10月4日 満月の夜 | |||||
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(煌々と夜空を照らす望月は戦いのはじまりを告げる合図でもあった。時計の針が零時を刻むのとほぼ同時、暗鬱とした闇を引き連れ浮かび上がった影の少女は、背筋を伸ばしベンチに腰掛ける己が現身を見据えて小さな笑い声を漏らす。対峙の舞台は長鳴神社。向き合うは同じ姿をした一人きり。先月、仲間たちを襲った一件を踏まえ、作戦日だというのに密かに寮を抜け出し単身で迎え撃つ覚悟を固めていた糸川の双眸は――けれど、実際に現れたシャドウを前にあっけなく揺れ始める。その不安も恐怖も我が身に還るものとして理解しているが故に、濁った金色を意地悪く眇めた影は、自然とつり上がる頬を崩さぬまま口を開いた)ふふ…、今日も独りを選ぶだなんて馬鹿なあたし。そうやって我を張り続けたって誰も……何も得られたりしないのに、いったいいつまで強い子のふりを繰り返すの?(ぴく、と俯いた肩が震える。答えは返ってこない。図星をさされた証拠だと影は陶然たる面持ちを深め、ゆっくりと迫るように片膝をベンチの座面に乗せ距離を失くす。威圧する体勢に反して頬を包み込んで上向かせる両手は慈悲深く、それでいて醜い本性を見せつける意図もあって、緩く弧を引く唇は一層愉し気に言葉を続けた)優しいパパとママ。愛してくれるけど、傍にはいてくれない両親。――中立ぶって口を噤んでた割に寂しくて甘えたくて、貴女のその重い重い執着で縛り付けるだなんて、本当に欲張りね。でも、もうすぐそれも終わりだって知ってるでしょ?(見たくない、考えたくないと、もう何年も無視を決め込んでいた現実。破局へ向かって転がっていく日々を思い返すように一度天を見上げ、それから再び視線を戻す。自らの咎を、迷いを、突きつけるように)だからはっきりさせないと。あたしは手に入れたいのか失いたいのか、縋りたいのか立ち向かいたいのか、"一番”は誰なのか――…そんなことすら怖くて見通せないなら、ねぇ、(途切れた声、頬から滑り落ちた掌は無防備な首筋へと。薄い皮膚に爪を立てながら浮かべる笑顔と口調は、まるで宝物を強請る幼子そのものの無邪気さで)全部、ぜーんぶ、あたしに頂戴?(けれどその目だけは、決して笑っていなかった) | |||||
……何あの顔。映りが悪い鏡を見てるみたいで、最低。 | |||||
(こうすると決めた時点で、心の準備は出来ていた筈だった。しかし真円が映し出した翳りは糸川が隠し続けていた闇を否応なく暴き立て、確実に支えとなるものを奪っていく。認めないといけない、あの醜く出来損ないのようなシャドウも自身の一部であると。他が為したことを今度は此方が受け入れなければならないのだと。けれど――嗚呼。あの時、仲間たる青年を自身のエゴで引き留めた時には、彼の苦しみの半分も理解出来ていなかった。動くことはおろか反論も叶わずただただ青褪めていく糸川に、虚像は尚も辛い現実を突きつけては嗤う)……怖い…だなんて、あたしは…ここに来るって決めた時に……。(すべて覚悟してきたつもりだと、そう言いかけた唇が伸し掛かられて引き攣るように止まる。「本当に?」と間近から見下ろす黄金は声もなく囁いて、うっそりと曖昧な微笑みと共に呼吸を奪う手に力を籠めた。苦しい。けれどそれ以上に、どんなに強く在ろうとしても弱さの抜けない自分が悔しい。生理的な涙と酸欠でぼやけていく視界の中、強欲な言葉に浮かんだのは大切なものの面影。両親、居場所、寮の面々、それからこの場を一番見られたくない誰かの後ろ姿がぱちりと弾けて)――…っ、だ…め…。それ……だけは……!(自らの間で自らのものを奪い合う手酷い矛盾には気づかぬまま、掠れた声で示す抵抗はしかし既に力にならず。僅かに肩口を押し返さんとするのみだ) | |||||
そ?結構イイ顔してると思うケド。 | |||||
(再び巡り合わせた、月が真円を描く夜。一ヶ月前に己を含めた仲間に起きた現象が他の者に起きるかもしれないという可能性は、あの時から既に何処かで予感していた。其れは幾度となく彼らと接してきた中で、彼らもまた己同様内側に根深い何かを抱えているという確証を得ていた故に。――利川が新たな再スタートを切る今宵、しかし作戦室に集った顔ぶれを一通り見廻しても、一番に此の事を伝えたかった“あの子”が居ない。嗚呼、矢張りなのかとスッと伏せた双眸は、果たして何を思って揺れたのか――「…なぁ、桐条。教えてくんない?」脳裏に浮かぶは、今頃己の半身と対峙しているであろう彼女の姿。他にも欠けている顔は何人も居たけれど、彼らの事は此の場に集った仲間たちがきっと捜し出してくれる筈だから。ならば己は今はあの子の事だけを考えて、駆け出そう。何時も澄まし顔で他者と一線を引いた距離に居ながら、けれど本当は誰よりも仲間思いで心配性の、意地っ張りなあの子の元へ。どうか間に合ってくれとサイズを握り込む手に力が宿る。思いを馳せるは一ヶ月前の真円の夜。手放すことが出来る強さも必要だと、哀切に満ちた言の葉の響きが、焦がれるような眼差しが、ずっと頭から離れずに。) 、みぃつけた……っ!(長い神社の階段を登りきった先に認めた二つの影。二人の彼女。サイズを今一度握り直しては、静かに。けれど素早く距離を詰めて――ひたり、内に向いたサイズの刃が、背後から影の彼女の首筋へと掛かる。)――……っとにさぁ、どーして何にも言わないで居なくなっちゃうワケ?一言くらい俺に相談してくれたって良かったじゃねえの、…綾ちゃん。(何時になく弱々しい光を宿す彼女の双眸を見据えては、何時ものように口端を釣りあげて、したり顔で笑って見せる。無事を確認した後に、静かな色を湛えた碧が影を見遣り、)その子のコト、放してやってくんねえかな。――それとも俺と一曲踊る?天国行きは保証するぜ。 | |||||
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辛い未来を迎えたくないならここで断ち切ってしまえば良いのに…往生際が悪いよ。(少しづつ終焉の帳が下りる世界で、僅かな反抗を受けた影の瞳に悪意が灯る。語り掛ける口唇は依然として歪んだ笑みを形作ったままだが、その奥で膨れ上がる内在的な自己嫌悪はもはや留まることを知らず、綺麗に終わることすら拒んでしまう諦めの悪さに憎々しさすら覚える始末だ。それならばいっそ、と、締め上げる力が一際増したその刹那――止まっていた刻の中で少女が聞いたのは風を凪ぐ短い音。いつの間にか目の前に迫った鋭い刃先は薄皮一枚の場所でひやりと冷たい感触を齎して、わざわざ背後へ視線を辿らずともおのずと襲撃者の正体は知れよう。数拍、その場に落ちた沈黙はしかし彼の問いかけによって破られる。そっと体を引いた影は悪足掻きの如く怯える己の首元から制服のリボンを引き抜いたなら、これ見よがしにヒラヒラと振りつつ静かな碧色を覗き込んだ)あはっ、あはは! どうせ今は月しか見てないんだし、ちゃんと天国に行けるならそれも悪くないのかも。でも残念。あたし先輩のこと嫌いなんだけど、その手は汚して欲しくないからなあ…。ほんっと、嫌いなんだけど。(思い遣っているのか嘲っているのか、恐らく本人もよく分かっていないまま愉悦だけが先行する。わざわざ二回も繰り返した"嫌い”の割に上機嫌に身を翻したなら、先程まで手を掛けようとしていた己を指し「だから相手にするならこっち。多分話しても無駄だけどね」と、悪戯な冷笑で静観の構えを示した) | |||||
えぇと…冗談ですか?あたしには理解しかねます。 | |||||
(遠退きかけた意識が戻る。足りなくなった酸素を補おうと、上体を折って胸元を押さえながらひとしきり咳き込めば、急速に現実感のある世界が返ってきた。――いったい何が自らに与えられるべき死を阻んだのかと揺れる視線を持ち上げて、最も考えたくなかった可能性が現実と化してしまった事実を認めれば、先ほど以上の勢いで血の気が引いていく。サイズを携え影の己と対峙するその姿は疾うに見慣れてしまったもの。ふざけた言葉も軽い笑顔も、余裕綽々といった態度も以前と何ら変わらぬものであったから、覚悟の折れかけた弱い姿を見られた事に堪らぬ惨めさしか込み上げてこない。加えて影の哄笑はとてもこの身から生じた叫びだとは思えず、震え出しそうになる肩を隠すようにぎゅっと強く抱き締めた)どう…して…? …そんなの、言えるわけないじゃないですか。あたしは誰かに頼らなくたって…へいきで…、……。(こうなってしまえば得意の虚勢も意味を成さず、空言は中途で途切れて消える他にない。焼けつくように胸は痛み、今すぐここから消えてしまいたいとすら思うのに、その一方で影の上機嫌の理由を感じ取れてしまうのが嫌だった。つまりは――助けに来てくれて嬉しいと。相反する感情の齟齬に追い詰められた心はもはや悲鳴を上げる寸前で、乾いた唇はただ、己を守ろうと拒絶を紡ぐ)……だめ。駄目なんです、先輩。お願いだから、これ以上…あたしを気に掛けたりしないで……。(全てが手遅れになる前に。彼までも縛ってしまわぬ内に。懇願と言っても差支えないそれは、怯えた声音ながらもやけにはっきりと地に落ちるだろう) | |||||
