「 」 「 」 「 」 「 」 「 」 「 」 「 」 「 」
重なるように響くたくさんの声、声、声―――。其れは楽しそうに。或いは嬉しそうに。いや、怒っていたのかもしれないし、ああ、泣いていたのかもしれない。寂しげなような気もしたけれど、責めているようにも聞こえた。 「―――…だよ。また――…ね、」 突然のノイズ。淡い光の中に浮かび上がる小さな二つの影。絡め合う小指。繰り返し、繰り返し。小さな影は次第に大きくなって行く。 ―――どろり。淡い光に満ちた空間は瞬く間に暗闇に塗り替えられた。あれだけたくさんしていた声は、もう聞こえない。代わりに空間に落ちたのは怒声、罵声、それから、 「 ?」 押し潰さんばかりの嘲笑がそこら中から響いて来る。手元も見えない暗闇の中で、たくさんの三日月が見下ろすように嗤っていた。 ―――……、…バッカらし……。(ゆっくりと瞼を持ち上げて、仰向けの視界に映った薄暗い天井を不機嫌に睨み付ける。ぐるぐると心に重く滞積する鬱積を深い深い溜息と共に吐き出しては、やり場の無い感情に突き動かされ、気付けば無意識に片手で顔を隠すように覆っていた。心臓はそれ程煩くはなかったけれど、代わりに頭の中では先刻の夢の内容が目まぐるしくリフレイン。小さく毒づいた後、三白眼が忌々しげに細くなる。)……俺に、今更何を感じろっつーんだよ。(自嘲を孕む吐き捨てるような呟きは誰の耳に届く事もなく、静寂の中に溶けて消える。後悔している訳でもあるまいし、何故今更になってこんな夢を――今回とて辿る道は同じであるというのに。顔を覆っていた腕は乱暴に髪をぐしゃりと掴んで、そのまま上へと掻き上げた。 「一週間後は、満月だね。」 不意にあの不思議な少年の存在が頭を過り、まるで導かれるように双つの碧が窓へと吸い込まれる。虚空に浮かぶ眩い金色は何時かのように、不気味なほどに丸かった。) |
――白い天井、白い包帯、白い窓辺。ぼやけた視界の片隅で誰かが泣いていた。 「綾!目を……、……!」「ごめん、ごめんな綾。……が悪かったんだ」 ――打って変わって沈むような暗闇。細い光が差し込むドアの隙間から激しい物音が聞こえる。 それを見つめる自分は「止めて」とは言えない。言う権利すら、ない。 ――リビングに置かれた電話が鳴っている。繰り返し、繰り返し。 まるでそれだけが、唯一の であるかのように。 (零れ落ちた破片の如き夢はそこで途切れた。不意の覚醒に緩慢な動作で体を起こした糸川は、ベッドの上に座り込んだ姿勢のままぼんやりと夢の余韻を噛み締める。うなされもしなければ激しい動機も感じてはいない。しかし鈍い痛みと苦さはゆっくり胸裏に染み込んで、立てた膝頭の上に額を押し付ければ、深い溜息を夜陰の合間に吐き出す。それでも、重苦しい気分はどうにもならなかった。だから自らに言い聞かせるように口を開き)……今更。…全部今更だって、分かってるよ。(強がりを言葉にすれば僅かでも心が持ち直す気がした。頬の横へと流れた髪をかき上げようと右手を持ち上げ、其処で上向いた視線が捉えたのはカーテン越しに見える月。ぽっかりと夜空に穴を開ける満月は酷く空虚だ。夢の中に現れる少年の瞳にも何処か似ていると思考を逸らして窓辺へ近づこうとすれば、机に手をついた拍子にはらりと一枚の紙片が落ちる。それは寝入る前に片付け損ねたタロットカード。床に落ちた絵柄は『審判』の逆位置を示す、その意味は、)――…悔恨。もう、元には戻れない。(ぐっと無意識に唇を噛み締めて、糸川は見たくないと言わんばかりで拾い上げたカードを裏返す。今はただ、この地で静かな生活を取り戻す事だけを考えていればいいのだ。窓に向かいかけていた体を戻して再びベッドに潜り込んだなら、頭まで布団を被って後はきつく瞼を閉じ眠ってしまおう。辛い事も逃げ出したくなる事もすべて、時が解決してくれると信じながら) |
