4月6日 利川景充
(――巌戸台港区。10年ほど前に暮らしていた場所だと転校の手続きを踏む際に親から聞かされたけれど、その名に聞き覚えがない所かそこら辺の記憶は大分曖昧で、車窓を流れる景色は何処を見ても新しく、幼少の思い出が蘇る事も無ければ懐かしいと感じる事も無かった。尤も親の職業柄転勤が多くあっちへこっちへ忙しく転校を繰り返していたから、何処へ戻ったってきっと同じようなものなのだろうけれど。しかしそうやって十数年間散々振り回しておきながら最高学年に上がるのと同時に寮へと放り込むなんて、今更面倒を見切れなくなったのか、或いは転勤生活のようにふらふらと落ち着かない自由奔放な息子の将来を危惧したとでもいうのか。親の真意になど興味はないけれど、毎日同じ顔を見る事になるだろう寮生活は果たしていつまで飽きずに続けられるだろうか――入寮自体には不満も反感も無いが、それだけが唯一の気掛かりであった。)あーーー…ねっむ……。(深く椅子へと身体を預けて、じわりじわりと脳内を侵食する眠気を誤魔化すように気怠げに想いを吐き出した唇より、間もなく小さな欠伸が零れ落ちる。本来であれば今頃とっくに寮に着いて部屋へと案内されている時間なのだが、ポイントの故障で電車のダイヤが大幅に乱れ、それに捕まった結果予定よりも大分遅い出発となってしまったのだ。睡魔に抗わず眠ってしまえば楽ではあるのだがこれが終電、万が一にでも乗り過ごすような事があれば面倒が増えるのはどう考えても明白であるのだから、さて――この退屈から来る眠気を一体どうして覚ましたものかと考えを巡らせてはみるけれど、それ以上何も思い浮かばない事はこの数十年で身に染みて解っている。少し離れた場所で繰り広げられている酔っ払い同士の口論も耳障りなだけで面白みの欠片もなく、耐えられそうにないのならいっそ面倒を承知で睡魔に身を任せてしまおうかとゆっくり瞼を落とした所で、車内に流れたアナウンスは目的地到着を告げるものだった。ナイスタイミング!と思えないのは頭がすっかり眠るつもりでいたからに他ならず、渋々と面倒そうに後頭部を掻きながらも横に座らせていた鞄を掴んで立ち上がれば、乗り過ごすような事もなく無事に目的の駅で降車出来るだろう。――今し方終電を終えた駅は薄暗くひっそりと静まり返っている。終電を逃し始発を待つ者、家なき者、眠そうに最終点検を行う駅員らの横を擦り抜けて改札を潜ろうとした刹那、フッと。一瞬にしてガラリ、世界が色を変えた。)――……ん? なんだよ、停電かぁ?タイミング悪ぃなー、せめて開けてってくれりゃいいのに…、 よっ、と!(薄暗い通路を照らしていた蛍光灯は消え失せて、切符を吸い込む筈の改札はゲートを開く事無く通せんぼを続けている。券売機の電源が落ちている所から見ても停電が発生しているのは明らかだが、それにしては妙な明るさを感じるのは天窓から差し込む月明かりの所為だろうか。妙であるのは明るさだけではないけれど、腕時計を見遣れば時刻は0時丁度。とっくに寮が閉まっていても可笑しくない時間ではあったが、利川の頭に”急いで向かう”という文字は無い。あらら、と肩を竦める顔に浮かぶ表情は困ったというよりは他人事のように無関心なそれで、取り合えず目の前の邪魔な閉めっきりの改札ゲートを飛び越えては、鞄を肩に担ぎ直し、ゆったりとした足取りで外へと踏み出すのだろう。駅から寮までの道のりは暇潰しにと早い段階で読み終えた地図より既に記憶している。更に一歩、前へ進むべく足を伸ばし――街並みを映した青い双眸が驚きを纏い見開かれ、歩みが止まるまでそう時間は掛からない。異様な光景から逃れるように何気なく仰いだ夜空に浮かぶ金色は、果たして何時もと変わらぬものであっただろうか。)…お月サマってあんなにデカか―――ねえわな。 ッハ、スゲエ。なんだこりゃ。巌戸台ってのは街全体でお化け屋敷でもやってんのか?(明りの失せた街並み。機能を停止した信号機。動かない車。地表に咲く緋。不揃いに立ち並ぶ無数の棺。人の気配を全く感じさせない閑散とした空気。加えて信じられない程大きな月。夢にしてはリアルすぎるし、現実にしては有り得なさすぎる。けれどこれが夢か現実かどうかなどそんな事は利川にとって取るに足らない問題であった。未知なる体験にぞくぞくと身体が疼いては、足は自然と棺のオブジェのひとつへ向く。全面黒塗りで質感と重量を感じさせるそれは、何時ぞやゲームで見た事のある棺桶正にそのもの。これが本当にお化け屋敷であったなら棺の中からオバケが飛び出して来るのだろうが、前に突っ立ってみても未だに何のアクションも見られない。聞き耳を立てても静寂が広がるばかりで、――コンコン。漆黒に誘われるように伸びた腕が二回ほど、無機質な音を鳴らした。)おーい。もしもーし、…なぁ生きてる?――――…返事なし、と。ハハ、ま、生きてりゃ棺桶になんざ入らねえか。おもしれえ。 土ん中に行かねえでこんなトコにボーッと突っ立ってるあんたのツラがどんなんか、拝みたくなっちまったよ。(ぎらり。己が欲望に忠実な利川の瞳は獲物を前にした獰猛な肉食獣のような輝きを帯び、未知の体験に踊る好奇心を制御する事もなく、本能の赴くままに棺の縁へと手を掛ける。今此処でなら死体以外のナニかが棺の中から飛び出して来たって、きっと驚きはしないだろう。否、寧ろ己はそのナニかが出て来てくれる方を期待している。けれど棺に掛けた指へ力を込めたその瞬間、不意に耳を掠めた幼い声が利川の行動を制止した。ゆっくりと振り返った先に居た人物は声に違わぬ幼き子供だったが、周囲を見回してみても保護者らしき姿は何処にも無い。ああ、というより、この子供と己以外マトモに動いている人物など最初から”この世界”には居なかったけれど。)えーっと?遅かったって、俺達なんか約束してたっけか?初対面だと思ったんだけどなー………あっ!もしかして寮のコだったりすんのカナ? だとしてもよ、コドモがこんな遅い時間に外を出歩くなんてダメだろ〜、ママにそう習わなかったのか? …まぁ、ただのガキって訳でもなさそうだけど……………なぁ?(じろじろと上から下まで無遠慮に視線を巡らせて見ても少年は微動だにせず。目の前に居る子供は見た目は確かに何処にでも居る普通の―恐らくは小学生だったのだが、とてもただの子供だと思えないのはこの閑散とした不思議な世界がそうさせるのか。己の問い掛けに対して少年は答えない。一方通行の会話だけが静寂に落ちていく。それはまるで何かが起こることを示唆しているような、警告のような、予言のような――少年の消失と共に、明かりをつけたように色を取り戻した世界では、先刻までの静寂が嘘のように自然や生き物の様々な音を耳が拾っていく。目の前でまるで霧にでもなったように突然少年が消えた事にも驚いたが、ぐるり、と身の回りで起きた出来事を確かめようと見回すように振り返った先で、利川は更に信じられない光景を目にするのである。)………あーら便利、歩く手間が省けちゃったぜ。これもさっきのガキのお陰?それとも俺って夢遊病かなにかだったりしちゃって。怖エ。(先刻まで己は確かに駅に居て、覚えている範囲で歩いた距離は精々数歩程度。だというのに青き双眸に映し出されたのは巌戸台駅ではなく、そこからずっと距離の離れた巌戸台分寮――これから1年間世話になる場所。歩く手間が省けたのはラッキーとばかりに寮を見上げる利川の顔には薄らと笑みが乗ってはいるが、言葉とは裏側に頭の中には先刻の少年の言葉が離れず響いていた。”君たち”――ねぇ。意味深なその言葉が一体何を示唆してのものなのか、利川にまだわかりはしない。けれどさっきのアレが決して夢などではないという事は、棺に触れた指先に残る冷たい熱が何よりの証明で――。)ま、暫くは退屈しないで済みそうだな。(ゆっくりと、現実を噛みしめるように指先を握る。落ちた音色に孕まれていた物は心に空いた退屈の穴を埋めてくれるモノへの期待か、想像すら出来ない未知の世界に対しての興奮か。口元にひっそりと三日月を浮かべては、興奮も冷め遣らぬままに寮の扉を押し開いた。間もなくして、遅かったな、と掛けられた言葉はソファーに座っていた赤髪の女子生徒より。まるで此方を問い質すような探るような鋭い赤に居心地の悪さを感じては面倒だと言わんばかりにアッシュグレイの短髪を掻き上げて、言い訳を吐き出す口は酷く気怠げに開かれる。)ああソレ、…電車の遅延。 とでも言えば雷落ちなくて済むカンジ?(途端、彼女が眉を顰めたのは遅刻云々が理由などではなく利川の言動に対してのものである事など言わずもがな。