感情に素直になるのはイイコトだぜ。…俺、もっと綾ちゃんの色んな顔が見てみたいな。 | |||||
(大人しく身を引いた影を見て内心無意識に安堵を得たのは彼女と瓜二つの影を斬らずに済んだからに他ならず、今の所影に此れ以上攻撃の意思が無い事を悟ったなら内側に大きく反り返ったサイズの刃を其の首筋より退けた。碧の視界の中央でひらひらと赤いリボンが挑発的に宙に踊るのを、月光にも似た鈍い光を帯びた喜色滲む黄金を捉えては明確な嫌悪示す言葉もただ静かに受け入れて――ふっと不意に小さく笑みを零した唇は、ゆっくり弓を描いた。)アハッ、やっぱり綾ちゃんだなぁ。斬られるかもしれねえってのに、自分よりも俺の心配するなんてサ。(其の思考は利川が常々心配性と称する彼女と変わらないように思えて、嗚呼目の前の影は間違い無く己の知る彼女のものであるのだと改めて実感してしまったからこそ、上機嫌に反して繰り返された言葉を思えば何とも“らしい”じゃないかと笑みが落ちる。か細い声が鼓膜を震わせてたなら影の指の動きに従って視線を戻し、)うそつき。違えだろ、……そんな今にも泣き出しそうなカオしといて何処が“平気”なんだよ。綾ちゃんってば嘘吐くのヘタ過ぎ。(今にも震えて崩れ落ちてしまいそうなのに、未だに虚勢を張り続けようとする気丈な姿勢が痛々しくて利川は微かに眉根を寄せた。其の気持がわからなくもないからこそ尚更にもどかしく、紡ぐ言葉も哀調を帯びる。一か月前己を諭してくれた彼女もこんな気持ちだったのだろうか、けれど怯えたような懇願の声には、はっきりとした言葉で否定を示すのだ。)それは無理。………言ったろ、逃がしてあげないってさ。俺諦め悪いんだよね。(視線を合わせるようにベンチの背凭れに片手を付き、屈んで彼女との距離を縮めたなら其の押し隠している本心を見極めんとじっと瞳を覗き込んで、)なぁ、ホントにそれでイイのかよ。……傷付くのをわかってて、それでも手を伸ばすのが綾ちゃんだったんじゃねえの?―――だったら伸ばせよ。俺に、その手を。掴んでやるから。……だから拒むな、頼むから。嫌いでも構わねえし、無理に頼れとも言わねえ、でもせめてさ………俺にも手を差し伸べる事くらい、させてくれよ。(其れが如何に傲慢な言葉であるのか自覚して尚紡ぐのは、矢張り彼女に消えて欲しくないからに他ならない。“嫌い”?上等だ、好かれたくて行動なんてしちゃいないのだと。真っ直ぐに眼前の双眸を射抜く碧は、何時になく真剣さを帯びていたに違いない。) | |||||
………あの、先輩にはもう色々と変な顔を見られている気がしますが。 | |||||
(如何に捻じ曲がっていようと影の言葉は己の言葉。幾重にも被った仮面の下に潜む本当の自分。それが彼の心情など慮ることもなく一方的な嫌厭を向けたのだから、次の瞬間に待ち受ける反応は軽蔑か失望の二択しか存在しない筈だった。時折見入ってしまいそうになる碧が負の感情に染まる場面を想像して、いったいどのぐらい痛いのだろうかと自嘲気味に思う。だがこれ以上関わりを持つ前に距離を置けるならその方が良いのだと――決めつけた思考は予想外の発言にぴたりと静止した。「…ねぇ、なんで?はっきり言ったのに全然効いてないっぽいよ?」横から今の心境を代弁する呟きが耳に入ってきたが、糸川本人はといえば面食らったまま声もない。ただ、嘘吐きとの指摘には殆ど反射的に首を振って)……っ、ほんとう…本当です。仮に嘘だったとしても、これはあたしの問題なのに…なんで辛そうな顔するんですか。(同じ経験を経た者として先の満月を思い出しているのだろうと理屈は分かる。しかし前へ進もうとしている彼が他人の重荷まで背負い込む必要はなく、意地も押し通せなくなってしまった自分にとって同情は不甲斐ないだけだ。だが、どれだけ撥ねつけても彼は退かない。見限らない。寧ろ覗き込まれた瞳は心に引いた一線すら跳び越えんと、その真っ直ぐさが怖くもあり、羨ましくもあった)止めて下さい――…そんな風に全部受け入れられたら…先輩を遠ざける理由が、なくなって、(眼前にて見下ろす真摯な眼差しから逃れる事が出来ないまま、耳に快い言葉に胸は震える。”嫌い”も”平気”も封じられてしまえば、彼を必要と思うこの気持ちに名前をつけない口実は失せ、本当は忌避していない事実だって認めざるを得ないのだ。躊躇うように右手を胸元でゆっくりと握り締めると、そのまま、縋りつきたくなる衝動を抑えて唇を開き)……ね、利川先輩。傷つくのはあたしじゃなく、先輩の方なんですよ。あたしはいつも酷いことばかり言ってしまいますし……何より大切なひとに不自由を強いています。好きとか、離れたくないとか、それだけじゃ許されない事も世の中にはあるのに、自分が嫌だからって次の幸せも願えない。(出来る限りの落ち着いた口調を心掛けながら、困ったように眦を下げて語り掛ける。優しい手を掴んでしまえばもう後戻りは出来ない確信があればこそ、視界は俄かに水の膜で歪み始め)だから…前にも後ろにも進めません。拒むなって言って貰えるのは嬉しいけど、あたしにはその手を取る資格なんてないんです。(零れそうになる涙を堪えながら浮かべた微笑が果たして綺麗に笑えたのかは分からない。けれど彼の意志に報いる術など、今はこれしかないのだと思われた) | |||||
でも俺、綾ちゃんの笑顔って一度も見たコトないんだケド。 | |||||
――…それ、マジで言ってんの。(“あたしの問題”。あくまでも本当だと首を振り其処から絞り出された言葉は否定に違いなく、湧き上がる複雑な感情に益々表情が苦くなる。まるで何かを堪えるようにぐっと言葉を詰まらせた双眸が湛えた色は厭きれか、哀しさか、否其のどちらでもあったように思う。一度内側に溜まった熱を抜くように双眸伏せては深く静かな溜息と共に肩を落とし、次に彼女を射抜く碧は幾分か落ち着きを取り戻して。)なぁ、ホントはヤメる筈だった俺が…先月“解放される”筈だった俺が、どうしてココに居ると思ってるワケ?……もう綾ちゃんだけの問題じゃねえんだよ。なんでなんてそんなの、俺に綾ちゃんが必要だからに決まってんだろ。(だから彼女が痛い顔をしていると此方で痛くなる。哀しくなる。同情の念が全く無いかと問われれば答えは否ではあるけれど、其れ以上に此の胸を支配する感情は執着か或いは別のモノであったのかは定かではない。けれど彼女を必要と思う心に嘘はない筈だからと何時だか彼女に言われた言葉をそっくりそのまま、曖昧な言葉ではなくはっきりとした言葉で告げよう。頑なに本心を仕舞い続ける彼女の心に少しでも響くように。―――双眸は見据えて逸らさぬまま、其の語りを利川は静かに聞き入った。そして泣きそうに笑った彼女の顔を見遣っては、薄く開いた唇より落ちる言葉は静かに―けれど確かな強い意志を持って紡がれる。)……そう想うコトの何がいけねえの?離れたくねえのも、嫌だから先を願えねえのも、そんなのは”大切”なら誰だって当たり前に想うコトだろ。…――俺だって今、そう想ってる。綾ちゃんはこのまま放っておかれるのが“幸せ”なんだろうケドそうしてやるつもりはねえし、勝手で悪ぃケド連れて帰るって決めてるから。何よりも、俺の為に。(執着してしまうのが怖くて手を離した己と、執着してしまったからこそ手を離せない彼女。異なる悩みだがしかし元を正せば其処に根付く思いはきっと変わらない筈だろう。紡ぐ口元は全て撥ね退けんと不敵に笑う、)それに綾ちゃんの理屈で行くなら“嫌い”な俺は傷付かねえ筈だろ。だったらいいじゃねえか。前にも後ろにも行けねえなら、手を取る資格がねえってんなら、俺が無理矢理にでも掴んで引っ張ってってやるからさ。―――だから綾ちゃん、諦めてよ。もっと嫌いになったって構わねえから、今は俺に捕まって。…全部、受け入れてやるからよ。(厄介なのに捕まったと後悔した所で、最初に利川の手を掴んで引き入れたのは彼女の方なのだから。) | |||||
そうでしたっけ?……じゃあ、今後は笑わせて下さい。他でもない先輩が。 | |||||