「どうして……はいつも なの?」 「かわいそうな………、本当に―――」 (澄んだ眼差し、他意無き疑問。漏れ聞こえる大人たちの囁き声。ちがう、ちがう なんかじゃない。 なんかじゃない。わたしは、 。だってほら、いつもわらっているでしょう?) 「大丈夫?良ければ、―――。」 「 じゃない、いつだって が―――。―――てるよ、………。」 (鍵を掛けて沈めた記憶。きらきら輝く大事な大事な宝物。降り続く雨の帳にくるまれて、静寂に満ちた世界の中。あの時わたしはたしかに だった。) 「ごめんなさい、……―――が、―――。」 「……大丈夫だ、おれは―――。」 (動き出した時計の針。終わりに近づく小さな足音。だけどわたしは だった。どんなときより だった。だって、だって、わたしには―――が、) 「――――さえいなければ、こんなことにはならなかったのよ!!」 ――っ、……。(鮮やかな色彩を放つ幸福から一転、この身を切り裂く痛みを伴う刃へと変化した夢を拒絶し飛び起きた徳永は浅い呼吸を繰り返していた。一人きりの部屋、静寂に満ちた夜更け、傍らに立てかけた男物の黒い傘。奇妙な程に近くで聞こえる鼓動は如何に意識せど平素の落ち着きを取り戻してはくれなくて煩わしさが募るのみ。夢裡にて己を苛んだ熱さえ奪う程の冷汗は不快感の温床となるはずなのに、今日ばかりは未だ明滅する視界に惑う徳永を現へと繋ぎとめる唯一の縁と化していた。)……満月、(カーテンの隙間より降り注ぐ奇怪な月光に落とす声音は小さく消え入るように。音が潰えた世界の中、自らの置かれた刻限を察すればラヴァタと名乗った子どもの声が徐々に安寧を取り戻す脳裏へと反響する。少年は全てを予期していたのだろうか。思い巡らせど答えの無い思考を胸に留め、嘗て享受したにも関わらずこの期に及んで忌避を示した全てを再び飲み込むように胸を押さえ)大丈夫、大丈夫よ。いつだって私は変わらない、あなたの……――。(引き起こされた過去の断片を再び心の奥底へと埋めるように一つ、また一つ。伏せた瞼の裏に懐かしき情景を描いてはあてどない囁きを幾度となく繰り返す。もう大丈夫、全部全部受け止めた――紡いだ言葉を胸に留め煌々として妖しい光を放つ月を見据えれば記憶の海へ身を委ねた女は静かに微笑みを携える。長い夜の明けるその時を密やかに待ちながら――) |
(息を吸うように自然と、皆が笑っていた。『 』も、『 』も、『 』だって。特別な何かがあった訳ではない。それでもいつだって笑みの絶えないその空間は、とても暖かなものだった。)
(時が過ぎても、それは変わらなかった。一人が笑えばみんなも笑う。一人が泣けば、みんなは慌てて慰める。中心に居る者にとってひどく暖かいその空間は、けれど他人に対しては排他的であった。) (笑っていた。時には可笑しそうに、時には幸せそうに。いつも泣くのは一人だけ。それでもみんな、愛おしそうに笑っていた。やがてそこには笑顔だけが残った。) (それでも、) (――それでも、 だったんだ。) ――…………、(静かな目覚めだった。果たして何時に眠りに就いたかは覚えていないけれど、少なくとも目の覚めた今、未だ夜は明けていないらしい。周囲に広がる闇は単にあかりを灯していない為のもので、慌てる理由が無ければ闇が怖いという事も無く。ただ、久し振りに見た夢に、少なからず混乱はしていた。 なんとなく上体を起こし、瞬きをひとつした拍子に、ぼろぼろと何かが頬を伝った。寝起きの気怠げな表情は変わらぬまま、堪えたような声が溢れることもないまま。ただ、涙だけが静かに流れてゆく。まるでそこだけ別の生き物にでもなったようだった。)…………あした。目え、腫れそう……。(とりあえず明日は学校行かない。夢に影響された自身の現状を簡潔に把握しつつ、まだ止まりそうにないそれを一先ず置いて再び横になった。不意に脳裏に浮かんだのは、少年の姿と意味深に残された言葉。“一週間後は満月だね”。――思えば今日で一週間か。理由も根拠も無いとは言え、今日見た夢は彼と関わりがあるような気がしてならないのは何故だろう。けれども一先ずは、中途半端に覚まされた眠気をどうにかしようと――再び意識を手放すのだ。) |
