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記憶の扉 I

母の年齢の意味することに気付いたのは、志学の歳を迎える前のことであった。
年に何回か、母がたいそう美しく粧って、幼く姦しい少女たちのような足取りで出掛けていくことの意味に気付いたのは、そこから僅かに時を置いてのことである。
* 7/26(Fri) 08:58 * No.5
記憶の扉 II

善なる者であることは、己の生まれの不確かさをぼやぼやと誤魔化してくれるヴェールのようなものであった。長じてからは、己の生まれの罪深さを覆い隠してくれる鎧のようになった。
父のように立派な人に、優しい先生になってねと言い聞かされ育ってきた。それを心の底から信じる気持ちは成長するにつれ薄れてはいったが、それでも母の語る父の姿を否定するには至らなかった。
善き人物、目指すべき人として教えられてきた父の姿が偽りに満ちていたことを明確に知ったのは昨年のことだ。あの時のことを思うと、今でも自分の立っている地面が崩れ落ちていくような気持ちになる。



スマートフォンが震える。着信画面に表示されるのは、半年ほど前に初めて知った名前だ。出るかどうか暫し躊躇ったのちに、通話ボタンをタップする。聞こえてくるのは、几帳面そうな男性の声である。義務感から話されているのであろう内容を聞く。
「はい、家族皆元気です。新しい環境にも慣れましたし、友達もできました。良い所に通わせてもらえて、感謝しています。ありがとうございます」
「はい、ええ、分かりました」
「それは、母が仏前に手を合わせに行くことも差し支えないということですか?」
「分かりました。遠方なのでおそらく行くことはないでしょうが、もしそちらにお邪魔する場合は誠道さんにご連絡します。   妹ですか?妹がそちらにお邪魔することはありません。行くとしたら、僕一人だけです」
「ただ、受験勉強もありますし、先程もお話ししたようにここからそちらに行くには時間も掛かりますので、おそらく伺うことはありません。ご連絡ありがとうございました。失礼します」
やや一方的に通話を終わらせる。
躊躇い含んだ指先が何らかの操作をしようかと動くが、結局それは為されない。
* 8/18(Sun) 16:56 * No.11


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