(冷淡な言葉を投げつけた時よりも余程強い感情の発露に、怯えにも似た動揺が走る。そうと覚悟していない発言で落胆を買うことには抵抗を覚えるなんて、先程から退けようとしている体裁を考えれば身勝手極まりない自覚はあったが、狼狽え彷徨った視線は結局斜め下に固定された。こうも空回りする現実があの時引き留めてしまった自己満足の代償なのだとしたら、それはなんて苦しくて――しあわせ、なのだろう。だって当然のような確信を以て耳朶を打つ"必要”との一言は、自身が彼に向け、一方で向けられたいと心の何処かで渇望していたものなのだから)……そうですね、最初に執着したのはあたしでした。でも…先輩までそれを返してくれる必要はなかったのに。……本当に変なひと。(憂いの吐息と共に紡いだ返答は初対面の頃と寸分違わぬ評価であるが、籠めた想いの大きさと綻ぶ胸中は当時と大幅に異なっている。これだけ無条件の肯定を彼が与えてくれる理由に未だ不可解な部分はあれど、此方に据えられたままの双眸を受け止めようと視線を持ち上げれば、少しだけ張り詰めていた空気を緩ませながら)誰かの幸福を願えない人間にはなりたくありません。だけど、どうすればいいのか分からなかったんです。…気がつくと欲深さと不安でいっぱいになってる自分が許せなくて、隠したくて……割り切れないまま、ずるずると来てしまいました。(ぽたり、遂に堪え切れなくなった涙が手に落ちる。人前で泣くなんて有り得ないと思っていたのに、一度決壊してしまった箍ははらはらとつまらない意地も嘘も洗い流して。ひどく素直な気持ちで相手を見詰めたまま)なのに、そうやって求められたら……認めないわけにはいかないじゃないですか。あの醜いのがあたしだってことも、嫌いになれないから嫌いって言ったことも、先輩になら捕まってもいいと思ってるのも全部。――…あたしもう知りません。知りませんからね。(捻くれた言い回しながらも覆い隠していた本心を口にした途端、隣にそっと歩み寄った影は、奪い取っていたリボンを手中に落として軽やかに微笑む。そうして次の瞬間には淡い光の残滓と共に掻き消えて、あとはもうその場に立つ者は誰もない。その光景に思いを馳せるように普段より綺麗に見える月を一瞥すれば、改めて涙を拭ってから気恥ずかしそうに口を開いた)……受け入れついでに少し、付き合ってくれますか? 話を…聞いて貰いたい気分です。 | |||||
…ハ、それもそうだな。言ったからには覚悟しとけよ、後悔しても知らねえから。 | |||||
(忘却を恐れ執着する前に何もかも全て棄ててきた己がこんなにも何かを――誰かを求めるようになるなんて、一ヶ月前までは生涯無い事だと思っていた。飽き性で風のようにふらふらとしては同じ場所には留まらず、執着しない。其れが利川景充として生きて行く上で痛い思いをしなくて済む方法ならばこれでいいと達観さえしていたのを、しかし必要だと、忘れないと此処に引き留めてくれたのが彼女だったから。己の希望でもある彼女を喪いたくない一心で吐き出した言葉はそれこそ傲慢な自己満足と醜い執着心に満ちていたに違いなく、漸く其の双眸が此方を向いたなら何時ものように口端釣り上げて笑んで見せた。)褒め言葉だね。でも俺をこんなのにさせたのは綾ちゃんなんだぜ?……俺のコト、忘れないでいてくれんだろ。ずっと。(とどのつまりはだから勝手にいなくなるな、と。今の今まで執着から遠ざかっていたのはきっと己の中にこんな子供染みた醜い束縛心にも似た、執着した物に対して離れたくないと強く思う感情に気付いていたからかもしれない。――双眸より溢れて頬を伝う雫は今迄彼女が内側に塞き止めていた思いを、感情を、言葉と共に外へと洗い流して行く。吐露された彼女の本心は利川にとってはやや意外な所ではあったけれど、沸々と湧き上がる喜びに口元は穏やかな弓を引いて。)…前にツンケンしてるのが綾ちゃんの魅力だって言ったケドさ、アレは取り消し。………今の綾ちゃんのが、俺は好きだぜ。(――影が彼女の中へと融けて行く。彼女もまた逃げずに己と向き合い、受け入れられた何よりの証。まるで憑き物が落ちたように綺麗で、それでいて素直な彼女の眼差しを真正面から受け止めては、)ああ、俺も聞きたいと思ってたんだ。ずっと。だから教えてよ…綾ちゃんのコト、余さず全部受け止める為に。 | |||||
そう言われると意地でも見せたくな……いえ、本気なら是非とも頑張って下さい。 | |||||
(ずっとなんて確約は、本来であれば簡単に交わすべきではないのかもしれない。絆はいつか途切れるもの、終わりは必ず来るもので、どんなに否定してもそれだけは変わりがないことを知っていた。だから彼に執着を示しながらも最後の一線は固辞し、最も都合の良い逃げ道を選ぼうとしてしまったけれど、こうして認めてしまえばそれがどれほど愚かな真似だったのか分かる。結局は自分が怖くて傷つきたくなかっただけ――影に指摘された通りだった。だが、彼となら、何もかも恐れず手を掴もうとしてくれたこの人となら、途方のない未来でも信じられるかもしれないと。微かに見出した光明を胸に頷き返す)…そういう聞き方ってずるいです。先輩が言ってくれたこと、この先何があっても忘れたくないぐらい嬉しかったんだから…当たり前じゃないですか。(果たして捕らえられたのはどちらなのか。未だに拗ねた口振りこそ残っているものの、向き合う碧眼に注ぐ眼差しは言葉通りのひたむきな感情を湛え、これまで伝えられなかった分だとばかりに逸らさない。穏やかな表情と共に告げられた、ささやかで大切な一言に背中を押されるよう、振り返る過去はいつもより苦いとは思わなかった)……話と言っても割とありふれた身の上話なんですけど、うちの両親、もうずっと前から仲が悪いんです。お互いの愛情なんか冷めきって赤の他人同然というか…。今じゃすっかり仮面夫婦、二人とも殆ど家には寄り付きません。(どこから話そうかと考えて、ぽつぽつと語り始めた内容に自分自身で苦笑を浮かべる。現代では然して珍しくもない夫婦間の不仲。折り合いをつけるのはそう難しいことではなかった筈なのに、恥じ入るように一旦言葉を切って)最初のきっかけは……あたしが小さい頃に事故に遭ったことでした。父と母はお互いを責めて、それから些細なことでも言い争うようになった覚えがあります。でもあたし――止めようとしませんでした。余計な口出しをして拗れるのが怖かったですし、二人ともあたしにとっては優しい両親のままだったので、別れないならそれでいいと思ったんです。(握る掌にぎゅっと力を籠め「卑怯でしょ?」と敢えて軽い調子で小首を傾げる。己の罪過ともいうべき事実を口にするのはまだ抵抗が強く、昏い感情が胸中に蟠っていくが、今は重苦しい空気を作り出そうと彼に話しているわけではないのだからと顔を上げ)尤もそれもいい加減限界で…あたしがこっちに転校してきたの、離婚のゴタゴタから距離を置くためだったんですよ。父に寮で暮らすよう言われた時、ちゃんと考えて二人を解放してあげようって決めたつもりでしたけど、やっぱり嫌だと思う自分がいて。何もかもが不安で。今までと同じようにどうしたらいいのか分からなかった。 ……でも…皆と過ごすうちに、不安な気持ちは薄れてきたような気がします。…だから今の話を聞いても本当の本当に、受け入れてくれる気があるのなら、(洗い浚い明かした上でもう一度念を押すのはこれが最終警告に等しいからだろう。迷いはもう振り切った。あとは決めるだけだと、真剣な表情で相手の頬に片手を伸ばし)――先輩、ずっと傍にいてくれますか?(今、求めるのは目の前に在るたったひとつ) | |||||
…たまーにだけどさ、綾ちゃんって少し意地悪になる時あるよネ。 | |||||