>音が聞こえる。 「啓ちゃんは本当に…………ね」 「啓司、こちらに…………さい」 「啓」「啓」「啓」 複数の人間が自分を呼んでいるようだ。 >………。 >声が次第に激しくなってきた。 まるで何かに堰き立てられているかのようだ。 >………。 >呼び声に雑音が交じり出した。 五月蠅いノイズだ。 >………。 次第に音が遠くなっていく。 >………。 >遠くに、小さな………が見える。 ──っは!げほっ……(赤萩は、夢の断片に弾かれるようにして、殆ど反射的に瞼を押し上げた。然し、全身で無意識を拒んだ反動か、呼吸が思うように行かず、激しく堰を込む。苦しい、苦しい、苦しい、嫌だ──。ひゅう、と鳴る喉を抑えるようにしながら、手近に転がっていたビニール袋を口元に当てる。漸く落ち着きを取り戻したのは、随分と時が経ってからのことだった。未だ息苦しい感じは残っているものの、歩けない程ではないと、無理やりその場から立ち上がり、部屋を飛び出して行く。急ぎ足で向かったのは男子トイレだ。そう、必要なのは水道だった。)ハァ、ハァ……………大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だ………。(蛇口を思い切り捻ったせいで、大量の水が流れ出す。けれど構うことなく両手を浸け、勢い良く擦った。唇から零れる言葉は、最早無意識の内で。赤萩はただ平生を取り戻し落ち着こうと──あんな夢など忘れてしまおうと、必死に両手を擦り続けるのだった。) (『一週間後は、満月だね。』──赤萩が少年の声を思い出したのは、再びベッドへ躯を預けた頃。又、満月か。胸裡で一人ごちればもう、再び眠ることなど出来そうになかった。デスクの灯りを付けて参考書の一つでも読んでしまおう。これ以上、僕の邪魔をしてくれるな。だって僕は今──。) |
(――5月9日、其の日は月が完全に満ちた夜だった。静謐に包まれた夜中特有の空間は真壁が一日の中で最も好きな時間帯。タルタロスの探索に駆り出される事もなく平和な夜、真壁は一日の心地好い疲労と共に眠りについた。そうして何事もなくまた朝を迎える―其の前に、徐々に浮かんできたのはほろ苦い記憶の断片たち。以前は何度も夢に見ていて、けれど一年ほど前からほとんど見なくなっていたあの頃の記憶。――指の長い綺麗な左手の薬指にきらきらと光を反射する銀色の結婚指輪、一枚のプリント、あちこちから飛び交う「おめでとう」の祝福と笑顔。幸福に包まれた空間の中、自分一人だけが必死に顔に笑みを貼り付けて、絶望に涙すら流せないでいる。笑っているのに、心は何処までも無表情に現実を受け入れる事を拒んでいた。如何して、まだ共に居られると思っていたのに。言えなかった言葉が自らの中に重く暗く沈殿していく。何か伝えたいと思うのに、喉がひりひりと焼け付くようで何も言葉にする事が出来ない。そうして苦しみに悶えている間にゆっくりと確実に遠ざかる人影と闇に紛れて届かなくなる手。襲い来る裂けそうな心の痛み。――待って、行かないで。どれだけ願っても次第に小さくなる人影はとうとう何も見えなくなって、消えた。永遠に消えないと思えるほどの痛みだけを残して。夢の中の自分が口を開いて、何事かを叫ぼうとする。お願い待って、わたしはあなたの事が――。言わない、言えない、言ってはいけない。分かっている。其の先の言葉が出てこない事を悲鳴を上げるように願ったところで、意識が現実に引き戻された。――嗚呼、これは夢なのだ。唐突に引き摺り出された思い出の夢。むくりと上体を起こせば、頬には涙の伝った痕が残っている。)………夢?……っ。もう終わった事なのに、なんでまた、(気付けば長い爪は額近くに伸ばされ、既に薄くなっている眉毛をぶちぶちと何本も抜き取っていく。指に残る数本の眉毛を払えばベッドに落ちて、何とか生えそろっていた眉毛にまた不自然な凹凸が出来る。嗚呼、またアイブロウの量が増えてしまう―そう思いながらも、女の手は無心に眉毛を引っ張り続け、我に帰った頃にはパラパラと落ちる黒い毛の残骸と鏡を見る事への恐怖だけが残された。窓の外を見れば、外は僅かに夜明けの色が見える。其の絶妙な色合いに染まる空を見詰めていると、ぐらぐら揺さぶられている心が静められていくようで。すうっと大きく息を吸い込み、再び横になる。そして瞼を閉じて、今度こそは起きるべき朝に目覚めよう。次に目を開ける時には、何も変わりない“普通の日常”が戻っているだろうから。) |
