜とて影時間特有の異様さは変わりなく、着替え手入れストレッチ諸々を早々に終え、気を張り疲れた身体はベッドに預けてしまおう。盛大な欠伸が牽引した倦怠感へ早々に白旗挙げ瞼を閉じたらば、引きずり込まれるように闇の中へと墜ちてゆく。覚えのある感覚だった。)
>イエスかノーか。するかしないか。選びとるか切り捨てるか。 何だって突き詰めると行き着く先は二者択一だ。その時そのときで何が正しいかは分からない。 >見ないふり、知らないふりをしても、時間からは決して逃げられない。 なあなあにしきれないことは、仕方ないから気分で選ぶことにしよう。仕方がないから。 >選んだ結果が見えてきた。 間違っていたみたいだ。でももう選び直せないから、そのまま進むしか無い。ああ、 って、重たい。 ・ ・ ・ >そうしてまた、選ぶときがやってくる。 のちのち後悔しないほうを選びたいのに。どっちが正解かなんて分からない。きっと、ずっと。 >時間からは決して逃げられない。選んだ末の、 からも逃げられない。 どちらにしようかな、天の神様の言う通り。 天の神様の言う通りなんだったら仕方ないよね。”そういう運命”なんだもんね。 >運命だから。そういう風に決まっていたから。 だから大丈夫。責めることもない、責められることもない。 だいじょうぶ。重たくない。 これでぜったいだいじょうぶ。重たくなんてない。 (背にへばり付く寝間着、額と蟀谷に張り付く茶髪。荒く脈打つ鼓動、瞳を閉じれば直ぐ様蘇る”夢”。季節を理由にするには些か足らぬ寝苦しさは、否が応の目覚めのその様をして、女が如何に過去を恐れるかは知れたものだ。頬をつたう一筋が恐怖に怯えたこころを冷やす一方、完全たる覚醒に理解し得た”夢”とは。――――強固に鍵をかけて深層へと仕舞い込まれた”運命”はふた月ほど遡り月が満ちた夜、どうしてか手を触れてしまってからというもの、徐々にこころの淵へと上り詰めてきていたらしい。もう二度と思い出さないと思っていたのに。重たい。煩わしい。忘れてしまいたいと思うに反して脳裏に焼き付いて離れぬ”運命”の忌々しさここに極まれり。恐怖と逃走本能と忌々しさと、繰り返す”運命だもん”に所以する安寧とが入り混じった胸裏はその複雑さから紐解くのが億劫だ。紐解けば深淵へ押し留めた”つもり”が”つもり”で無くなる気がして紐解くのが恐ろしい。)もうやだ……なんでこんな夢みんの……?選べないってば、ムリだってば、出来ないってば…………させないでよぉ神様、(顔を埋めた枕の端々をぎゅうと握り締めて「選べない」、「むり」、「させないで」。何時しか疲労が眠りへ導くまで繰り返すくぐもった恐れの声は願いにも似ていた。運命の輪は動き続けている。触れてしまえば元には戻れない。運命に身を委ねるより他の手段など知らぬのに、身を委ねればきっと向き合わずには居られない。選択は疾うに一つに決められていたのだ。) (どうしたらいいか分からないことは、誰だって こわい のにね。) |
(じんじんする。ヒリヒリする。おててが、いたい。 あかい、あかい、ほっぺ。)(ぐいぐい。にぎにぎ。ほっぺがぬれてる。ぽろぽろ、ぽろぽろ、なみだがいっぱい。)(夕暮れに咲いた笑顔は泣き顔へ。わんわんと泣く女児と向い合う女児の顔は――「ちょっと…何やってるの!」) (『おともだちをたたいちゃいけません』『おともだちにはやさしくしましょう』)(ないてるおかおがみたいの)
(「喧嘩でもしたの?」ううん。「嫌なこと言われたの?」ちがうよ。「――ちゃんが嫌いなの?」だいすき。「どうしていきなり叩いたりしたの?」…ごめんなさい。)(笑顔を泣き顔に変えたら、赤いランドセルたちは遠くなる。――同じことを何度も繰り返して、ようやく少しずつがま をまなぶ。) (『人を傷つけてはいけません』『人の嫌がることはしちゃいけません』)(この気持ちは、だめなんだ。おかしいんだ。だから、 んしなくちゃ) (笑顔。笑顔。笑顔。幸せ。たのしい。大切な人達の大切な笑顔。嗚呼、それだけで満たされる。人を我、傷付けち慢ゃいけない。幸せ、この気持ちだって本当で。友達を傷つけ我るのは、慢悪いこと。我 慢。だから、我慢あんま我り近付慢いたら――我慢イ我慢我ケ慢我慢ナ我慢我イ慢) (涙。真っ赤な泣き顔。