(“ずっと友達だよ”“絶対に忘れないから”。――そう、永遠なんてものが無い事は身を以てして思い知らされて来た。今の今まで逃げて来たのもその果てに待ち受ける未来を知っていたからこそなのに、それでも尚性懲りもなく“永遠”を口にしたのは彼女への宣戦布告も兼ねて。逃がさない。手放したくない。だって彼女がさも当然ように口にした“当たり前”は利川がずっと焦がれて欲しくて堪らなかった言葉で、そんな己の重い執着も受け止めて当り前だと言ってくれる人はきっと後にも先にも彼女しか居ないだろうから、例え傷付く事になろうと恐れないで手を伸ばせる。伸ばしたいと思う。其の真摯な眼差しを信じる為に、また己の言葉も彼女に信じて貰えるように、唇から満足気な吐息を零しては利川もまた逸らさず見詰め返す事で応えようと。 ――彼女がずっと心の奥底に隠し続けて来たものが静かにぽつぽつと唇から零れおちて行くのを、聞き洩らさないようにと耳を澄ませてひとつひとつ吸収していく。離婚も、両親という存在の大きさも、家族と呼ぶのに少々首を傾げてしまう程には両親と触れ合いの無い環境で育って来た身では其れがどんなに哀しくて辛い事なのか言葉を受け止める事は叶っても、其れがどんなものであるのか想像する事は出来なくて。けれど現状を変えたくないと、大切だからこそ醜い執着心で縛ってしまう気持ちは痛いくらいに良くわかるからこそ重ねた傷口がつきんと痛む。軽い調子で傾いた小首にはゆるゆると首を振り言葉なく否定を示しては、)あんま上手い事は言えねえケドよ、…自分の影を認められた時点で、綾ちゃんはもう一歩前に踏み出せてるんじゃねえの。直ぐには無理でもゆっくり一歩ずつ踏み出して行こうぜ。――上手く行くように俺も傍で、引っ張ってってやるから。(弱さを認められた時点で臆病ではないと、其れは以前彼女のに貰った言葉の受け売り。己だけではどうしても解決の出来ない難しい問題だけれど、しかしこうして話してくれた時点で着実に前へは進めている筈だから。まだ不安が残っているなら彼女がしっかり歩けるように喜んで手を貸そう、彼女が忘れないでいてくれる限り。“ずっと”傍で。頬へと伸びた彼女の手を一回りほど大きい利川の手がゆっくりと覆い包む。)受け止めてやるっつったろ。……――言われなくたって、離す気、ねえから。(じ、と彼女を見据える双眸は捕食者の如き光を湛えて細まる。求めた物を得られた喜びはこの上なく胸中を満たし、改めて心に巣食う傲慢を口にしてはまるで誓いでも立てるかのように其の小さく柔らかな掌へと、そっと唇を寄せた。振り払われるのが早いか、己が手を離すのが早いか。離れていく熱に名残惜しさを感じ乍らも身を引いては、月を見上げて「さて、」)戻ろうぜ、綾ちゃん。皆の所にさ。(ニィ、と口元に笑みを乗せては告げる口調も何時もと変わらず軽く、軽快に。――帰ろう、大切な仲間の元へと。) | |||||
…ときどき挑発的なことを言う厄介な人の影響だと思いますよ。 | |||||
(話しながら改めてひと月前の出来事を思い返す。彼と自分とでは抱える境遇がまったく異なるし、そもそも性格や考え方からして重なる点が多いとは言えないが、望んでいたものだけはひどく近しいというのはなんだか不思議な巡り会わせであるような気がした。忘れられない永遠も、離れていかない永遠も、根幹にあるのは同じように寂しさを厭う気持ちだけで。あのとき理由も分からぬまま彼を必要だと感じたのもきっとその所為だったのだろうと遅まきながら理解出来る。長らくの間"家族”だけが愛するすべてだった手前、ひとを想い、そうして想われている実感は不確かで、足下はふわふわと浮ついた感覚すら覚えてしまっているけれど、欲しいものが欲しい形で得られた結果と思えば悪くはないだろう。何より彼が瞳に宿す強い情感も、紡ぎ出す言葉も、既に充分信頼に足るものとして心に根を張る不安を溶かしてくれていたから。弱さを覆う鎧と棘なんてもう要りはしないのだと――じんわりと嬉し涙が滲みそうになるのを指先で押し留めては)……優しいですね、先輩は。…自分じゃまだ整理のつかないことばかりな気がしますけど、一歩ずつでも前に進んで、そうすればいつか本当に辛いことにも向き合えるようになれるでしょうか…?(その時は己も彼を支えられる存在でありたい。手を掴んで導いて貰うだけではなく、力になりたいのだと、そんな願いを口にするのはまだ早いと今は一先ず秘しておく。代わりに敢えて"ずっと”と添えて問うた言葉は糸川なりの覚悟の表れだった。我ながら重くて、奔放な相手に束縛を与える要求だと分かっていたが、実現の可否はともかく頷いてくれさえすれば何もかもを預ける事が出来るに違いないと信じよう。かくして伸ばした手は更なるぬくもりに包み込まれて、求めた通りの肯定が耳に届けば甘い充足感が全身を満たしたけれど――予想外だったのはその後か。先程までとは異なる危うい光が碧に灯るのを認めた矢先、掌に触れた口づけの感触はさながら証でも立てるかの如く。咄嗟に反応出来ずにいる間に重なっていた手は離れたが、その余韻だけは何時までも残っている気がして今更ながら頬に熱がのぼる)……――気障。(赤い顔のまま短い文句を零したなら、平素と何ら変わりのない様子の彼を睨みつけ立ち上がった。此方ばかりが照れているというのは不本意極まりないが、とりあえずこの手の事に関しては勝てる気がしない。だから意識を切り替えて溜息をひとつ。改めて隣に並ぶと穏やかに頬を緩め)はい、皆にも迷惑を掛けてしまいましたし帰りましょうか。ちゃんと……二人で。(夜空から見守るように投げ掛けられた光の中、踏み出した一歩は大切な仲間に繋がっている。そうして傍らに彼が居てくれるならそれだけで心強いと、帰路を辿る胸は揺るぎない安堵で占められていた) |
10月4日 満月の夜 | |||||
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(――ほら、堪えられない。欠落のない全美の円の下で対面する二者の片割れは、隠された時が持つ静寂を破る激情を見据えて三日月を宿す。何をした訳でもない、何を言った訳でもない。それでも堪らず呆気無い程に簡単に"私"が選択するのはそれだと知っているから何もする必要はない。頬を叩く手。吊り上る眉。馬乗りになった女が振り下ろす拳。不必要な防衛反応を過去に真似ては顔を両腕で覆い隠して制止を望むか細い声を紡ぐ戯れの後、近付いた頭を掴んで囁くだけで全て事足りるのだから)ねえ、…楽しい?(逆上に燃えた赤が色を失くす瞬間、脱力した身体を押し返すのは簡単だ。掌が皮膚を打つ音や拳が身体を打つ音が消えた代わりに堪えた分だけ溢れる愉しげな嗤い声。容易に覆る形勢。立ち上がる事も出来ずにコンクリートを足裏が掻いて後ずさる姿に這い寄り、今度は此方がその重たい前髪を掴んだのなら、物分りの悪い頭にわかり易く言い聞かせてあげなければ。)…うん、私相手じゃ楽しくはないよね。でも、楽しくなくたって…そうすることしかできなかったでしょ?我慢ばっかりしてるからそれしか考えられないし、そもそも…――私にはそれしかできないんだよ(髪を掴む指先の力の強さと語りかける穏やかな声音が共に存在し、満月の如き瞳をゆっくりと細めたのならば低音が囁く声と共に掴み上げた指先には数本髪が抜ける感触とそれに歪む顔。それらに笑みを深めると唐突に手を放して膝立ちのまま喉元に人差し指の爪を突き立て、後の展開を想って愉しげに喉を鳴らす)悪意も敵意も好意もぜーんぶそう。…オトモダチだって傷付けたくて傷付けたくて堪らないくせに。なのに、一番シてあげたいことがシちゃいけない。ほんと、かわいそうだね。…嫌われることがこわい?傷付けてしまうことが嫌なの?違うよね、そんなちゃんとした事が考えられる人間じゃない(生まれる切欠が存在した訳でもなく常に共に在り続けるそれ。押し込めて押し込めて堪えて堪えて堪え続けたそれを抑え続けたのも、全て、すべてすべて。倫理観?規律?規範?否、黄金の瞳に満ちて満ちて満ち溢れたそれの如く、常に擁いているのに受け入れられないこの欲望。我欲に塗れた自分自身。簡単に暴力の手段を選ぶ癖にそれを突きつければ自分じゃないような顔をして、目に入らぬよう逸らして押し退け続けたそれを今更目の前の"私"に受け入れる事など出来やしない)だから、私が私を助けてあげる。それが一番だって、私でもわかるでしょ?(嘲笑の後に最善の策だと優しく囁く声に応じて両手は首に触れては、抵抗のないそれに首の感触を味わうように力を強めて行くだけの、それだけの話。) | |||||
もう、もし自分の体が二つあったら…なんて話は出来なさそう。 | |||||