(遠い遠い、少年の記憶。少年が、未だ“少年”だった頃の記憶。)
(幸せな日常。理想の日常。でも其処に、少年の姿はない。) 「どうして……は………みたいに………んだ!」 (少年は目を瞑り、降り掛かる言葉に体を震わす。毎日、毎日。只管。) 「……は………なのに、貴方はどうして……の」 (此れも同じ。毎日、毎日。底なし沼のように何処までも深く、深く、落ちる。) (声がする。少年を取り囲むようにぐるぐる回る。少年は耳を塞いで踞る。聞きたくない、聞きたくない。噛み締めた唇は言葉を落とさず、心が泣く。心が叫ぶ。) 「大丈夫。……は………だから。……が………やるから」 (頭を撫ぜる掌。少年によく似た濃紺の猫目が笑う。淡い光の中に見える唯一の救い。其れは慈しみ深き大天使のようで、───でも同時に、全てを奪う悪魔にも似た存在。だって少年は、─────────。) ──────………っ……!(心臓を握り潰されるような恐怖に、跳ね起きる。静かな夜だった。反して煩く脈打つ其処を鎮めるように、ぎゅ、と押さえた。落ち着け、落ち着け。息を吸って、吐く。荒い息遣いは中々治まらずに、頬を冷や汗が伝う。嫌な夢。嫌な記憶だ。何処まで離れても付き纏う記憶。思い出したくない、触れたくない。でも、離れられない。如何したって記憶の片隅に居座る其れは、消えてくれない。ぎり、と歯を鳴らして、大きく息を吐いた。)……………、………最悪。(寝起きで嗄れたアルトは、真夜中の静寂に消える。右手は力なくシーツを握り締め、左手は前髪を掴むように掻き上げた。目許に涙が滲んでいたのに気付く。泣いて、いたのか。誰も知らない、一人の空間で、とても静かに。其れは少しだけ、昔を思い出させる。なんて情けないんだろうと口許には自嘲を孕んだ笑みが浮かんだ。)僕は、………僕だ。(小さく呟いた其れは、誰にも聞こえることはない。再び身体をベッドに沈め、天井を睨んだ双眸を伏せた。そうすれば再び夢の中、───先程の続きでないことを、祈るばかり。) (夢に沈む意識の中、あの言葉を思い出す。───「一週間後は“満月”だね」───ああ、そうか。今宵は満月。あの不気味な月夜。最悪な夜。閉じた瞼の裏に描かれるのは一体何だろう。悪夢じゃなければ良い。今は只、見たくない過去と見えない未来が交錯する現実に溺れるだけだ。) |
(窓の外、爛々と輝く満月は、電気を落とした部屋に光を落とす。ああ、そう言えばあの不可思議な子供が意味ありげに満月を予告していたっけか、だなんて思い出しながらも、毒されている、と非日常を受け入れ始めた自身に口唇を歪めた。其処に平生浮かべている笑みのような穏やかさはなく、自嘲的な色が濃い。―物思いを打ち消すようにベッドへ潜り込めば、習慣の侭に瞼を落とした。)
(それは、声だった。断片的に響く複数の声。―其れが何時のことで、誰の声か、聞き分けられるのは、矢張り。) 『――しあわせに…そのためには…』『誠くんは……どうして………』『世の中……〜必要なもの………それは………』『……ひどいこと………分かって………』『……人の……!』 っ…は…(心臓の音が一人だけの室内に木霊しているかのようだった。思わず起き上がって抑えた左胸は、未だに早鐘を打っていて、暫く落ち着く兆しもない。ゆっくりと息を吸い、吐いた。心臓よりも先に落ち着いた脳が、漸く現状を理解した。)…夢か。(声に出して呟けば、其れが漸く現実となって胸に落ちる。とは云え、だからといって気分が良くなる訳ではない。息を吸っては吐くを繰り返し、漸く心臓は平生の其れに近い動きを取り戻す。胸に当てていた手を頭へと移動し、感情の侭に前髪を掴んだ。)俺だって、別に好きでこうな訳じゃあない…(小さく小さく、息とともに吐き出された言葉には、苛立ちが滲む。―どうやら暫く眠れそうにない。舌打ちと共にベッドから抜け出せば、ふと脳裏を過ぎったのはあの子供の―『一週間後は、満月だね。』)満月か…。(窓の外で輝く月は何処迄も明るく。まるで見通されているみたいだ。胸に浮かんだそんな言葉は口唇から紡がれる事こそなかったものの、月を見据える視線は冷ややかで、まるで悪夢の要因はあの月だと言わんばかり。深い夜闇に浮かぶ月は、近頃見ている巨大な月と、似ているような気がした。) |
