2018年6月12日
(噂をはじめて耳にしたのはいつだったのか、もう覚えてもいなかった。クラスメイト、或いは見知った顔馴染みを除けば知らない者だらけのマンモス校。不登校者が増えているとの話も現実ベースでは実感が薄く、ただ、話題稼ぎのような報道に次いだ臨時の全校集会、更には心理カウンセラーの講演会の開催が、嘘みたいな噂話を「現実」であると訴えかけているようだった。――大人たちの呼びかけに、唆されるようにして。深夜0時過ぎ。鏡合わせの噂を試した。)
(瞼を持ち上げて、ゆっくりと瞬きを繰り返す。視界以上にぼんやりと霞む思考は瞳が捉えた派手な色彩を煩わしく感じて、けれどそれが“知らない場所にいる”という違和感と共に途端に頭を冷静にさせた。ベッドに横たわる身体を起こし、ふと、身を包むかわいらしい衣服に気付いては、あの時の夢が脳裏に蘇り、恐怖から背筋が凍った。 夢。焦がれてやまないかわいらしい女物の服、を纏う、色黒の大男、自分の姿――)ぁ、……っ(声にならない声が溢れる。けれど、それが“自分”のものでないと気が付いたのは、震えた声帯がソプラノの音を響かせたから。)…… え……?(ワンピースの裾から伸びる、白い脚。恐る恐ると手のひらを視界におさめる。小さな手。細い指。桜色に彩られた、かわいらしい爪。――慌てて立ち上がり、大きな鏡に自分の姿を映し出す。どうして? 描いたままの、理想の姿。かわいいをかき集めた女の子。それはきっと、合わせ鏡の噂が語る、理想の世界の答え合わせだった。)…………うそ。(“自分”ではないその姿が、宝物のようにきらきらと眩しい。ふんわりと足元へ向けて広がるワンピースをつまんで、細くてしなやかな脚を眺めてしまう。鏡に映る大きな瞳も、柔らかそうな頬も、淡く色付いた唇も、あまりにかわいらしくて鼓動が落ち着かない。ふわふわのロングヘア。淡いピンクのリボン。理想の女の子を象徴するワンピース。かわいい。かわいいが似合って、すごく嬉しい。泣き出したくなるくらいの感情が溢れてくるものだから、気持ちを落ち着かせようと頭を左右に振って、そこで初めて光の漏れる扉の存在に気が付いた。)……どこかに繋がってる?(理想の世界に射し込んだ光に、期待と好奇心が疼く。扉の外へと、少女の足が踏み出した。)
(――数秒前の記憶が、もはや曖昧だった。得体の知れない怪物。瞬きをする間もなく衝撃が走る。小さな身体はあまりに容易く吹き飛ばされて、痛みも恐怖も心は追い付いていないのに、本能的に死を悟った全身が小刻みに震えている。細い腕で自らを抱き締めても震えは止まらず、逃げるための足だってろくに動いてはくれない。立ち上がることが、出来ない。)……やだ、ぜったいやだ、ぜったい……(死にたくない。唇から溢れる声は、自分であって自分でない。だからこそ抗いたくて、諦めることを許せなかった。異形の照準が己に定まる。せめて、相手を一瞬でも怯ませる手段があれば――震える手を床に這わした途端、指先に何かが触れる。藁にも縋る想いで手繰り寄せたのと同時に、頭に響いた声。咄嗟に目をかたく瞑った。「――我は汝、汝は我… 私はキュベレ。きれいなままの命が欲しい?」問い掛けに瞼を持ち上げ周囲を見るが、声の主はどこにもいない。それなのに、尚も頭の中の声は続く。「女の子として世界を歩けても、声を失ったらハッピーエンドを迎えられないものね。ねえ、鏡を見て。世界で一番かわいいのは誰かしら。」)――鏡?(指先で触れていた破片を、無意識に覗き込む。)ペル、ソナ……(夢うつつのように呟くと、刹那、声の主がそこに現れる。繊細な馬車を引く白い毛並みの幼いライオンも、美しく儚い少女の姿もひどく現実離れして見えて、あまりに綺麗なその姿をぼうっと眺めてしまった。気付けば身体の震えはすっかり治まっていて、不意に響いた咆哮で怪物の存在を思い出しては床に手を付いて素早く立ち上がる。今になって胸中には明確な恐怖心が渦巻くが、襲い来る敵に立ち向かう“生きたい”という意思が、自らを守る手段を確立させた。)アギ!(燃え盛る炎が異形を襲う。その一撃が功を成して、脅威はそこで去った。 やがて訪れた静寂に脱力して、へなへなとその場に座り込む。わけがわからない。全部、全部夢なのかもしれない。パンク寸前の頭は考えることを放棄して、視線を落とした先にある光景をぼんやりと眺めた。やっぱりかわいいピンクのワンピース、大きなリボン。お行儀悪く上半身も床に倒したら、長いふわふわの髪の毛が視界に入る。三つ編みを力なく指でつまんだ。その指すらも、小さくてかわいらしい。ああ、やっぱり。夢じゃないほうがいい。)……キュベレ。ねえ、……“わたし”……、(口にしたことのない一人称を、意識して呟いた。下手くそなままごとみたいで滑稽なのに、この姿は、この声は、かわいい自分で在ることを叶えてくれる。それなら、心地よく夢に浸っていたい。大好きな自分を、存分に表現していたい。)……ふふ。かわいい……(顔の前に小さな手を翳す。白くて細い華奢な指。角度を変えて桜色の爪を見つめながら、微笑むように目を細める。やがて眠りにつくように、ゆっくりと瞼は閉ざされた。)
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