真面目に答えろ。先刻よりもずっと低く落ちた声はそれこそ雷を落とさんばかりの怒気を孕んでいて、「おーコワ、」と零れた呟きも言葉とは裏腹に感情など欠片もなく、彼女の神経を逆なでした事だろう。)俺はマジメに答えてるつもりだし、遅延もホントなんだけどな。……まぁ信じらんねえならそれでもいいぜ、どの道遅刻した事には変わりねぇんだから。 反省文書けってんならちゃあんと書くし、どーでもいいからさ、取りあえず今は先に部屋に案内してくんね?旅疲れっつーの?…なぁんかダルくってよ。(このままでは本当に雷が落ちかねない。あまり挑発しすぎて面倒な事になる前にと、遅刻の理由から話題を逸らすように首筋に手を当てては肩を竦めて疲れているアピールを。彼女の神経を逆なでするような言い方などせず、最初からただ遅延だと言っていればこんな一触即発ともいえる空気にはならなかった筈だが、ワザと余計なひと言を入れて人の反応を楽しむ事はこの男の悪い癖だろう。彼女も彼女でそれもそうだなと直ぐに空気を切り替えられる辺り器が大きいというか、それともこのような事には慣れているのか――名前は?名簿を見ながらの問い掛けに、ニヤリ、唇の端を持ち上げる。それはこれから面白くなりそうな寮生活への期待を込めて、)――利川景充、だ。これからどうぞ、ヨロシク?(けれどまだ、利川は何も知らない。満月の夜に起こる出来事も、向き合う事になる自身の運命にも。――ああ、動き出した針はもう、誰にも止められはしないのに。)
4月6日 糸川綾
(終電時刻も近付きつつある電車内は静かだった。ガタンガタンと規則正しい振動音以外に聞こえるものは、まばらな乗客達の密やかな吐息と酔っ払いの呻き声。それから周囲を憚るように声量を落とし、けれど深夜のこの時刻にはどうしても不必要に目立ってしまう少女の話し声のみである。長椅子の一番端に腰掛け、黒々とした夜景に目を向けながら電話口に相槌を打つその姿はどう見ても十代そこそこ。学生だ。現に大人の何人かが通りすがりに眉を顰めてはこちらを一瞥していたが、本人はまったく以てどこ吹く風。別に夜遊びの為に出歩いているわけでもなければ後ろ暗いことがあるわけでもないと、そう主張する代わりにつんと澄ました素振りで目蓋を伏せ)――うん、うん、もう着くところだから大丈夫だって言ってるでしょ。そりゃ、こんな時間に訪ねたら先方にびっくりされそうではあるけど……あたしのことは心配しないで、ママ。(先程から繰り返し「途中でホテルでも取ったら?」と不安げに告げる母親になんてことはない風を装って答える。両親はいつだって自身に対して過保護なところがあった。かつて爆発事故に巻き込まれて重傷を負った事があるらしいのだからそれも仕方がないのかもしれないが、今ではもうピンピンしているのだし、高校生にもなれば過度な親の愛情なんて重荷でしかない。それに――と、連鎖的に直視したくない現実を思い出しそうになるのを首を振って押し留めれば溜息を零す。本来であれば彼女、糸川綾にとって、今日は新天地への一歩を踏みしめる記念すべき一日になる筈だったのだ。しかし何の不運か厄日か、事故や悪天候に巻き込まれ道中で足止めを食らうこと数度。幼い頃に一時期だけ暮らしていた街、ここ港区に到着する頃にはもうすぐ日付も変わろうという時刻となってしまったわけである。今朝のニュースじゃ総合運の順位は悪い方じゃなかったのに、やっぱりテレビの占いなんて当たらないものだ――なんて。携帯電話の向こうに居る母親、もとい本職の占い師に言えばどんな反応をされるだろうか。そんな事を考えながらぼんやりと母の声を聞き流し続けていると、機械的なアナウンスが巌戸台駅への到着を告げる。顔を上げた彼女は「降りるから後でかけ直すね」と短く伝えて一方的に通話を切り、駅から改札を通って真夜中の街へと足を踏み出した瞬間――空気が、否、世界ががらりと一変した)…………え?(いくら深夜とはいえ街に光も物音も無いのはおかしいにも程がある。おまけに自分とともに電車から降りてきた筈の乗客の姿は一瞬で消え失せ、周囲にあるのは不気味で場違いに林立する棺のオブジェだけ。これはいったい何が起こったのかと問いたくても周りに動くものはなく、ドクドクとうるさい鼓動ばかりが体中に木霊する。それでも糸川が逃げ出さなかったのは、心の何処かでそれが逃げようと思っても逃げられるものではないと感付いていたからで。動揺を鎮めるべくスカートのポケットから一枚のタロットカードを引き抜いた。しかしその絵柄を確かめる前に、背後から子供の声が響き)……待っていた…? 何を……、君は何を言っているの?(振り返ると煌々と光る月の下に見知らぬ少年が立っている。一方的に投げ掛けられる予言のような言葉に双眸を眇め、警戒の色濃い視線を投げ掛けつつも掠れた声はそんな有り触れた一言しか紡げない。聞きたい事は山ほどあってもそれを問い質す勇気が持てないでいる内に、やがて少年は穏やかな笑みひとつを残して奇妙な世界とともに消え失せる。後に残されたものは何事もなかったかのように時が流れ始める都会の夜景と、いつのまにか目の前に聳え立っていた「巌戸台分寮」と掲げられた建物。それから呆然とその場に立ち尽くす糸川だけで、数拍の間の後、思い出したように握り締めたままだったカードを表に返せば無感動な視線を落とし)0番、『愚者』――…自由、愚行、可能性。一番幸先が見えない結果……か。到着して早々これなんて、気に入らないな。(言葉通りに不機嫌そうな様子で独り言を呟くと、道化が描かれたカードをポケットに仕舞いこんで元々の目的地であった寮の玄関へと足を踏み入れた。これから何が“始まる”のか、今はまだ考えないようにしながら――)
4月6日 徳永小百合
(二年と言う長きに渡って休学していた高校を離れ知人に紹介された月光館学園への転校を決意し、目前に控えた新学期を迎えるに辺り残り短い高校生活の住処と定めた寮を訪れるべく旅立ちを迎えた今日、この日。予想するには容易い忙しなき日々に備えた買い出しを果たし、母を見舞った後に夕刻を目標として寮へ向かわんとしていた徳永のスケジュールは慣れ親しんだ病室へ足を踏み入れると同じくして脆くも崩れ去っていた。前日と比較してお世辞にも良いとは言えぬ母の顔色と何処か不安げな眼差しは病状が思わしくないためか、それとも暫くは顔を出せないかもしれないと口籠りつつも告げた徳永の予測に対する反応か。何れにせよ笑顔で別れを告げるには遠く離れた雰囲気にリノリウム張りの床へと足が深く根を下ろすまで然したる時間は必要とされなくて。僅かばかりでも心の憂いを拭い去ろうと白く細い手を掌で包み、久方振りの高校生活へ抱く期待と喜びを落ち着いた調子で語る事暫し。次第に活気を取り戻した母がやがて語り始めた嘗ての住まいである港区での思い出話へ静かに耳を傾ければ時間の流れは速く、速く。微かな疲労感に身を任せ、双眸を伏すと共に眠りに落ちた母の額を静かに撫ぜ、時間に追われながらも何処か重い足取りの徳永が向かう先はナースステーション。面会終了時間を大きく超過した事実へ頭を下げるも、お母様の事は私達に任せておいてね――なんて、顔馴染みとなって久しい看護師に快く笑顔で見送られ病院を後にしたのは結局、巌戸台へ向かう最終列車が出発する直前で――かくして、何とか滑り込んだ電車に揺られ男物の傘を手にした徳永は日付変更を目前に何とか巌戸台駅へ辿りついていた。流石に巨大都市の一角、それも終電到着直後となれば深夜に差し掛かる時間にもかかわらず駅構内は家路を急ぐ人々で賑わいさえ感じるほど。一刻も早く寮への道のりを定めるが吉と判断を下したものの、幼少期を過ごしたと言え辰巳記念病院と学校、それから自宅を行き来するばかりの徳永に土地勘が在る訳も無ければ況してや急ぎの人間を呼び止め道を尋ねる無神経さを持ち合わせている訳も無く。改札を潜り、大きな月の輝く晴天にも関わらず手にした傘を広げたなら微かな逡巡の後、地図の元へと足を向け)うちの家、どの辺りだったかしら……。(母の転院を切欠に港区を離れてから早10年。今回の引越は決して意に添うものではないものの、二年に渡る休学により聊か気まずいものと成っていた母校への復学を思えば母と過ごした懐かしき地への回帰は喜ばしいものに違いない。然しながら何時までも感傷に浸る訳にはいかないと、長針と短針が重なり掛った腕時計へ目を落とし佇まいを正したなら再び眼差しは地図の上を滑らかに滑り)巌戸台分寮は確か駅の……――あら?