嗚呼、『暴力は、犯罪』)(わかってるのに、消えてくれない。それを嗤って、囁きは誘うんだ) (――夢は警鐘の如く全身に響き渡るり、煩く響く心音が鎮まらず、滲む汗が不快感を生む。あれらが自らの夢であるとしても、過去の断片に触れるそれらが決して切り離された過去ではないことを知っている掌は、縮めた身体を抱いて戒めるように爪を立てる。満月に暴かれる衝動なんてまるで伝説上の怪物のようだと自嘲を孕んだ唇が歪み、衝動を潰えさせるように噛み締めると紅い血が唇に滲んだ。)わかってる。…わかってるから(同じ言葉を口にしての懇願も、直ぐには心音を鎮めてはくれやしない。ひどい。気持ち悪い。頭が可笑しい。異常だ。こわい。あぶない子。それらが誰の言葉か、将又自分で自らに宛てた言葉だったか覚えていないのに、自分以外の者の涙に濡れた顔は鮮明に描けてしまう。適切な距離に平穏と安寧の維持を学んだのだから、此の掌が与える痛みと顔など記憶から薄れてもいいのに、笑顔に重なるは他人にとって幸福の意味は持たぬ顔。)…大丈夫(閉ざす瞼を持ち上げて、代わりに満月を映して自分へと言い聞かせる。だいじょうぶ。満月から見た此方の顔はどんな顔をしているだろうか。満たされた月にもう一度同じ言葉を繰り返して、少しずつ、すこしずつ、静へと戻す。そうして、そうすれば、きっと。 きっと。) |
(以前見た夢の続き。処々に広がっていた靄は晴れ、鮮明な記憶が蘇る)
「…今日から君は、当真“げん”だよ。…これからは僕らのことを本当のお父さんとお母さんだと思っていいからね。」 優しい両親、美味しいご飯、綺麗な洋服、自分の家、新しい名前…… 「また一番をとったのね。偉いわよ、げん。あなたは母さんの自慢の息子だわ…」 息子でもいい。「げん」と喋る母さんはいつも幸せそうに笑うから。 (夢は続く。父さんは母さんの幸せを願い、俺は二人の幸せを願う。みんな笑っている) 「げん!怪我はない!?…嫌よ、もう嫌…あの時みたいに、もしまたこの子に何かあったら、私…」 その日から「大丈夫。」が口癖になった。 (いつしか、俺と二人きりになると父さんは泣いて謝るようになった。だから俺は父さんにも「大丈夫。」を繰り返す。秤にかけて重い方はいつも一緒) 「げん、あなただけはずっと傍に居てちょうだいね。」 約束。弱々しい母の小指に自分のそれを絡めて、指切りをした。 (――だった、はずなのに。この地で過ごす時間が長引くにつれ、他人との距離の置き方が下手になっていく気がした。許されないはずのものに手を伸ばすことが増え、遠くで笑っていたはずの人がすぐ傍に居ることが増えた。その度にそれらしい免罪符を手に入れることにも慣れ、つい空の皿に錘を載せそうになる。我に返ってその手を叩く。繰り返し)……また、満月か。(真円の7日前、夢に見る子供は“不吉”を告げる。その度に見えない自分の影に怯える。これは戒めか、導きか。どちらにせよ精神を蝕む夢はまた訪れた。じっとりと濡れた体が気持ち悪くて、上着を脱ぎ捨てる。外気に晒された肌、隠すまでもない凹凸に欠けた貧相な体も指でなぞれば小さな曲線を描く。平らだったものが、長い時間をかけて少しずつ大きくなった小さな曲線。時は待たない。今は大丈夫でも、この先はどうだ?力を込めた指先に歪められた布地、その下の柔らかな肉に爪を立て、虚ろな紫に映した二枚の写真に向けて呟く。――左の写真では両親の間で笑っている3、4歳ほどの男の子が、右の写真になると少し成長して、同じように微笑んでいる。誰が見ても仲の良い家族写真にしか見えない、幸せの断片)…に、近づこうと努力してきたはずなのに…皮肉だな、(影時間の静けさが妙に心地いい夜、月光の差し込む窓辺を伝い鏡の前に差し出し映すは、 の面影が残る、よく出来た欠陥品。その命は、そう、長くない)……なあ、アトラス。(けれど、不意に呼びかけた己が分身の姿は初めて出会った時の言葉と違わず、それ故辿り着く答えはやはり)…わかってるよ。背負えるものは一つ、…ちゃんと最後まで、だろ。(大丈夫。約束は守るよ。口元が緩やかに弧を描いたなら、欲張らずに今ある幸せを守ることこそが本意であると、微笑む鏡像が虚像であると気づく前に目を閉じよう。――どんな形でもいい。最後まで、あなたの でいたいから) |