『俺達……なんだ…お前も……を手に入れ……立派…になるんだよ』 (ピカピカ。きれいな色が輝いている。反射して映り込む丸い瞳。逞しい腕。浮かび上がる両足をバタつかせて、離れて行く床。伸ばした小さな手に触れる大きな指。仕方がないから頬を膨らませて包み込まれる。笑い声と、押し退けた長い手足) 『…ひと…やりたがってる…もの……て…あげなきゃ…』 (太陽の光。芝生。土。沢山の色。縺れる足。撒き上がる砂。大きな音。悲鳴) (少しだけ頭を小突かれて、困ったような顔。か細い手を引かれる) 『…どうした……なんで…なかった…?…大丈夫か?』 (波打つ透明。低下する体温。叫び声。強い力。青褪めたのは誰だったのか。) 『…いいの……しないで…もう………わかったから…、』 (――“やさしいほほえみ”。柔らかな腕に縋りつけば抱き締めてくれる) (彼女は、確かに聖母だった。)(けれど彼女は になってしまった) 「君は本当にあの『 』の“ ”なのか?」 (――黒く汚れた手。) (ドサリ。何かが落ちるような音で覚めた目が薄暗い天井を見つめる。知らない天井?――違う。知っている。ああ、脳が混乱しているようだ。重たい体を引き起こし、視界から外れた天井。白。何故か目に焼きついてしまって、けれど、目を閉じれば瞼の裏には遠い日の微笑みが浮かび上がる。あの顔を、あの光景を思い出したくないから、何もない壁で網膜を焼いて覆い尽くそうとしたんだろうか。自分のことすら冷静に考えられない脳の反射的な自己防衛。微かに風が通るような音を耳にして、自分の喉が低く鳴っているんだと気がついた。まるで動物のような笑い声――ヒト以外の動物は笑わないというのに。けれど、其れは浅はかな笑いだった。闇夜に紛れた吐息は悲痛感よりも途方もない虚無感を滲ませて、脱力した体を再び横たえる後押しする。――ひどい夢だ。悪夢と言い切ることすら許してくれない。酷く捻じ曲がった夢。噛み締めた唇に尖った歯が突き刺さる感触が生々しい)――…ばか、(冴えない頭に射し込む月の光は随分と柔らかい。もっと、強烈な色を夢の中で見た気がするのだけれど――なんだったか。誰だったか。いつまで経っても思考に纏まりがない。乱れた髪の内側で活動している脳を見限って、閉じた瞼と煩わしい残像にすら何も映らないことを祈った。その成果はきっと、無意味に等しいと知りながら――。) (払い除けられ、蹴落とされ、冷たい床に這い蹲るぬいぐるみに、記憶の奥底が揺さぶられる。――踏みつけたのは柔らかな感触だった。) |
>道が二股に分かれている。 どちらの道に進むのが正解だろうか。正解は分からない。 >!? 後ろから”何か”が迫ってきているのを感じる…。 とりあえずは今行きたい方を選ぶことにした。 >何かが聞こえる…。 どうやら道を間違えたらしい。しかし、もう後には戻れない…。 ・ ・ ・ >またしても道が二股に分かれている。 どちらの道に進むのが正解だろうか。正解はいつも分からない。 >!? 後ろからまた”何か”が迫っているのを感じる…。 悩む時間はないようだ。確証のないまま選んだ道には、ナニカがつきまとう。 >逃げたい逃れたい逃げたい逃れたい逃げたい逃れたい逃げたい逃れたい ”何か”から逃れるために懸命に走っている。決して追いつかれぬように。 ………。 …。 (ひりつく喉奥、ひゅうひゅうと冷風すさぶ胸、泥の中を進むような重たい足。今にも足を止めしまいたいのにそうしないのはつきまとうナニカから離れたい一心で、決死の思いで迫った二股を更に絞るにはなにかしらの補助が要る。――そうしていつも。いつもいつもいつも、あと一歩のところで、)っ!!!(痙攣を機に開いた双眸が捉えるは目を瞑る前と何ら変わりない自室の天井だった。くらさを照らす窓越しの濃黄をもう数十回と目にした筈なのに、今日に限って恐ろしいほど鮮明に眼の奥に残るから、全身で拍動を感じるその身をベッドに座したテディベアへと預け瞳を閉じた。やさしい毛並みがじきに湿り冷たく頬に触れる感触に一時の安寧を感じながら、したくもないゆめを反芻し、その度”運命だった”と言い聞かせ、おしえてと希う。『一週間後は満月だね。』ふいに脳裏をよぎった少年の声のあと、意識は途絶えた。) |