(――刹那、地図を照らす灯が一斉に消え失せた。瞳を走らせど駅は愚か周囲の建物からも光は消え、暗闇の中を月ばかりが恐ろしい程に煌々と輝きを放つのみ。停電にも似た情景は然し宛ら別世界に切り取られたが如き静寂に包まれれば徳永の心中へ警鐘と非常事態を伝えるには十分で。驚きに麻痺した感覚が平生の落ち着きを取り戻したならば再度、周囲を慎重に窺って)……少なくとも、茫然としている場合じゃなさそうね。(先程まで家路に着いていた人々は一体どこへ消えてしまったのか。代わって双眸に飛び込む不気味な棺のオブジェへ息を飲むも腹部を擦り吐息を零して不意に仰ぐは頭上に輝く巨大な月。異質と称して遜色ない色彩の月光に照らされ疑念を抱くでも無く、理不尽な情景を密やかに飲み干す姿と言えば寛容さも此処に極まれり。既に始まった事象には贖っても致し方あるまいと、現状を打破すべく思索を巡らせるが答えは見つからぬまま。役目を放棄した両足を奮い立たせんと双眸に意志を宿した矢先、突如響いた少年の声に不気味な世界には不釣り合いなゆっくりとした所作で背後を振り返り)き、みは……お母さんは?こんな時間に、ひとり?……わたし、きみと何処かで会った事あったかしら?(待っていた、と――そう語ったのは本当に目前の少年だったのか。処理しきれない数多の疑問と情報をそれでもどうにか胸中に収めれば一つずつ、解決の糸口を探らんと膝を折り視線を合わせて静かに首を傾げよう。例え不可思議な存在だろうとも徳永にとって彼は月に支配され棺であふれた世界で漸く出会った生身の人間だ。況して幾許も年下に見える少年を徳永が一人にしておける訳も無く。少年の言葉を反芻しながら控えめに伸ばした手は役目を果たせず虚空を彷徨って)な、にが始まるの?きみは、一体……!!(再び響く少年の声は終わりと始まりを告げる前奏曲。齎された宣告の意味を察する事さえ適わず、三日月に歪む唇の影を残して闇夜に溶ける少年の行く末を隠匿せんと、終幕を迎えた狭間の世界は視界に飛び込む人工の光に払拭される。静寂に別れを告げ取り戻す日常は違和感を覚える程に何時も通りで、然しもの徳永も混乱を来した脳を鎮めんと深い瞬きを繰り返し――)どうして、……――なんて。考えても無意味な事、ね。(確かに駅前へ佇んでいた筈なのに少年の消失と不可思議な世界の終焉を経て開けた視界に飛び込む古びた建物を見上げ、紡ぐ言葉はいっそ奇妙なほど沈着に。理解出来ない事象、納得できない結末。全てを飲み込み受け止めてこそ、歯車は噛み合い前進すると徳永は知っている。日常の意味が様変わりするとも知らず、それでも未だ不明瞭な未来に向かい少年の言葉を唯一の縁とした少女はいつしか平静を取り戻した鼓動を感じるように腹部を撫ぜ、閉じた傘の持ち手を強く握り寮へと足を踏み出していた)
4月6日 児玉秀斗
…………。あれ。(まるで厄介払いのように両親から言い渡された転校をあっさりと受け入れ、少ない荷物をまとめ始めたのは果たしていつの事だったか。寝て起きて食べてと実に規則的な生活を繰り返した結果小さな事に対する記憶力はすっかり衰えたらしい、そもそも転校先の学生寮に訪れるのが今日で合っているかも定かでは無いけれど――何はともあれ、目的地である筈の”巌戸台駅”の文字がゆっくりと離れて行く様を、目覚めたばかりの児玉はぼんやりと眺めることしか出来なかった。辺りはすっかり暗くなっており、気付けば車両内からもほとんど人気は失せていた。さてこれで何度目の寝過ごしとなろう、終点の時間を思い出しながら淡く吐いた溜息はひとつだけ。気だるげに立ち上がり扉の前へ立てば、眠たげに眼をこすりながら今度こそ巌戸台へ辿り着くよう意識を保つのだ。――そこから一度の乗り換えを経て、ようやくその地へ降り立ったのは日付を越える少し前のこと。大きな欠伸をしながら寮への道を手探りで辿り始めるものの、土地勘が無い事に加え周囲の暗さから充分な散策は難しく、諦めて適当に一夜を過ごそうと考え始めた、その時だった。)お、第一街人はっけん――(数メートル先を横切った人間が不意に動きを止める。まるでブラウン管越しの画面が一時停止したかの如く違和感を持ったその光景は、気のせいと思う暇もない内に歪に姿を変えてゆく。――瞬く間に棺の姿となった、人であった筈のモノに息を呑んだのも致し方あるまい。先程までとは明らかに”何か”が違う、妙な居心地の悪さに背筋に汗が伝って行った。視界に映る赤は果たして何なのだろう、可笑しなほどにまばゆい光を放つ月だけが妙に恐ろしくて。これが夢なのか現なのかも分からぬまま、けれどもこの空間から抜け出そうと棺の前を通り過ぎ、恐る恐ると歩を進め始めようか。そんな中、突然に視界に入ったのは一人の男の子。不思議な雰囲気を感じるのは目前に広がる光景の所為か、少年が元から持つ雰囲気なのかは分からない。けれどもその存在に興味を惹かれたのは確かであり、彼の口から紡がれる”待っていた”の言葉に疑問を感じながらも、思わず好奇心から口火を切っていた。)……なあ、おれ今迷子しててさ。そっちも迷子?家出なら勇気あんね。(軽い調子の声に少年は反応を返さない。怪しい人じゃないんだけどなあ、そうごちながらも道を尋ねるべく再び唇を開けば、それを遮るように少年は再び羅列を紡いだ。その意味を理解出来ないままに口を閉ざせば、不思議な笑みを浮かべた彼は――気が付けば、そこから消えていた。まるで幻でも見ていた気分だ、瞬きの合間にどうやら世界も色を変えたようで、「あれ、」間抜けに零れた声を拾う者も誰一人として居なかった。)――消えた。うん?でも、ここ寮だ。(いつ、先程の世界から抜け出したのかは分からない。それでも目の前には探していた古い建物があるという事は、やはりあの男の子がここまで導いてくれたのだと考えるのが道理だろう。随分と過去にこの地に住んでいた事はあれど、感覚的には新しい地に降りて直ぐに不思議な体験をした事に変わり無く、ぼんやりと霞み始める意識からその疲労感を自覚した。――別に、何をされた訳でもない。少し不可思議な世界に迷い込んだだけだ。そう考えればそれ以上何かを追求する気にもならず、欠伸を噛み殺しながら歩を進めては学生寮へと入ってゆこう。この先どのような学園生活が待ち受けているかなど、今は知る由も無く――ただ少しでも早く眠りに就きたいとばかり、前へと歩むのだった。)
4月6日 赤萩啓司
(不規則な振動に身を預け、長いこと、遠い遠い何処かの騒音を聞いていた。本当は眠れたら良かったのだが、目を閉じれば何時でも、瞼の裏に或る映像が浮かび上がってくるが為に、それを断念するのは容易かった。家を出ることはもう随分と前から周囲に伝えてきたつもりだったのだけれど、それがどんなに愚かな行為だったかと思い知らされたのが、つい今朝のこと。つまり、別れ際である。)…別に、此処でなくても"最優秀"は取れますよ。お父さん。この期に及んで何を仰っているのか、僕には全く分からないな。(胸裡に燻ぶった感情を口にするのが遅すぎたのだろう。まして自分の父にこんな物言いをしたのは、この時が初めてであったように思う。次男の初めての言葉尻に、一斉に此方に向けられるは父の視線、母の視線、兄妹の視線、生徒達の。突き刺さるようなそれらが酷く汚らわしく感じられて、赤萩は怪訝な顔付きのまま家を飛び出した。走って、走って、辿り着いたショッピングモールのトイレで指が真っ赤になるほど手を洗い、はたと気付いたように顔を上げた。鏡に映った自分の顔は、あまりにも──。気付けば、瞼を閉じていたようだ。首に滲んだ汗を拭い、ポケットから手袋を取り出すと、慣れた手付きで対を両手に嵌める。もう間もなく巌戸台だ。我慢しろ。唇を噛んで意識を雑音に向ければ、ガタンゴトン、と。電車が動く音が、徐々に大きくなっていった。)……0時か。(なるべく早くと思っていたのに、途中何度も駅で降り、手を洗ったが為、気付けばもうこんな時間だ。漸く目的地への到着を告げた電車から降り、改札を通る──も、どうやら旅疲れか、清算を忘れていたらしい。進行方向を塞ぐ改札機から降り返そうとした所で、今度は人の波にぶつかった。失礼。一言謝って清算機の方へ向かい、切符代わりの紙っぺらを手にすれば、改めて改札を通ろうか。然し。先程背後に居た人波の一角であったのだろうか、「ああいうの、ホントやめてほしいよねー」「ちゃんと確認しとけっつーの」少し人の道を外れたような女性たちの声が耳朶に触れた。赤萩の方を見ながら、これ見よがしに口にする文句の程度はあまりに低俗なものであるけれど、生憎と、赤萩は彼女達の眼を見てしまったのである。