(10月4日。満月。選んだ場所は行き慣れていて棺の姿も見受けられる巌戸台駅前。物言わぬ第三者が在る方が身には堪えると知って、然れど、安直な決意にはその方が揺るがぬと思えばこその事なれど――何の意味もない。現れた"自分"を前にして認めるだとか受け入れるだとかそんな単語だけを頭に並べた所で、出来やしない。それどころか諸悪の根源として映るその姿に、苛烈に染まった頭は悩む間さえもなく手を出して、それからは。――それからは。過去の記憶を刺激する様な態度を潰さんと拳は痛みも知らず振り下ろす自分の形相を知るのは、自分のみ。問い掛けが耳に届く迄は月光に醜い姿を我を忘れて晒し続け、我に返れど醜悪さは変わりはしない。)ち、が…楽しんでなんて…ちがう、違う(赤く染まっていた肌が色を失くせば、身体も冷えるのを感じる。尻餅を付いて相手を見上げたまま首を左右に振り、握っていた拳を開いては必死に無機質な地面に擦り付ける。楽しんではいない。決して楽しんでなどいないと否定を譫言の如く繰り返しては、受け入れる筈だった相手から逃げ出さんと足掻く。確かに先程の行為に楽しさなど微塵は無くとも、近接した距離で行うそれがもっと異なる環境と対象であれば、―きっと。大した距離も開かぬ内に先程とは逆転した互いの位置で近付いた自分の顔が此方の先を読むように言い訳を潰して行き、物理的な痛みよりも自分によって優しく付き付けられる事実に心拍が上がる。)そんなこと…違う、ちゃんとわかって……そうじゃ、ない(きっと非常識な同情すら自分自身に与えられて否定を口にせねばならぬのに碌に動かぬ舌は何時だって繰り返すだけで、押し付けて来たそれを今更受け入れる事など。受け入れたらきっと、呑み込まれてしまう。それが酷く恐ろしくて堪らなくて、儘ならない現実が酷く苦しいから、否定を。否定をしなければならぬのに、 彼女の誘いは何時だって魅力的だ。他者を害する事でしか果たせぬそれを消せぬのならこの身は唯の害悪であり、堪える事もしなくて良いのならば、自分にとっても他者にとってもそれが一番良いに違いない。自分と同じ彼女の指先が首を圧することに身を委ねてしまえば、――それが一番楽なのだから。) | |||||
片方の自分が寝て、もう片方の自分が学校に行ってくれたりしたらいいのにな。 | |||||
(其の日もまた満月の夜だった。近頃、満月の夜は心が騒いで仕方がない。己の影と対峙した出来事もあったが、其れで終わりではないような嫌な感覚。あれから悩みが解決する事はなかったけれど、抜毛回数は確実に減った。そして作戦日の本日夜は目が冴えた状態で作戦室へ―けれど、明らかな異変にすぐに気が付いた。人が少なすぎる。何かあったのだと察し、真っ先に所在を問うたのは情けない自分を励まし続けてくれた彼女。探索役の彼女に告げられた場所に無我夢中で向かう。影の自分とはいえ、あれの恐ろしさは体験したから嫌というほど知っている。どうか無事で居て、間に合って―そう祈るように念じながら、到着したのは見慣れた巌戸台駅前。不気味なまでに静かな空間の中、ある一角だけ別の場所のように不穏な音が聞こえる。其処に急げば、視界に飛び込んできた光景を目にして言葉を失った。彼女がもう一人の彼女に襲われている。今にも細い首を絞めようとしている。迷っている暇はなかった。開いた口から悲鳴とも叫び声ともつかない声が出ていた。)……っ、藤澤さん!駄目だよ!お願い、生きて!(いくらシャドウであれもう一人の彼女の存在に危害を加える事は躊躇われ「セイレーン!」と自らのペルソナを呼び出し、指示を出せば小さな氷の壁が二人の間に文字通り割って入る事だろう。けれど其れはあくまで一時のもの、二人を引き離す事が出来たなら―すぐに役目を終え、バラバラと欠片落としながら砕けてしまうのだけど。其の間に真壁が彼女を庇うように前に立ち塞がる。)……いくらもう一人の藤澤さんでも、私の大事な人を傷付けるのは…許さないから。(二人の姿を見付けた時、彼女は抵抗する力も失いかけているように見えた。でも何が何でも彼女を影の手に渡すわけにはいかないのだ。だから、己も彼女がしてくれたようにとことん邪魔者に徹そうと思う。立ち塞がった上に両手を一杯に広げて通せんぼの格好をした真壁は彼女と瓜二つの黄金の瞳と対峙した。) | |||||
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(氷壁の邪魔が入れば退き鬱陶しげに見返したその先―ー砕けた氷の後には自分達の間に立ち塞がる姿に、口許は甚く愉しげに三日月を携えて彼女の言葉を耳に入れる。広げた両手も向けられる敵意も此方側ばかりで、それが酷く可笑しくて堪らず笑みを深めながら、助言を彼女に与えてあげよう。)そんなところに立っちゃって…先輩、だめですよ。ソレ、が一番危ないのに(ソレと顎で示した彼女の背後に向って「ね?」と首を傾げては、後僅かで果たされなかったそれはそれで良かったのだろう。この状況の方がずっと私の首を絞める状況になり得るのだから。棺ではない生体が目の前に在る。前の満月の記憶も良い材料だ。あの時吐いた綺麗な言葉の裏に秘めたそれを晒せば、―私はきっと耐えられない。)傷付けたくて堪らないのはソレも同じなんだから。無害さを装って、ほら今だって被害者みたいな顔してる。自分が皆と違う螺子の足りてない危ない人間だって、わかってるくせに(まるで被害者の様な顔をして庇われて、何時だって加害者側である女の癖に。当人に聞かせる意図を孕んだ噂話のような口振りの中、「あ」と思い出したかのように声を発すれば、)そういえば、先輩が泣いてた時だって「私が傷付けたかったな」とか思ったりもしたよね(最中に混ざる声の妨害も気に留めず、楽しい思い出話を語るように朗々とした口調で自分へと語り掛けよう。傷付ける側は誰か、異常者は誰かを語る三日月は決して歪むことはなく、穏やかな声音で以て続けよう。)ねえ…先輩、人間に危害を加える害獣は駆除されるでしょ?それと同じなんです。だから、…先輩が被害者に、私が加害者や犯罪者になる前に、私が助けてあげるだけなんですよ(満ちて満ちて溢れようもない情動を湛えた黄金は彼女を見据えはしない。尋ねる必要も無い共通の意思を持った相手へと視線を注いだ儘、) | |||||
でも、自分が何をしてるか心配になりませんか…? | |||||
どう、して…(解放された首。呼吸の出来る身。途絶え掛けた酸素が戻る身体は懸命に働き続けて、それに安堵に似た情を懐く傍らで、目前に広がる背中に掠れた声が呟いた。何故。どうして。誰であるかを意識した途端に齎された動揺が強く心音を響かせる。"彼女"に向けられた言葉に小さく首を振りながら絶望に歪んだ顔は、彼女の訪れを歓迎することは決して出来ずに、ごめんなさいと断片でしか音にならない呟きと共に座した儘の体勢で後ずさる。数歩も開かずに聞こえた自分の声に硬直した身体は、顔を背けて耳を塞いで固く目を閉ざす。聞こえない聞こえない聞こえないと頭で繰り返しても届く声に否定すら出てこない。事実であると自覚があるからこそ聞く事を拒絶する。違うとはそれでも言い切れず、唯一妨害したのは前の満月の話を彼女が持ち出した際に顔を上げて、)っやめて!!言わな…いで、(大きな声で発した妨害も、けれど大した邪魔にもならず、続きが紡がれてしまえば力無く両手を降ろしては、意味を成さなかった懇願を後から紡いだだけ。綺麗な言葉で繕った裏腹に秘めたものを晒されてしまえば、同じ声が言葉を止めた後に自嘲を湛えて細めた目許で目前の彼女に視線を向けよう)真壁先輩、…私は大丈夫ですよ(何時ぞや彼女に使った言葉と同じ単語を用いて、拒絶の意思を示そうか。彼女が訪れる前の自分が見下ろしたあの光景が頭に過り、余計に彼女がこの場に居ることが恐ろしくて堪らない。此の場に於いて最も危険なのは害獣に挟まれた彼女であることは間違いなく、なればこそ"彼女"の言葉こそ正しいのだ。元よりこの言葉も話を聞いてしまった彼女には不要かもしれないが、)だから…帰ってください(赤みを帯びた右手が左手を抑え込むように強く力を籠めて握りながら、目を背けたくなるのをもう少しだけだと堪えては、表情を消した顔で言い放とうか――) | |||||
たしかに…!お利口な自分に分身してもらわないと駄目だね! | |||||