(青い空の下で複数の園児達が砂場で遊んでいる。健やかな風景。笑顔に満ちた他愛無い日常。楽しい時間。――茜色の空の下で響くは泣き声。喧騒。一人の園児がわんわんと泣いている。――紺色の空の下では謝罪の声。頭を下げる女性の姿。)
(陽光が差し込む学校で赤いランドセルを背負った少女達が笑顔で会話をしている。放課後。大好きで大切な 。――黄昏の空。困り顔の教師。泣く少女を慰める少女達。 い。――曇り空の教室で噂話が聞こえる。「 が を だって」「うそ、 い」 ひそひそと) (春、夏、秋、冬。制服。穏かな時間。並んで歩く少女達の、後ろを歩く。あたたかくて大好きな だから。こうすれば、こうしなければ、きっと。だって、この は い。それに、――振り向いた自分の顔が、嗤って言った。「―――くせに」) (不快な声を拒むように飛び起きてみれば静寂で満ちる夜の自分の部屋だった。嫌な汗が額に滲んで荒い呼吸を抑えるように胸元を抑えても、未だ夢の名残が冷静さを与えてはくれない。全身に鼓動が響き渡るようにどくどくと心音が煩くて仕方が無くて、強く強く服を掴む)……ってる。わかってる、から(か細く紡いだ音は力無く夜の静寂に溶けて行く。服を掴む右手に重ねた左手にも強く力を籠め過ぎて白くなっていた。忘れたふりをするつもりも目を逸らすつもりも無かったけれど、まるで戒めのように心身に纏わり付いて離れない。膝を寄せて背を丸めると小さく小さく縮こまり、懇願するように心音が鎮まることを乞う。どうせならば、心中に巣食うものも消えてくれればどんなに良いだろうか――。――呼吸が落ち着いて心音が平常のそれに戻る迄に如何程の時間を要したか自身では計れないけれど、漸く顔を上げることが出来たころ。半端に開いていたカーテンの隙間から瞳に映り込んだ満月に気付いて、ほうと息を吐くと少しだけ力が抜ける気がした。同時に過る少年の声の記憶に眉を下げると、食い込む程に握っていた手を解いて膝を抱え、もう暫くはそのまま満月を見詰めることとしようか。再び眠るまでにはもう暫く時間が要りそうだから) |
「――…今日から君は当真玄だよ。…これからは……だと思っていいからね。」 どこからともなく、声が聞こえる。……父さんの声?…――これは10年前、の記憶…。 「また100点をとったのね。偉いわよ、げん。あなたは母さんの自慢…だわ…」 今度は母さんの声。小学生くらいの自分が満点のテストを抱えて笑っている。 「げん!怪我はない!?…嫌よ、もう嫌……――…この子に何かあったら、私…」 これは…確か中学1年の時、事故にあって…… 「大丈夫だよ、母さん。俺はずっとそばにいるよ…」 そう、確かにそう約束した。 (暗転。ここで夢は終わった。――飛び起きて目を開けたはずなのに視界は真っ暗。辺りに音はなく、仕方なく触覚に頼って頬をつねるとちゃんと痛い。現実だ)……。(目も暗闇に慣れた頃、脂汗にまみれた体が涼を求めて、仄かに漏れる光を頼りに足は窓際へと向かう。カーテンを引くと見慣れ始めた空の色、巨大な月に思わず目を細め、今は影時間だったかと止まった時計に視線を落とした)…ん、5月9日…そういえば、今日は満月か。(7日ほど前、例の――そう、ラヴァタと名乗った子供が口にした予告めいた言葉。“満月”、それがどうしたと独り言ちたが、先程見た夢といい、どうにも嫌な予感が拭えない)……夢なんて見せなくても、約束を破ったりなんてしないのに、(なんだってこんな夢を見たのか。再びこの地に戻ってきて感傷的な気分にでもなっているのだろうか。気を抜けばすぐに現れる自分の片鱗を握り潰すように髪を掴み)…だいじょうぶ。(大丈夫。何度自分に言い聞かせたか分からないその言葉を繰り返し呼吸を整えた後は、5月10日の訪れまでしばしの間、真円と共に音もなく其処に佇むことにした) |