7、8人程の集団。一斉に此方に向けられる眼。自ずと込み上げてくる洗浄衝動を抑えきれずに、赤萩は両手を小刻みに擦り合わせながら、頭を垂れた。こっちを見るな。見るな。見るな見るな見るな!僕を──。)………見るなぁっ!(──それは、咆哮し顔を上げた瞬間のこと。突如として視界が黒に染まり落ちる。慣れぬ視界に眉間を寄せ、眼を凝らして一点を見ると、先程の集団の姿はそこに無かった。代わりに妙な柩のオブジェが乱立していて、)な、んだこれは……。(咄嗟の停電に瞳を剥き出し、唇を震わせる。再度周囲を見渡しても、暗闇の中に同じようなオブジェが立ち並んでいるだけだった。どこか禍々しさを感じさせるその空間は、異常なまでに居心地が悪く、赤萩は両手を擦り合わせながら、只管に足を急がせる。寮は確かこっちだ。道中はやけに月の光が明るくて、気味が悪い程である。早く寮まで行かねばと思えば思うほど、然し足は思うように動かない──。そんな時だった。「やっと会えたね」そんな声が耳朶に触れたのは。)何だ、君は…。(視界に映る、一人の子供。こんな時間に外に出かけているなんて、都会なら直ぐに補導されているに違いない。けれど、何処か様子の可笑しい──不思議と平然としている彼を見て、赤萩は些か居住まいを正した。)………………どういうことだ。契約?馬鹿らしい。新手の詐欺か何かか。(彼が口にした言葉を一字一句漏らさず聞いたからこそ、出てきた反応は正に正常。いきなり訳の分からないことを言われて署名をしてくれなどと。月に照らされた赤萩の眉間に濃い皺が寄る。けれど、だ。胸の奥の何処か、何故だか署名をしなければならないような気がしていたことも又事実で。)何なんだ、ここも、君も、本当に…。(もう如何にでもなれば良いと自暴自棄になった訳ではない。ただ、人生で一回くらい、自分の気のままに事を選んだって罰は当たらないだろう。『赤萩啓司』几帳面で窮屈そうな文字を書き連ねれば、不思議と浮かぶは自嘲の笑み。目の前が真っ暗で、目を閉じているのかそうでないのかすら、もう分からなかった。そうして、ふと目の前に広がる、煌々とした灯。巌戸台分寮。正に目的地としていたこの場所に、然し知らず知らずのうちに到着しているとなれば、)………フ、何だ。もう寮に着いてるじゃないか。とうとう頭まで可笑しくなったのか、僕は。(馬鹿らしさに吐き出す自嘲の声と、そこに混じる安堵の息。暫くは此処に居場所を置けるのだろう。そう思えば自然と眉間の皺も緩むばかりだ。)──自分の決めた事には責任を、か。当たり前ながら、手厳しい言葉だ。(落とした声は夜闇に消える。扉に掛けたその手は少し震えていたけれど、開くまでに、そう長い時間は要しなかった。)
4月6日 真壁香澄
(父親の転勤で港区に別れを告げてから、もう10年の月日が流れた。抱えていた悩みは歳を重ねるごとに軽くなるばかりか、嘲笑うように重さを増して、其れに潰されないように振舞い続ける負荷も増えた。出て行った時よりもずっと多くの荷物を抱えて―今日、再び懐かしい街に戻ってきた。何か変わるなんて甘い期待はしていないつもりだけど、何処かで本当に悩みのない自分になれるのではないかと思ってしまう。ただ場所を変えるだけで、己自身は何も変われていないのに。一人だからこそ後ろ向きな事を悶々と考えながら、寮の最寄りの駅へ急ぐ。――が、到着時刻は予定よりもたっぷり数時間遅れ。原因は間違いなく自業自得だ。昨夜も布団に入ったのは小鳥が鳴き始めた時刻だった為、真壁は昼間でも酷い睡眠不足。電車にゆらりゆらりと揺られていると、すかさず睡魔が現れた。何時しか瞼と瞼が勝手にくっつき―次に目を開けた時には巌戸台駅をとっくに通過していたという経緯だ。乗り過ごした現実を何とか受け入れるや否や、次に停車した見覚えのない駅で飛び降りて、其の駅構内で逆方向へ向かう路線を探す。――然し、これまた残念な事に向かいのホームの電車に乗ってしまい、ますますよく分からない駅に到着。駅員の力も借り、四苦八苦しながら何とか巌戸台駅まで到着した時、既に真壁の疲労はピーク寸前。しかも大幅なタイムロスの所為で、現時刻は日付変更直前。もう動く事すら億劫で、いっそ電車の中で一夜を明かそうかと考え始めるほどだ。――けれどそんな事は車掌が許さず。急かされるように人の疎らな車内を追い出されたなら、寮に向かうしかない。終電帰りのサラリーマン以上に疲れた様子でとぼとぼ街を歩き、地図を確認しながら寮へ向かう。如何やら此処からはまだ遠いようだ―其の事だけを認識して、落胆。深夜のしんと澄んだ空気は心地好いが、外を歩くのは何となく不気味で好きではない。疲れているが、さっさと寮に行って寝よう。目的地にはベッドが待っている。其れだけを励みに重い足を前に出し、黙々と夜道を歩き続けていた。ふと向かい側から歩いてくる女性の姿が目に入り、会社の残業帰りだろうかと思わず視線が持っていかれる。キャリアウーマンらしくヒールの似合う綺麗な女性。そうして何となしに彼女に目を向けていた―其の時。世界が変わった。比喩ではなく、見えている世界が明らかに変化したのだ。一見すると何ら変わりない空間かもしれない、だが確実に違う。)……う、うそうそうそ、ねえ…これ、どういうこと…?何なの…?何のイベント…?(其の声に反応を示すモノは何一つない。微かに聞こえていた夜らしい音が完全に途絶え、街灯も奪われたように消えた。もうすぐ擦れ違おうとしていた女性も得体の知れない不気味なオブジェに変わり、まるで冗談みたいに薄気味悪い世界。街が可笑しいのだと母に連絡を取ろうと思い立ち、携帯を出したが―死んだように全く動かない。壊れてしまったのだろうか。ぞわりと全身に鳥肌が立つ感覚があった。訳が分からない、怖い。心細い思いで其の場に立ち竦んでいると、何故か影響を受けていないらしい謎の子供が目の前に。其の口から紡がれたのは「遅かったね。長い間、“君たち”を待っていたよ。」という全く身に覚えのない言葉で。)ちょ、ちょっと待って…!――“君たち”?…君は誰なの?なんで私を待ってたの?(不透明な言葉に疑問が次から次へと浮かんで、早口に問いかけてみるけれど―其れに対する返事はなく、「時は全ての者に結末を運んでくる。たとえ目と耳を塞いでいてもね。――さあ、始まるよ。」と一方通行の言葉だけが投げつけられる。)…待っ、何にも同意してないのに始めないでよ…!(そう返した文句もどこ吹く風、慌てる自分と違って相手は微塵も表情を動かさない。そして子供の姿が見えなくなった瞬間。世界には名前のない音もチープな光も戻っており、何処を見ても有り触れた夜だった。しかもまだ結構な距離が残っていた筈なのに、目の前に見えるのは紛れもなく寮の建物。)…え、うそ…此処って、寮…!?(まさか現実にワープが存在するのかと頭がクラクラしてくるが、疲労が減ったから結果オーライだろうか。そして中に入ると、己を待っていたらしき女性の姿。聞けば、部屋まで案内してくれるという。)ど、どうも…こんばんは…?…あっ、大遅刻してすみません!案内してくれるんですよね、助かります!(夜分遅くなので申し訳ない気持ちもあるが、有難い言葉に甘えよう。自室まで案内されたならば「ありがとうございました」とお礼を言い、室内に入ろう。本当は荷物整理などを先に済ませるつもりだったが、辿り着くまでのハプニングと不可解な出来事の相乗効果で蓄積した疲労は計り知れない。大変な事は明日の自分に任せて、今日は何もせず寝よう。ついさっきの不可解な出来事は一先ず頭の片隅に追いやって―さあ、明日から此処での生活が始まる。)
4月6日 玖珂愛