(耳を塞ぎ目を閉ざす彼女は其れまで見た事もないほどに苦しげな顔をしていた。其れを自分が救う事は出来なくても、如何にか其れを分けてもらう事くらいは出来ないだろうか。彼女には苦しんでほしくない、笑っていてほしい。大事な人だから。――唐突に顔を上げた彼女の必死な制止も無視して明かされた意外な言葉により、真壁の顔全体に驚愕の色が広がっていく。)……え?…どういう、こと…?(予想だにしない彼女の言葉の意味を咀嚼するのに暫しの間が空いた。しかし其れが彼女の抱える痛みだというのなら、近付く事は怖くない。彼女が一人で何処かに消えてしまう恐怖とは比べ物にならなかった。)…っ、違う!だって藤澤さんはちゃんと抑えられてた。それは…きっと、傷付けたくても、傷付けられたら痛いんだって事も知ってるからだと思うよ。…だから、害獣と同じだなんて言わないで。――助ける?こんなの、こんなの…助けじゃない!それを教えてくれたのは藤澤さんなのに…!…辛いなら私を傷付けてもいいよ。藤澤さんが一人で傷付いたり、自分を傷付けるよりも…ずっといいよ。だから自分の事をそんな風に言わないで…?(自分の痛みは自分しか分からないのと同様に彼女の痛みも解る事が出来ないもどかしさに歯を食いしばる。だが、“助けてあげる”という言葉に弾かれたように顔を上げ、黄金の瞳の彼女に反論した。そして、次いで彼女の方に向き直り―想いを必死に訴えかける。何をしたって、底知れない暗い場所に彼女を渡すものか。――ほとんど無表情の彼女から告げられたのは、奇しくも己が前に口にしたのと同じ言葉。)……嫌だよ。絶対帰らない。だって…全然、大丈夫そうに見えないよ。(そう言い終えたならば強く握り締められている彼女の手を取って、其の華奢な体を抱き締めようとするのだろう。多少抵抗されても負けずにぎゅうっと力を込めるつもりで。その顔はきっと情けなく泣き笑いの形に歪んでいるだろうけど。これが正解ではないかもしれないし間違っているかもしれない。でも、間違いでも彼女の痛みや苦しみに少しでも近付けるなら、其れでいい。)お願いだから…一人にならないで。藤澤さんがいなくなったら、寂しいよ…。(彼女の背に回した手をぽんぽんと動かし、あやすようにしながら静かに言葉を続けた。悩みは変わらなくても一人じゃない事の心強さを彼女に教えてもらったから、彼女にも知ってほしかった。一人で悩んでいたら暗い未来ばかりが大きく見えてしまうから。) | |||||
それなら…勉強に集中できる自分とか、限定的な自分なら大丈夫かな。 | |||||
(拒絶。嫌悪。忌避。恐怖。己が奥底の感情を晒された今、彼女が己に対して懐くべき感情など数多に浮かべど、自分と同じ顔の彼女へ返した言葉の何れもが把握することさえ出来なかった。それがきっと彼女が生まれ持ったその優しさだと気付いても、それに触れることさえ苦しくて堪らないから彼女の言葉とて聞こえぬように小さく首を振っては帰れと告げたのに――手に、体に、感じる温かさに思考が止まる。彼女の手が触れた瞬間に強張りを見せた体が一拍置いて反射的に体を捩って拒絶を見せども、苦痛を与えるものではない力強さが身に伝わるだけで、変わらない。わからない。)な、に…してるんですか。先輩が…あぶない、ですよ(自分からは決して縮める事のない距離。決して縮めてはならないその距離。拒絶の為にも触ることが出来ない両手は彼女に触れることを恐れて変わらず固く拳を作ったまま、どうにか発した声は困惑と動揺が露に恐々と落ちる。)そんなこと、…わたしは……だって、…どうしたら…(自分自身に関する事であれば、一人でいることに寂しいは繋がらない。後に待つものとて最も楽な選択肢なのだから問題は無いけれど、彼女の側の感情を口にされるとどうすれば良いかわからず、小さく情けなく零す。背に感じる優しいそれが強張った体の緊張を解いて行くのを感じて、尚更そのことに戸惑うように不安に揺れる瞳が彼女の背後の自分を映しては、どうしようとその姿に縋るように見据えては――そのどうしようもない自分自身を、ずっと押し付け続けたそれの姿が、先程迄と異なって見えるのは正常の心拍を響かせ始めたお蔭なのだろうか。彼女が自分の顔をした別人ではないことなど、最初からわかっていたつもりだったのに、)もしも、今、私が先輩を殴ったら…抑えられなかったら、どうするんですか。……先輩にこうしてもらってると、すごく、苦しいんです。うれしいのに、すごく、くるしいんです。私は…先輩が思ってるよりもずっと、頭が可笑しい人かも、しれないのに(彼女の背中に回す事は出来ない手は相変わらず握り締めたまま、奥に秘めた解いてしまいそうな封に触れる前に。完全に、決壊してしまう前に。言葉を発さなくなった自身の影を目に留めて、先刻の新鮮なその記憶を保持したまま、告げよう。自分は彼女に対して危害を加える者だと。彼女が此処に居る事を、こうしていることを責めるような声音で、最終警告の如きそれを紡ごう。当たり前と受け止めていた返答を踏まえては固く目を瞑って、何らかの反応を待つ―) | |||||
それいいね!テストは全部その自分に受けてもらおう! | |||||
(触れた瞬間に強張る反応には見ないふりをして、小さな抵抗を受けても離す事はせずに。ふっと目許を下げて、情けない笑みが浮かぶ。)……ね、こわくないよ。(まるで子供に言い聞かせるような言葉は彼女か自分に対してなのか、どちらとも取れる言い方だったけれど。どんなに強く拒絶されても、手を離す気はなかった。何時か固い拳が解かれると信じて。其の手は彼女の背中をそっと擦る。危なくなんてないのだと訴えるように。)……全部、一人で何とかしようとしなくていいんだよ。頼りないけど、私ならいくらでも使っていいから。(己は悩みを解決する手段にはなれないけど、抱えているものを吐き出す話し相手くらいは出来るから。全てを自分だけで解決する事の難しさを知っていて、人に話す事の効果も教えてもらった。だから彼女が一人になろうとする事が寂しいのだと伝えたら、もっと困惑させるだろうか。抱き付いている格好の所為で彼女の表情が見えないのが惜しい。でも、回した腕はまだ解かない。)…うん、ごめんね。…いいよ、それでも。殴られても、叩かれても…こうやってしぶとく抱き締め続けるから。本当に大丈夫になるまで、ずっとそうしてる。だって…藤澤さんだけが痛いのも苦しいのも、嫌だよ。藤澤さんの抱える重さはまだ全然知らないけど、でも…何回も忠告してくれて、傷付けないようにしてくれた。私だけじゃなくて、いつも皆の事を気遣ってる。そういう優しさは知ってるよ。違う一面もあるのかもしれないけど、でも藤澤さんの中には優しい藤澤さんもちゃんと居るの。(想いが溢れて彼女の背に回す腕の力が少し強くなってしまうが、静かにゆっくり語りかける。彼女が傷付けるならば己は其れの正反対に近い行為を続けよう。何もならないかもしれないけれど、何かになるかもしれない僅かの可能性に賭けて。其の行為をどんなに責められても警告をされても、引く気はなかった。彼女はもう十分に忠告してくれた、だから此処からはもう真壁が勝手に残っているだけ。殴られたとて其れを頑なに聞き入れなかった自分が悪い。彼女に責められる道理は何もないのだ。危害を加えてもいい、だから一緒に居させてほしい。強い決意を秘めた声で彼女に出した答えを告げるのだ。其の体は彼女から離れる気配はない。) | |||||
それでテスト中にお腹が鳴るようなことがなくなるならお願いしたい、かも… | |||||
(この温かさに甘えて衝動的に我欲をぶつけてしまいそうになる。そうしても、きっと、彼女は逃げないかもしれないけれど、それは。明滅するように先刻の記憶と涙を溜めて恐怖を浮かべた双眸が過り、優しいなんて形容詞が黒で塗り潰されて、指が握った手の中で食い込むだけ。満月と同じ色を持った顔から怯んで逃げるように伏せようとし――"こわくないよ"、と先程の彼女の声が響いた気がして、自身を見つめる。こわく、ない。こわくない。)……いつから、なんてわからないんです。でも、いつもは大人しいのに…誰かを泣かせる時がいちばん、楽しそうに笑う子だった、って(小さな声で唐突に始めた自分語り。平々凡々と至極安穏としているが故に幸福ともいえる環境で育ち、其処に始まりに発端も切欠も見当たらないこの感情はきっと生まれた時から共にあるもの。恐ろしいと感じる前から、自分の中に在った感情。最も楽しいと感じるのは何時だって変わらなくて。笑顔が浮かぶ瞬間は其処。)今も、泣き顔を見るのが一番、……すき、で。私が自分の手で傷付けた人の泣き顔が、…すきなんです(語るそれは他人の話ではなく、其処に佇む”彼女”の話ではなく、自分自身の話。自分の感情。伝える事を躊躇うように震えた息が漏れた後、掠れた声で紡ぐ秘めていた欲。常識から逸脱した嗜好。人が聞いて楽しい話ではないと理解していても、言葉が止まらない、)誰でもそう思う訳じゃなくて…友達とか、家族とか…好きだなって、大切だなって思う人であればあるほど……辞書にある"大切"の意味と一緒に、そこにない感情が浮かんで、…たまに、そうしたくて。傷付けたくて、泣かせたくて、たまらなくなって、何で我慢なんてしてるんだろうって思ったりする自分もいて……だから、中学生になってからは…あんまり近付いちゃだめだって。言い聞かせて、見ない振りして、苦しいのから…逃げてた(異常なそれだと理解しても消すことのできない欲求も、そんな衝動を懐き続ける自分自身から全て、蓋をして。封をして。整った言葉じゃなくとも自分じゃないと見ない振りをして逃げていたのだと認めて吐き出せば、小さく小さく口を動かして「ごめんなさい」と宛てたのは自分自身。それが契機か、霧散するように消えた其れが自身に還るのを捉えると双眸を伏せよう)……でも、先輩が優しいから。こんな優しい先輩を傷付けたらだめだなって、…思うから。向き合います。目を逸らしたままじゃ、出来るわけないから(確かな意思を持って告げる言葉に震えは無く、掌に籠る力も消えていた。汚れた掌を持ち上げて僅かに動かす場所へと悩んだそれは結局そっと彼女の肩を押したのは、もう大丈夫だと伝える為に。彼女と視線を合わせる為にも。)……いきなり、変な話をしてごめんなさい。でも、…だめですよ、先輩。傷つけて良いなんて言っちゃ…先輩は優し過ぎます(冗談染みた調子で彼女の優しさを、"自身"と同じ言葉で咎めては眉を下げて双眸を細めて笑おうか。全てを吐露した今、彼女が若し自分に恐れを懐いても此処から逃げる事があってもそれを受け止めようと見詰めてみれば、どうしてだか瞼が熱くて視界が滲んで上手く見えなくて、瞬きも出来やしないけれど。) | |||||