(狼には様々な伝承がある。時に、神々に災厄を齎すと予言された狼は、恐怖に戦く人々に捕縛され乍ら何を思ったのだろうか。何処かで神格化される傍ら、畏怖の目を向けられた狼は何を思い、其の牙を噛み締めたのだろうか。───0時近く、誰も居ない電車内。足を組んだ膝の上に置いた北欧神話の本を閉じる。終電間近に違いない時間というのに不気味な程に人の気配はなく、窓際の景色は静閑に流れる。響くのは電車の機械音只一つ。玖珂を運ぶ先は、嘗て過ごした街。両親の仕事の都合で一度は離れた街に、戻って来た。窓から眺む風景は十年前の記憶の片隅にあるが、懐古する程に深々とした思い出があるわけではない。只、あの日に巻き込まれた爆発事故の前後、霞がかったように引き摺り出せない記憶を思い、玖珂は焦慮に唇を噤む。『次は、巌戸台───』 アナウンスは目的地を示し、玖珂の降車を促す。本を鞄へと仕舞い座席から立ち上がると、膝上のプリーツスカートが揺れた。未だ肌寒い春先の夜半、駅に降り立つとマウンテンパーカーのポケットに両手を突っ込んでは撫肩を縮こめて、)あー、寒い寒い!電車遅延とかツイてないね、ホント。寮に着く頃には0時過ぎちゃうじゃん、疲れてんのにさあ……。(少女の様相乍ら、空気震わす声は中性的で少年期を抜け切らないアルトボイス。改札を出て腕時計を確認すると、時刻は間もなく0時。当初の予定なら一時間前には到着する筈だったのに、偶然に遭遇した人身事故は大幅に其れを遅らせた。長旅で疲弊した身体を直ぐにでもベッドへと沈み込ませたい切実な願いが胸中を占め、此れから籍を置く月光館学園の学生寮へとショートブーツを鳴らす。コツリ、コツリ。街灯が照らす夜道を歩んでいると、招かれざる客人が約一名。「ねえねえ、こんな時間に一人でどうしたの?よかったら一緒に遊ばない?」───此の周辺を溜り場としているであろう、軟派男。決して大衆受けしないだらしない形をした男は、暗闇でも分かる若気面で甘たるい声を玖珂に掛ける。)急いでるんだ。それに、君に興味ないよ。(睨むように双眸を向けて言い放てど、男は引き下がる気配を見せない。「そんなツレないこと言わないでさ〜」「ね、遊ぼ?」「イイ遊び場所教えてあげるからさ!」 次々に押し寄せる言葉の波に、玖珂の眉間には皺が寄り始める。鬱陶しい。最初の一言を最後として無視を続けていたけれど、玖珂は未だ子供。我慢の限界に達すればくっきりとした輪郭を持つ濃紺の双眸にて再び睨みつけようと、)あのさ。僕、男なんだけど。それでも良いの?そういう趣味ある?こういう格好してる僕だって大概だろうけど、それに手を出そうとする君も相当だと思うよ。君のお仲間に変な目で見られたくなきゃ、止めとくのが吉だと思うけど。……じゃあ、そういうことだから。(隠したわけでもない秘密の暴露をして、彼を馬鹿にするような一言を。予想外の事実の宣告に目を丸くする軟派男に背を向けて再び歩き出すと、其の背に向けられるのは罵声。当然だ。異性装者たる存在は万人に受け入れ難く、寧ろ寛大に受け入れられることの方が稀だ。軟派男の言う「気持ち悪い」だの「頭がおかしい」だの、ご尤もである。少女だと勝手に勘違いしたのは其方だろうと言い返したくなりつつも、此れ以上の面倒事は避けたく足を進めた。然し、其の足は止まる。行成り途切れた罵声。関係ない筈なのに湧く胸騒ぎに、ゆっくりと背後を振り向く。)………何だよ、これ。(振り向いた先に、軟派男の影はなかった。其処に在るのは棺に似た何か。気付けば時計の針は12時の方向で重なり、0時を迎えていた。何かが可笑しい。罵声を言い尽くした彼が去ったのか、知らぬ間に棺の肖像を通り過ぎてしまったのか、玖珂には処理し切れない。只、周囲を取り囲む異様な空気だけが現実と認識出来て、冷や汗が伝う。気持ち悪い。周囲を見渡し乍ら行先の知れない道を歩めど、空気の違う空間だけが続く。光も、音も、生もない。ふと見上げた頭上に光る月は大きく、不気味に、存在感を放っていた。背筋がぞわりとする。人が自我を失い狼男へと変貌を遂げるような、何かが込上げる感覚だ。得体の知れない恐怖に支配されそうになった瞬間、響くのは少年の一声。───「遅かったね。長い間、“君たち”を待っていたよ。」───音のない空間に響いた、自分以外の“音”に其方を向く。人だ。幼い少年だった。其れは若しかすれば、“人”ならざるものかもしれない。何者かも分からない少年との対峙に静かに息を飲み、玖珂の唇は開かれる。)待っていた、……って、どういう意味?僕は、君を知らない。それに“君たち”って、僕以外にもいるってこと?……ねえ、ここはどこなの。気持ち悪いよ。巌戸台っていつもこんな感じなわけ?月も異様に大きいし、……何の気配もしない。ねえ、一体どういうこと?(次々に沸き起こる疑問。一つ一つを投げ掛けれど、少年は答えを返さない。悪態吐こうと唇を開こうとすれば、再び少年は何かを語る。───「時は全ての者に結末を運んでくる。たとえ、目と耳を塞いでいてもね。」───……「───さあ、始まるよ。」───そして、少年は姿を消す。世界も、元に戻る。止まった歯車が再び動き出す音がした。気が付けば玖珂は見知らぬ建物の前に立っていた。入り口に『巌戸台分寮』と書かれた其処は、玖珂の目的地。)………、………………ここ?(一瞬、状況が飲み込めずに沈黙が続いた後、言葉は落ちる。ぱちぱちと瞬きを繰り返し看板の名前を凝視すると漸く現状を理解して、寮へと踏み出した玖珂は重い扉を開く。先程の空間とは違う明るい室内に安心感を抱き、緊張に強張っていた表情は僅かに和らいだ。「着いたか」と、凛とした女性の声を聞く。鮮やかな深紅が似合う女性は、如何やら此の寮の住人であるらしい。幾つかの言葉を交わせば、彼女の案内で自分の部屋へと訪れる。既に荷物の届いている其処へと足を踏み入れたのなら、玖珂は彼女の方を振り返った。)ありがと、お姉さん。……あのさ、………いや、なんでもないや。おやすみなさい。(此処に至るまでの事象を問おうとしたけれど、結局口は噤まれて言葉を喉奥へと飲み込む。就寝の挨拶に頭を下げて扉を閉めると、鞄を放り投げてベッドへと飛び込んだ。身体の沈む感覚は、玖珂の待ち望んでいた心地。)んー……なんか、すっごい疲れた。変な体験しちゃったし、最悪。……もう、あんなことなきゃ良いけど。(此の街に着いてから体験した不思議な時間は、玖珂の精神を削り取る。あの時間がまるで嘘であるかのように、時計の秒針が響く此の場所は“平和”だった。化粧落とさなきゃ、着替えなきゃ、明日の支度しなきゃ───言葉がぐるぐると回る度に瞼は自然と落ちて、玖珂は微睡みの中に落ちて行く。 玖珂は、夢を見た。狼が深海に沈む夢だ。深く、深く、何処までも落ちて行く狼は、其の瞳に何を映しているのだろうか。深海から見える月を恨んでいるのだろうか。答えは分からない侭だ。只一つ分かるのは、夢の中で落ちて行った狼が自分自身であったことだけ。まるで何時か其の狼が自らの傍らに現れる暗示であるかのように、夢は存在を示した。訪れる未来、忌み嫌われた狼は何かを得ることはできるのか───玖珂愛は、未だ何も知らない。何も、知らないのだ。)
4月6日 加賀美誠
(父親の海外赴任に伴っての転校。残り一年となった高校生活はせめて日本で過ごしたいとの主張が受け入れられ、遠縁の親戚が住み、自身もまた遠い昔住んだ事があるという巖戸台へと移り住む事となった。両親と同日の転居となった今日。20時の飛行機に搭乗するという両親と最後の夕食を共にし、見送りを済ませた後、さて自らもこれから住まう事になるという月光館学園の学生寮へと足を運ぼうと、空港から巖戸台駅方面のホームに足を踏み入れれば、目に入るは、ホームから溢れんばかりの人、人、人。空港を訪れた際よりも随分と多い其れに思わず電光掲示板を見上げれば、時刻表示は現在時刻より20分程前の到着電車。オレンジ色で流れるテロップは『人身事故により遅れが生じております。現在復旧の目処は経っておりません』―)…見送りになんて来るんじゃなかったかな。(思わず小さな溜息と共に吐き出された言葉は、これから暫く両親と会えない高校生の台詞としてはやや冷めた物だったかもしれない。飛び交う人の声が雑音と化す喧騒の中、確かな言葉として加賀美の耳に届いたのは前方にて会話をしている女子大生の集団の声だった。「なんか飛び込みらしいよ」「で、助けようとした人も引かれちゃったらしい。」「うわ〜かわいそう!」)自殺するなら迷惑がかからないようにしてくれれば良いのに。…ああでも、助けようとするのも馬鹿だよなあ。(口の中で細く呟く非人道的な言葉は、この騒音の中では誰の耳にも届くまい。況して、聞こえたところで一見すれば真面目な学生以外の何者でもない彼の口から出た言葉だと思う者は居ないだろう。―そうして、他に手もなく立ち往生すること2時間。漸く動いた電車は鮨詰め状態で、4月と言えどもこれだけ人が集まれば汗も滲む。たらり、背筋を伝う汗がどうにも不快で、揺られながら今一度大きな息吐いた。そうして、)…随分と遅くなっちゃったな。(目的地、巖戸台駅に着いた頃には時計の針は0時の少し前を指していた。22時頃の到着と知らせていたから、もしかすれば連絡が入っているかもしれなかったが、生憎と携帯電話は2時間の暇をつぶす間に電池を切らしてしまっていたので連絡の取りようもない。春とはいえ、4月初旬の深夜。吹く風により汗が冷え、ぶるり、寒さに其の身を震わせた。足早に改札を抜け、一歩。10年の時を経て舞い戻って来た土地は、矢張り見覚えなどまるでなく。故に何の感慨も抱くことはなく、目的地へと進むのみ。印刷してきた地図を片手に、進行方向を確認しながら足を踏み出した、瞬間。)…………何だ、これ……(音が消えた。否、音というよりも寧ろ、気配が消えたと云った方が正しかろう。例えば、虫の囁き、鳥や猫の息遣い。生自体が否応なく発してしまう空気。そういった物が此の空間から唐突に消失した。それだけでなく。朱に染まった視界、異様に煌く巨大な月。そして、並ぶ棺。先程から冷えていた身体が一層冷え、両腕で自身の身体を抱きすくめながら其の場に立ち止まり、視線だけを巡らす。さすれば鼓膜を揺らす、幼い声―「遅かったね。“君たち”を待っていたよ。」)……君は、今何が起こっているのか、分かっているの?(振り向けば一人の中性的な顔立ちの子供。異様な状況に動じている様子のない其の様子に思わず、問う。兎にも角にも現状を把握したい、其の一心。少なくとも加賀美よりは理解しているだろう相手の様子に、僅かに目を細めて答を待つも、返って来たのは答と云うよりは寧ろ、謎かけ。)……だから質問に、……って、え…?(余りにも不可思議な子供の様子に今一度疑問符を投げ掛けようとした瞬間。視界の端に童子が僅かに笑ったのを捉え、気が付けば其処に人影はなく辺りは平凡な街へと姿を戻していた。然れど先程までとは違う光景に瞬きを一つ。正面へと向き直れば其処には”巖戸台分寮”と書かれた建物。俄かには信じ難く、其の場に縫い付けられたように身動きが取れない。未だ夢現から抜けきらぬまま、冷えた指先を暖めようと左手で右手指を握り締め、僅かに手先に温度戻れば、やや平静を取り戻したようであった。疲労から夢でも見ていたのだ、そう結論付ければ、ゆっくりと一歩、安全を確かめるように大地を踏みしめ進む。進む先は勿論、平穏な新生活。―そう、平穏な新生活の筈だと信じて寮門を抜け、妙に長かった1日を終えるのだ。)
4月6日 上広優一
(既に新天地へと送り届けた荷物の中身――歯ブラシ、ワックス、お気に入りのふわふわタオルにヒトデのぬいぐるみとエトセトラ。諸々を入れ忘れたことに気がついたのは何時ものように起床して、朝食の用意をし始めた際のことだった。小気味よく鳴り響いたオーブントースターの音がまるでその合図のように、閃きの後に停止した思考は第一に小さな溜息を吐き出すことを指令した。「なァ貴子や、俺は日常生活に必要だと思われる諸々を割りと忘れてしまったみたいだよ……」。通りで何時もと同じ生活が送れると思った!――傍らで眠たそうに顔を洗う愛猫に語りかけてみれば相変わらずおマヌケねと見下すようなニャーにもミャーにも満たない呻き声を漏らされるだけだった。人知れず悲しみを積もらせていく午前9時15分。母親の「まーくん、まだ出なくていいの?もう時間じゃない?」の言葉に不意をつかれて滑らかなフローリングに躓けば、重力に逆らわず落下したトーストがさも惨めだ。時を刻む時計の針が奏でる規則的な音は平常心を保つ為には効果的だが、本来の用途を思い出せばそんなことも言っていられないだろう。「早く用意を…あら、また落としたのね」「ンな何時ものことみたいに言わないで欲しいわ…」。哀れなトーストの後始末を終え、必要最低限の荷物のみを詰める筈だった鞄を膨らませて家を出る頃には予定時刻を大きく上回ってしまっていた。尤もこれはよくあることだと背後で手を振る母の呆れ顔が物語っているけれど。行って来ますの言葉と共に振り向けば、向けられた餞別の言葉――「貴方は前を向いて歩かないとこけるわよ。いってらっしゃい」――を胸に刻み、苦笑を貼り付けて乗り込んだ駅が目的地の反対側へ向かい始めたことは――彼女には知る由もないことだ。昼間の強い陽射しを和らげ、僅かに太陽が西に傾き始めた頃に漸く辿り着いた地。都会と称すに相応しい駅前の雑踏にふらりふらりと揺すられながら、仰ぎ見た町並みは人工的にも商業的にも非常に豊かだということが窺えた。――田舎者には厳しそうだなァ。早朝まで踏み締めていた長閑で平穏な土地を思い返してはぽつりと零した独り言も、当然のことながら誰に拾われるわけもなく足音の波に呑み込まれていく。幼少期を過ごした土地とはいえ、その記憶は限りなく不明瞭なのだから、此処を新天地と称しても差し支えはないだろう。老若男女問わず流れていく人混みに押されるままに歩き出した足は、特に目的を持っている訳でもなくその歩みを続ける。最終的な目的地は決まっているとはいえあまり早く着いてもやることもないだろうと、なにより、久方ぶりに触れた都会の空気を楽しみたいと思うのは、やはり田舎者の発想なのだろうか。釣り上げた口角とご機嫌に細めた双眸は男に和やかな雰囲気を醸し出していたのだろう。「あの…」――突如として体に触れた控えめな感触に、跳ねた肩からリュックサックがずるりと落ちた。)――……ハイ?………えっ…あー…すみませんけど俺、此処の住民じゃないんですよ。…本当、すんません。……えー…っと、(もごもごと口篭る声に積もる罪悪感を感じ取ったのか――眼前の女性の申し訳なさそうに歪んだ顔にチクリと胸が痛んでしまえば最後、謝罪と共に遠ざかる背に向けて踏み出した足は止まらなかった。「ちょぉ待って…おねーさんっ、何処って言いました?」「良ければ俺もその場所探すの手伝いましょか?」――。ある種必死とも取れる口振りに、謙遜と遠慮を含みながらもおずおずと一度、二度繰り返された肯定の頷き。思わず綻んだ頬はきっと彼女にしてみれば不可解なものだったろう。幾度となく道行く人に話しかけてかき集めた情報を元に女性の目的地へと辿り着けば、喜びと感謝に満ちた笑顔がひとつ。「ありがとう!君は今時珍しいくらいいい子ね」――“ありがとう”。若しくは“いい子”。その言葉だけで思わず緩んでしまう頬が隠しきれなくて、締まりの無い唇からは白い八重歯が覗いていたことだろう。耳慣れたキーワードにそれでも緩む頬が、更に彼女の微笑を深くする。「どうしてそんなに嬉しそうなの?」)…んー?……引越し早々にこんな美人と関わり合えて嬉しいンだよ。……ハハ。冗談だ、ジョーダン。人に感謝されるのが好きな…まァ所謂、御人好しだからー…かな?(「ソレ、自分で言うものじゃないわよ?」――苦笑混じりの言葉にそりゃあそうだと笑ったのは、彼女の言葉が尤もだったからだ。然し此処で大人しくそうですよねなんて返すのは面白くないだろう。柔軟な脳は数秒の間も開けずに緩い微笑みを乗せて、)……だったら貴女がもっと、俺のコト褒めて下さいよ。ねえ?(あと俺、この街のこと全然知らないから教えて欲しいなぁって――。―――。切欠こそ善意であれ、次第に下心の割合を増した強かな計算から獲得した街の案内役と手を振り合いサヨウナラをしたのは、すっかり辺りが暗くなってしまった後だった。日中に仰ぎ見た輝かしい太陽は、今はその強い光よりも幾分か柔らかい、それでいてどこか怪しい雰囲気を醸し出す月に変わっている。――あの月みたいにちょっと妖しい美人さんだったなァ。人知れずいやらしい笑みを作り上げる唇は、もしこの場に第三者がいたのならば顔を顰めること必須だったろう。而して日付変更を間際にしたこの時間では自分以外の存在は確認出来ず、他者の存在といえば軽快なメロディと共に着信を告げる携帯電話程度だった。表示された電話番号は未登録ながら見覚えがある――。)…もしもーし、おねえさん?早速電話掛けてくれるとかすげェ嬉し……ん?俺?まだ寮にも着いてないよ。つか人居なくて寂しいんだよね……さっきまで誰かさんが一緒にいてくれたからさぁ………うん?いやぁ、べつに口説いてないって…てか女好き違いますからァ…俺はフェミニストなだけっ、て、ちょっと聞いてんのか?おねえさ(ブツッ。――不自然に途切れた声音に、否、正確に言うならば途切れさせられた声音に驚いた。反射的に眺めたディスプレイには通話終了の文字も時間も何もなく、真っ黒な画面に反射した自分の顔だけが映っている。まさか壊れたのか。試しに適当なボタンをプッシュしてみても何の応答もない其れを弄りながら踏み出し続ける足。そして何時しか、体全体を包み込む可笑しな違和感に気がついた)…つか暗ッ……?は?電気ついてねえし田舎かよ……いや都会だろ…、何コレ、(先程までは携帯に加え、頭上から照らす街灯によって保たれていた光が唐突に消えているのだ。