静かな教室に響くお腹の音…知らんぷりするのも大変だよね!顔に出る…。 | |||||
(彼女は自分で思っているよりもきっとずっと強いから。――其の口から紡がれたのは、彼女が話してくれなければ己が知らずに通り過ぎてしまいそうな話だった。だからこそ生まれる一音一語を逃さないように、大事そうに彼女の語りに耳を傾けて。)――…うん。そう、だったんだ…。(己にとって人の泣き顔とはなるべく見たくないもので、泣かせてしまえば自分も泣きたくなる。だから彼女の感覚は分からない。でも、其れが理由もなく彼女の中に何時の間にか在った感覚は少しだけ分かる気がした。自分にとっての楽しさが女の人に触れる時であったみたいに。変えたいと思って変えられるような類のものでなく、逃げたくても逃げ切れない。そんな感情を抱えて、けれど普通の優しさも併せ持つ彼女はどれだけ苦しかったろう。怖かったろう。其れをたった一人きりで抱えて。傷付けた分だけ、彼女も傷付いてきたのではないだろうか。)…その人が好きだから、傷付けたい…泣かせたい?(其の苦悩は同じ経験をしていない自分に計り知れるものではない。同時に彼女の過去の言動にも合点がいった。皆からしっかりと距離を取っていたのは、彼らを傷付けない為であり己も傷付かない為の行動だったのか。でも、逃げていても時が解決してくれるものではない悩みはずっと彼女の中にあり、其の痛みを想像すると胸の奥が力一杯に絞り上げられるような感覚があった。――そうして、小さく紡がれた“彼女”への謝罪と共にまるで何もなかったように消える影。在るべき場所に戻ったのだろう。)…それはね、きっと藤澤さんが私にもっと優しくしてくれたからだよ。あの時の藤澤さんの言葉がなかったら、今の私じゃ居られなかった。一緒に逃げようとしてたかもしれない。……ずっと向き合い続けるのは大変だと思うから、私でよければ何時でも好きなだけ使ってほしいな。(解かれた掌と控えめな手に押されて、真壁も漸く彼女の体から腕を離そう。少し久しぶりに見られた彼女の表情は、最初に見付けた時よりずっと素敵だ。)ううん、全然。話してくれて、本当にありがとう。嬉しかった。…そうかな、ごめん。(考える事もあるけれど、何より彼女が打ち明けてくれた事が嬉しかった。――そして、穏やかな瞳に溢れる雫に気付いたなら、いそいそとポケットを探ってピンクのハンカチを差し出そう。「…あ、まだ使ってないから…!洗いたてだから…!」と全く格好の付かない台詞を付け加えて。其の侭、彼女の涙が止まり、笑顔が浮かぶまで―何時までだって其処に居るつもりだけど。) | |||||
あれは聞いた方も鳴らした方も、色々な影響がありますよね…つらい。 | |||||
(手を焼かされた幼さ故の悪癖も改善されたと家族の中でも過去の話となっているそれが未だ矯正されずに内に秘められたままなど誰に言える訳もなく、抱き続けたものを言語化して発露するのは今日が初めてのことだった。この異常性への理解を求めることはずっと昔に消えた選択なれど、ただそれを聞いてもらうというそれだけの事で握る力を緩めることが出来て、混沌と化していた頭も心も凪いで行き――故に、幾らか冷静さを戻した今、彼女の申し出に対しては真っ向から見据えて否定を紡ぐ。)使いません。先輩のことを使うなんてことは…絶対に、しません。それに優しくなんて、ないんです。いつも自分のことしか考えてないので(彼女が意図した意味と違ったとしても、使うという言葉を彼女に対して用いる事が嫌で、言葉は決然と。加えて、"優しい"の言葉が結び付くべきは彼女のような人であると思えば、独り言めいた声量で呟くように否定を紡いだ。自身の思考の一部が他者と相容れぬそれと気づいた時から何時しか自己の理解を求めるどころか、他者への理解も常識の認識も諦めては多勢の選択が正しいと委ね、自らの行動や言動は常に自分を中心に据え置いての事で――過日とて、彼女を心から案じての事、とはいえぬのだから。それでも。)でも、…先輩にそう言ってもらえて後ろめたく思うようなことがないように、したいな、って思います。……それから、良かったら、たまに美味しいご飯を一緒に食べに行ってもらえたら、嬉しいです。お腹いっぱい食べると、いろいろとすっきりするみたいで(加虐的な性質を潜めた己に優しさの概念を彼女達と共有する事が出来るかなどわからぬけれど、優しくなりたいと思うのは初めての事で、彼女にはその意思を聞いて貰いたくて、言葉に出した。重ねて、使ってという申し出は受け入れられぬけれど、健全的であろう話を申し出てみようか。昇華のような代償行動のようなそれと何となくは認識している、食欲に纏わる事で。――滲む視界が何かを理解せずにいたのは、その行為が長らくその身には起こらぬものであったから。力を緩めた結果、涙腺まで緩めてしまったのか、瞬きをすれば頬を伝う感覚と差し出されたそれに気付けば、)…あ、りがとう…ございます。あ、れ……ごめんなさい、今、止めるので(彼女の言葉に思わずふっと笑ってしまった筈なのに、ハンカチに手を伸ばして手が彼女の手に触れることが出来た時、余計に涙が溢れた。ハンカチに手を乗せたままそのまま知らず彼女の手を握るようにしては俯いて、片方の手で目許を擦る。自分が泣くなんて可笑しな話で、人を泣かしたがる自分が泣いて良い訳がないのに、些細な切欠であれ自分で伸ばした手が彼女の手に触れた時に、安堵したのだ――折角差し出されたハンカチもそのままで目許を幾度も拭えば、暫く後にはゆっくりと顔を上げて、涙の止まった顔で向き合える筈だ。そうしたのならば今度こそ立ち上がろう。嗚呼、然れど、そのまえに。今は確かに思えるその言葉を伝える顔は晴れやかなそれとなるだろうか、)真壁先輩が来てくれて、嬉しかったです(衝動や欲求は消えはしないけれど、それでも、こうしてまた立ち上がれたように、きっと大丈夫だと根拠のない自信が湧くのだ。根本の困難の周りからでも、少しずつ。何時か物理的な距離を自ら縮めて、何時か加害的な意味ではなく誰かに手伸ばすことへ恐れが生まれぬようになるようになりたいという思いを懐けたのならば、向きあい方も変えられる気がして――文字通り、彼女と並びながら寮までの道を辿ろう。今この時は、半歩下がる必要はないと思えるから。) | |||||
ね、お腹が鳴らない道具とか薬があればいいのに…! | |||||
うーん…でも、そんな事ないと思うんだけどな。本当に自分の事しか考えてない人はそんな事も言えないと思うし。(頼るに近いニュアンスで口にしたのだが、其れを断られたならば小さく頷くのみに留めた。けれど優しくないとの言葉は見逃せなかったのか、反論の言葉を重ねた。いくら彼女に否定されても彼女が優しさを持ち合わせている事は譲れなくて。)…そっか、そう思ってくれて…ありがとう。うん!もちろんだよ…!いつでも言ってね、何処に居てもすぐ駆け付けるから!美味しいご飯はいいよね、食べてる時には悩み事とかも全部忘れられちゃう。知ってるお店ばかりじゃなくて、新しいお店も開拓してみたいね。(申し出は却下されてしまったけれど、代わりに出された提案は無条件に心を明るい方向に導くもので。ご飯を美味しく食べられるのは何の説明も要らないほど幸せな事で、しかも誰かと一緒ならば美味しさは何倍にも増すだろうから。そして、彼女と美味しいお店を新たに発掘出来たらとても楽しそうだなんて穏やかな表情で思いを馳せた。)……大丈夫、焦らなくても大丈夫だよ。ゆっくりでいいから、我慢しないでね。(己まで貰い泣きしそうになってしまうのを堪えながら、彼女の温かな手により全身の緊張が解けていくのが分かった。力が抜けて、思わずへたり込みそうになるのを両足に力を入れて踏ん張った。――俯き加減で握られた華奢な手をそっと握り返しながら、其処から動く事なく涙が止まるまでじっと黙っていよう。前に彼女がそうしてくれたように。暫くして、涙を拭って前を向いた彼女の瞳はとても真っ直ぐだった。人の事を考えられる優しさも、自分で立ちあがれる強さも、彼女はきっとずっと前から持っていたのだろうと思う。胸が震える感覚を味わい、雨上がりの空みたいに綺麗な表情を見詰めよう。)…こちらこそ、ありがとう。藤澤さんの事、ちゃんと知れて本当によかったよ。――じゃあ、そろそろ戻ろっか。(其の言葉だけで十分だった。嬉しいと言われた自分の方が嬉しくなって、一気に解けた頬を元に戻すのは少し大変そう。二人並んで大きな丸い月の下を歩く二人の距離は並んでいて、横顔を見ながら話が出来る。そんな些細な事を喜びながら、さて仲間の待つ寮へと帰ろうか。) |