見渡してみれば前後、恐らく左右も、全ての道から光が消えているのだろう。周囲を僅かに照らす光は今や、遥か上空の輝かしい満月だけである。「うわっ月綺麗だなおい。」――意図せず零れた何とも頭の悪い言葉はさて置き、其れに目を奪われたお陰で小石に蹴躓き転倒したことも――、さて置き。鈍い痛みに洩れた呻き声に被さって、リンと、高い音が夜の静寂を――否、不自然なほど、静まり返ったこの場に響いた。振り返れば、青い髪。小さな背丈。なんで子供がこんな時間にこんな場所で。膨れ上がる数々の疑問が胸を詰まらせる中、研ぎ澄まされる聴覚が、鈴のような彼の言葉を拾う。「待っていた」――と。)……はあ、そりゃどうもお待たせして…じゃないね。…なァぼく。どっから来たの?親は?……まっさか、その歳で家出なんてこたぁねえもんなぁ…?(――自身が置かれた怪奇な状況よりも、何よりも、目の前の影に言葉をかけることの方が先決に思えたのは彼があからさまに子供であり、そして現在時刻が零時を越え、深夜に差し掛かっているからだ。尤も、時計すら活動を停止している今では正確な時刻を知る術もないが――。自分を善人だと言い切ることは出来なくとも、人間として一般的な良識に則って告げた言葉は静寂に大きく響いた。ひどく違和感を覚えたのはきっとその静けさが原因だろう。光の有無と携帯の故障。そして奇妙な静寂に、視界に纏わりつく赤い靄。不自然な点は数知れないが、転倒し地面に座り込んでいた体勢を戻せば、自然と少年の方へと体は向き直る)よくわからんけども……何処か安全そうな場所に連れて行った方がいいか?……俺が攫ったみたいになるが…、まァ…なんとか…ほら、(一歩踏み出した足が距離を詰めようとして、彼の言葉に動きを止めた。「始まる」。なにが?犯罪者への道以外で頼むよ。――冗談と本気が半分の言葉を吐こうとした唇が、動かなかった。ぼんやりと意識が霞む。――不思議だ。この状況も、眼前の彼も、まるで夢のように現実離れしている。若しかしたら本当にユメなんだろうか。それならば――フッと体から抜けた力が、同時に精神までも遠ざけていくようだ―。―――暗転する視界。意識。)……ホテル…?…ぁ、…寮か…。……寮か?(“気がついたら”。その表現が一番適切だろう。目の前に聳える少々古びた建物は、確かに自身が目的地としていた場所だった。どうやら俺は疲れているらしい。それも、カナリ。結論は疲労困憊から生じる深夜の白昼夢だと託けて、躊躇なく開けた扉の先で鮮やかな赤色が見える。――――不可思議な体験も、同じくらい不可思議なあの少年も、寝て、起きて、覚えていたら考えよう。案内された殺風景な部屋の奥、ベッドへと勢いよく倒れ込めば深く深く息を吐く。――ふと、我に返った。そういえば突如切れてしまった女性との電話はどうなったのだろう。)……明日また電話しよ(噛み殺した欠伸に反し、拭い切れない疲労と睡魔に逆らう理由もなかった。最後の力を振り絞ってやることとなれば、膨れた荷物の中から睡眠時のお供として馴染みのぬいぐるみを引き摺りだすこと位か。海の生物である其れは見方を変えれば夜空に輝く星のようにも見えるだろう。ぼんやりと霞む脳内では、美しい女性と、不可解な少年がにっこりと微笑み――そういえば、爛々と輝く大きな黄金色の双眸は、巨大な月にとてもよく似ていたと――、漠然と思った。)
4月6日 立平奈南
(両親の仕事の都合によりその場を離れた瞬間から時を止めた断片的で曖昧な記憶は、10年の時を経たうえ宵闇に紛れたお陰で額面通りの”見知らぬ場所”へと上書きされよう。奇異な幸運不運体験数こそ常人の枠を越えるものの、それを除けば平々凡々な一学生として生きる女にとって深夜ひとり出歩く行為は僅かばかりの背徳感を生み、得も言われぬ高揚感とで満ちた胸裏はその他の感情の一切を受け付け得ぬと、イヤホンを通して伝わる曲は他車両とのすれ違いぎわの騒音、金属と金属とが生む摩擦音、車掌のアナウンス諸々の合間を埋める文字通りの BGMと化した。斯くして待ちに待った駅名が告げられその地に降り立ったのは24時20分前。身の回り品を詰めた小さめのトートバッグを肩にかけ自動改札を通り抜け、何重にも折りたたまれた地図を片手に巌戸台駅ロータリーを歩みゆく。電光掲示板やら白熱灯やら、ロータリーへと出ればコンビニその他店のお陰で眩く賑わう当駅前を行く足取りも軽く、いくつもの折り目を正しながら道を確認すべく紙面へ視線を落としたところで、)あれ?ウソ昨日充電したよね?長い間使ってるし電池弱くなってんのかな。ま、仕方ないかぁ(紙面へ落とした視線をそのままに、ポケットをまさぐり音楽端末へと指伸ばし押す。数コンマ空け再び押す。更に数コンマ空け再び押すも一向に続きを伝来しえぬ其れをと うとう引っ張り出して、曲一覧どころか真っ黒に塗りつぶされた画面を捉え充電切れを確信してはイヤホン外しポケットへ。そうしてさらなるタイムロスなんて冗談じゃあないと―そもそも当駅に今自分到着したのも迷った末に乗り間違えた電車が車内トラブルを理由に停止しと相次ぐ不運に見舞われたためだが―視線は紙面へ向けたまま、静謐さ故かやけに耳立つ足音伴いながら歩むこと数歩。無音をかき消す地面との摩擦音、己の頭上に影を落とす存在に眉寄せ紙面から視線外したところで漸く双眸が映したのは、)ぎゃっ!?!(色気可愛げ淑やかさ諸々を放り出した叫声は、眼前迫った黒い棺に所以する。反射的に後ずさり、歩道、道路、至る所に位置する棺らしき物体の数々。異様なほどに明るい濃黄色 の月明かり、それから赤く染まるコンクリートの不気味さが恐怖心を煽る。つい数秒前まで気にも留めなかったが、見渡す限り人っ子ひとり居ないこの情景の異様さは明白で、目をそらしてなお雲の合間から顔出す満月の濃黄が脳裏から消えてくれやしないから、)ね、ここ巌戸台駅じゃんね?私道間違えたかな、どう考えても墓地………ですらないよね地図にも書いてないもん。ってゆかこれ何のためにあんの、私 私もあの中入ん………の?(萎えた足腰では直立不動すら難しく、両腕で膝を抱く形でしゃがみ込む。そこらじゅうにある物体を見つめるさなか、心内に座すは状況が不明だからこその恐れと少なからず日常を逸脱したからこそ運命だとの受容とが混じった複雑な其れで、安直にも棺から連想する”死”というワードに「ってことは、私ここで死ぬ運命なんかな。」頭を垂れて地へ浸した呟きは誰に向けてのものでもない。やけに明るい月明かり、黒い棺らしき物たちを時折見上げているうち如何程が経過しただろう、) っ!?(「遅かったね。長い間、”君たち”を待っていたよ」背後からの声に不意を食って、激しく肩を揺らした反応は大仰と笑われても構わない。瞬間的に強く早く脈打つ拍動を感じながら声の主へと向ける動作は緩慢に、顔上げ振り向くまでたっぷり数十秒。君”たち”って何とか、待ってたって何とか、次々生まれる疑問は脳内に反芻するだけして、カラッカラに乾いた口腔内じゃあ音になり得ない。次いだ言葉と浮かべられた微笑みがより一層謎を深めるばかりで、喉を鳴らしたそのとき、「どういう意味?」との一言は辺りに紛 れ、不気味なほど眩かった月明かりは穏やかな其れだ。如何にしてたどり着いたかは不明だが、握りしめた地図からして目の前に位置する建物こそ己の目指した場所だと知っては一先ず中へ足を踏み入れることとしよう。10年来に降り立った地で如何なる運命が待ち受けているか女は未だ知れず、其の運命に身を任せることとなる。)
4月6日 藤澤幸
(楽しげな微笑が咲けば此方も微笑となる。自分の見送りという名の友人達との集まりであれ、最後まで普段と変わらず親しみを寄せる彼女達が笑んでいる様子を見詰めては微笑んでいることばかりであったけれど、他者が思うよりもずっと楽しいという感覚を共有していて、築いた時間と共に掴んだ距離は互いにとって心地の良い空間を生み出していた。予定していたよりも随分と移動の時刻から遅れてしまう程にはそれはもう楽しんで過ごしていたため、駅に着いた頃には時刻はもう日付が変わる頃合いに近付いているのだから、足早に――)あ、れ?(――此処は、何処だろう。同じ場所でもまるで別世界に足を踏み入れたような感覚に思わず足を止める。昔訪れた場所を久方振りに通り掛かったことで生じる違和とは全く異なった、ほんの僅かな時で世界が変貌したような、そんな感覚に。思考を伴わせずに動かしていた歩みのうちの一歩で変わったそれの原因が何にあるのかなど気付くことは出来ぬまま、目に掛かる前髪をそっと払って見渡す景色は不気味そのものだった。日付変更前後という時刻に出歩くことが少ないことと10年という時間を経て踏んだ土地への不慣れさが起こす錯覚のようなものだと、懐いた不安を鎮めるように胸元で左手を右手でそっと包み、ふうと一息吐けば止めていた足を動かし始める)もうすぐだと思うんだけど…(目的地である学生寮までの道程を記した左手の地図に幾度も視線を落としながら、進める歩幅が次第に速さを増すのは進めば進む程に現状の異質な空気を感じ取っているが為に。音が無いのだ。此処には夜という時間が持つ音がない。光が消えたのは何か地域特有のものであろうと思いこませたそれにも疑問を懐かざるを得ぬほど、微かでも街にはある筈の生活音や機械音、姿を隠して営みをする虫や動物が生む音が欠けていて。辺りに響くのは小さな自分が生み出す足音ばかりであることに元より頼りなさ気に歪んだ顔にも自ずと強張りが広がり始め――)…え、………棺?(姿をより明瞭に捉える為に細めた目許が正体を捉えて目を丸くした。進行方向に現れた遮蔽物。通行の妨げになるような歩道の真ん中に置かれたモニュメントのような大きな物を前に再び足が止まる。今は共にしている者もいないのだから視線を周囲に向ける必要は無く、自分の意思にて選択をしよう。浮かべる表情の割にそれへと近寄ることに躊躇は見せずに歩みを寄せて怪しげな物に手を伸ばすとそっと外観を撫ぜ、無機質な感覚のみしか得られはしないことに理由の定かではない安堵の息を吐く。歩道と棺という組み合わせが不自然である筈なのに異様に噛み合う不気味さを感じてそれ以上触れることを止め、その棺を避けるように距離を置いて横を通り過ぎてから幾度かちらちらと振り返りながらもまた歩み始めよう。不安を払拭する為に前進しているというのに見掛ける棺の数が増えても人と出会えていないことに、微苦笑を宿した顔にも不安が色濃く滲む)こんな街だった、かな。それともやっぱり道間違えちゃった…?……早く、寮に着きたいな(擦れ違う棺を横目に呟く声が小さく寂寞とした世界に落ちる。未だ不気味な印象は拭えはしないが、現時点では身に及ぶような危険性がありそうには見えず、動かす足に怯みを見せずに確かに前進し――唐突に届いた自分以外の存在の声。驚き振り返ると其処に佇む少年の姿を瞬きで刻んでから、下げた眉をそのままに小さく息を吐いては少年に視線を合わせるよう少し背を屈め、)…あの、(そう微かに緊張を孕んだ声を発したところ、同時に重なった少年の言葉に一先ず紡ごうとした言葉を呑み込み、彼の言葉に耳を傾けた。覚えのない発言に首を傾げはするけれど遮ることをしないのは癖のようなものでもるが、今は心当たりの無い言葉に意味を通す為に思案を巡らせている所為でもあった。意味を理解出来ない内容が続いたこととは異なる不穏さが心を過った頃、困惑を宿す瞳に笑い顔を映せば次の瞬間には彼が消えていて、残された自分はただ茫然と立ち尽くすだけ――そうして思考の整理も出来ぬうちに、気付いた時には其処はもう巌戸台分寮の前。先程の少年や街の様子は気掛かりな点として心に留め置いて、漸く辿り着いた寮へと足を踏み入れようか。ざわめく予感を共に、一歩をまた踏み出す。)
4月6日 当真玄
じゃあ、俺はもう行くよ。(他愛のない話にも嬉しそうに相槌を打ち、事あるごとに「げんはいい子ね」と笑う母にそう告げたのは18時21分。夕食の時刻が近づき、騒がしくなるその前に立つことにした。「もう行ってしまうの?ひとりで本当に大丈夫?」縋るような眼差しに腰が重くなる。けれども今日は入寮日。後ろ髪を引かれる思いで椅子から立ち上がれば、そっと母の手を大きな掌で包んだ)大丈夫。ほら、学校の寮だし、同い年の子もたくさん居るんだ。心配ないよ。…それより、俺は母さんの方が心配。無理しないで、父さんや病院の人の言うことちゃんと聞いてね。……ごめん。また来るよ。(病室を出る間際、完全に立ち去るまでは何度でも、振り返れば手を振り続けている母の姿に目尻を少し和らげた。――巌戸台港区。10年ぶりに帰ってきたこの地がひどく懐かしい。此処を離れる原因を作った事故。その前後のことはあまり覚えていないものの、そっと目を閉じれば、瞼の裏に浮かび上がるは幼き頃の思い出が詰まった家。今よりずっと可愛げのある笑顔とともに広い庭を駆け回った小さな足。時の経過を感じさせる変化はあれど、十分に懐かしさを宿した其処で過去の気分に浸りすぎたのが悪かった。随分と時間は経ち、巌戸台駅に戻ってきたのは23時36分)…まずいな。久しぶりにあそこに行ってみたら、もうこんな時間か…(入寮は今日中であればと言われていた。ならば少しくらい遅くても、否、できれば遅れたいと思ったのは事実であったが、予定よりも残り少なくなった今日。流石に日付を超えるのはまずいだろうと歩みを早め、終いには全力で走り出していた。荷物らしい荷物は携帯と財布くらい。小さなショルダーバッグを揺らしながら、履きなれたスニーカーでアスファルトを踏みつける。23時59分)…っはあ、……にしてもっ……人が、多っ…い…(一日が終わるという時刻にも関わらず、この街には夜が来ないのか。切れ切れに吐き出された声は、光に音に人に満ちたこの街ではすぐに消えてしまう。23時59分59秒)…やばい、時間が…っ(深夜0時、一日の終わりと始まりの時間。疲労を訴える足に引き止められ、角をひとつ曲がったところで立ち止まった。久しぶりに体を動かした所為か、見た目よりも貧弱な体が悲鳴をあげる)……くそっ…(長い体を折り、ぜえぜえと荒く息を吐き出し、新鮮な空気を吸い込む。その繰り返し。すると次第に胸の苦しみも失せてきた。ならば再び歩き出そう。額の汗を拭い、ようやく意識が外界に向いたその瞬間)………っ…!?(声が出なかったのは息切れの所為じゃない。目の前に立ち並ぶ棺、棺、棺。自分以外、生きている者の気配がないのだ。落ち着いたはずの呼吸が、無音の空間ではやたらと響く。身動きひとつ、衣擦れの音すらも鮮明に聞こえる。慌てて来た道を戻るも、すれ違ったはずの人々は生なきオブジェに。眩いネオンは消え、代わりに不気味なまでに煌々たる月光が街を照らしていた)…これは…夢か…?(安直な現実逃避も虚しく、背後から声。反射的に振り向くと小さな子供が立っていた)…おい、おまえ、何言って…(子供の紡ぐ言葉、その一つ一つは理解できる。だが、結局真意は分からぬまま)…――って、…き、消えた……?(直後、月明かりとは違う人工的な光が視界に差し込んだ。当真の小さき声などかき消す人々の語らい、勢いよく隣を駆け抜けていった車、何もかもが元通り)…なんだったんだ、一体……(肉体的、精神的疲労のこもった一言と同時に落とした視線が、腕時計の示す時刻を捉える)…って、4月7日!?(途端、これ以上ない奇妙な体験よりも“遅刻”という重大な事実が頭を占める。約束は守りましょう。そんな子供向けの標語のような言葉を頑なに守りつづける当真の足は、駆け出す準備を整え――が、振り返った先には洋風の建物、表札には「巌戸台分寮」とある。あの子供が現れる前まではただの道だったはずなのに、普段の当真ならばそう不思議に思ったはず。しかし、今は罪の意識でそれどころではなく慌てて扉を開けば、気づかぬうちによほど必死な形相をしていたのだろうか、此方を見つめる一人の女生徒がその顔に驚きを湛えていた。「大丈夫か…?」その言葉で我に返る)…っ…3年の当真だ。……遅くなった。(取り繕う間もなく確認にと名前を問われれば、すぐさま顔を俯かせ低く呟いた。その際、素直なごめんなさいを呑み込み、最低限の謝罪と情報だけ吐き出した唇を僅かに噛み締め、できる限り色を無くした三白眼で視線だけを彼女に飛ばす。そして部屋割りを確認すべく滑らせた彼女の視線が当真の名前を3階の一室に見つけたとき、一瞬だけ見開かれたその赤に気づき、彼女の言葉を遮った)案内はいい。ネームプレートとかあるだろ。ひとりで行ける。…じゃ、(自室へと急く気持ちが拳を作り、足早に階段を上る。背後で彼女が何か言ったようにも聞こえたが、この対応が正解だ。――バタン!敢えて乱暴さを意識した扉の開閉に、古びた建物が大きく鳴いた)…大丈夫、これまで通り、うまくやれる。(備え付けの鏡に映った自分を睨みつけ、言い聞かせる。後、ふいと視線を逸らし、まだ少しうるさい鼓動を無視するように乱れた髪をくしゃりと撫でた)
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