10月4日 満月の夜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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(闇を照らすまあるい光。すべてが零を指すその時間。待ち焦がれていた“そのとき”が、訪れた。浮かび上がった影は確かな輪郭を象り、同じかたちをした男を求めてじわりじわりと、極めてゆるやかにその距離を詰めてゆく。表情を固める彼を見てくすくすと漏らした笑みは子供のようにあどけなく、歪んだ表情は明らかな賊心に満ち満ちていた。)わっかんないなあ。(影が一歩を踏み出す度に、僅かに後退るもうひとつの姿――嗚呼、なんて滑稽なんだろう。おかしくておかしくて、くすくすと溢れる吐息は止まらない。)おれはさ、ぜんぜん、わかんないよ。(そう口にしながら、全てを見透かした金色の瞳が男の足を縫い止める。気味悪く歪んだ相好を引き攣らせ、絡み付くように甘ったるい声を響かせて。眩しすぎる程の月を背に、影は嘯いた。)……ね。“ともだち”ができた気分って、どんなもの?(大袈裟なまでに首を傾げて、射止めるように瞳孔を開いて。まるで子供がするかのように「わかんない」を繰り返す。わかんない。わかんないわかんない。わかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんないわかんない。だってさ、 不意ににこりと綺麗に微笑んで、鏡に映し出したかのようにその姿は児玉秀斗そのものとなる。浮かべた笑みには恐ろしく正常なもので、だからこそ、秘めた凶器はいっそう鋭さを増した。)おれはさ、欠陥品なんだから。人間かどうかもわからないのに、人様に縋ったらだめでしょ。(穏やかな声色。やわらかな笑み。目の前の存在をすべて肯定するかの如く慈愛に満ちた眼差しを湛えながら、諭すようにそう唱える。気が付けば手の触れる距離に届いた“自分”の肩にそっと手のひらを乗せて、影は再び滑稽にわらう。同情に満ちた瞳は、変わらず月と似た光を放っていた。)……おれはおれなのに、どうしてわかんないんだろうなあ。でもさ、心当たりはあるよ。“おれ”も、わかってるでしょ?(そうして、可笑しそうに口許を歪めて。)――あ。今さ、おれがなんて思ってるか、当ててあげよっか。(楽しげな提案と共に、両手をすうっと男の首へと伸ばす。頸動脈を抉るように爪を立て、このまま締め上げてしまえば全てが終わりだった。その直前、ただ彼の首筋へと冷たい指先を添わせた瞬間に。男の心を見透かした言葉を、軽やかに紡ぎ上げよう。愉しげに浮かぶ笑みは、ひどく歪だ。)――“なんで生きてるんだろうな、おれ”。
“ホント最悪”って気分だな。納得。……帰って寝たい。
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(“あの日”を彷彿とさせる、目の眩むような満月だった。夜空にぽっかり浮かんだそれを一目見た時から、確かな予感と諦めに似た気持ちは膨らんで、もう逃げられないと覚悟は決めていた。けれども内に抱えたそれは、立ち向かう為の決意では無い。――絶望に浸らない為の予防線。ただ、それだけだった。)――――、(自然と足先が向かったのは、長鳴神社に続く小さな公園。月の大きさに恐怖心すら抱きながらも、それを眺めている内に時間は驚くほど速く過ぎ去った。不意に響いた足音。くすくすと耳障りな音が鼓膜を擽り、認めたくはなくとも、振り向いた先でわらう不気味な姿に一瞬にして意識の全てを奪われる。影は幼稚な笑みを募らせながら、公園には不釣り合いな図体を引き連れていた。こうなる事は分かっていた筈なのに、恐怖に支配された全身は固まり、ゆっくりと近付いて来る影から逃れるよう後退る事しか出来なかった。それを見て影はまたわらう。気味が悪い。吐き気がする。甘ったるい口調でわざとらしく首を傾げる影は容易に心を刺して、抉った。)…………なに、(“ともだち”。嘗て焦がれたような響きがじくじくと心臓を刺す。違う。まだ自惚れてはいない。もしかしたら友達になれるかもしれないと、淡い期待を寄せていただけだ。なのに。両の耳を通じて、脳裏に流れ込んだ無数の声が精神を犯していく。“わかんない”。その意味すら分からぬ儘に撹乱され、頭を抱えるように耳を塞いでひたすら歯を噛み締め首を振り違うと大声で何度も何度も何度も叫んで――それでも聞こえてくるその言葉に、すべてが壊されそうだった。唐突に止んだ声、無気力な瞳を投げ遣りに影へと向けては、そこに映るのは自分の姿。自分自身の、姿だった。――――やはり自分は、自惚れていたらしい。そうだ、自分は欠陥品だった。分かっていた筈なのに、さも一人の人間のように平然と生きて来た罰が当たったんだ。気付けば影に対する恐怖心は失せ、肩に影の感覚を感じても、抵抗する気力すら無かった。)……わかってるよ。ともだちになれたかもって、錯覚してただけ。だからわかんないんだよ。ともだちができた気分なんて。(諦めて、力なく笑った。影は全てを見透かしていて、そして自身を全て受け入れてくれている気がした。冷たい指が首に触れる。その気味の悪さにすら笑いながら、震えながら、答え合わせをするように言葉を紡ぐのだ。)……なんで生きてるんだろうな、おれ。(重なった二つの声に、鳥肌が立つ。全てがどうでもよくなるような、そんな心地だった。)
| 僕の言う通りだっただろ?……夢に見ないと良いね、今日のこと。
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(また、円い月の咲く夜が訪れた。寮の窓から覗く不気味な夜陰に存在感を放つ其れは否が応でも先月の一幕を思い出させるけれど、嘗てのように重たい枷じゃないのは気の所為ではない筈。未だ鎖は身体中に縛りついた侭で抜け出すには至らなくとも、引き千切る覚悟は出来ていた。然し一方で、胸中を渦巻く不穏で不愉快な予感が消えないのは何故だろうか。其の答えを知るのは、作戦室で影時間を迎えて直ぐのことだ。───居ない。そして思う。予感は、此れだ。背筋を悪寒が駆け巡り、反射的に地面を蹴って駆け出した。彼のことを考え、先月の自分を考え、玖珂は小さな身体を只管に動かす。知らされた居場所に向けて走る足は止まることを知らず、前だけを見詰めた濃紺が捉えた二つの人影に足を止めた。)───……っ……!(重なる二つの声が、鼓膜を震わす。駄目だ。いけない。其の指先を受け入れては、いけない。まるで、自分を見ているようだった。一際煩く鳴った心臓が身体中に響く。其れを合図に、腰元に伸びた指先はホルダーから召還器を引き抜いた。平素は丁寧な一連の動作も少々手荒く、痛いくらい米神に押し当てた其れを指先が勢い良く引いた。)フェンリル!!(呼び声と共に現れた魔狼は鉄鎖から放たれ、宙を蹴って影に一直線。彼と影の間を其の一撃で切り開けば間に滑り込んで、彼を背に庇って立ちはだかる。其れは先月、彼が玖珂にしたのと同様の行為だったけれど、此の小さな身長では頼りなさが際立っていただろう。彼を背にした侭、後ろを向くこともなく小さく息を吐く。そして、唇は動く。)……何、してるんだよ。約束が残ってるって言ったのはそっちなのに、………何で、(───死のうとしてるんだ。力なく、ほんの少し泣きそうな声で語られた小さな一言は、彼へと届いただろうか。あの日、玖珂を救ったのは間違いなく彼だった。ならば今日、其れを返さなければいけないのは自分だというのに───拳を握り締め、唇を噛む其の姿は、何も出来ない自分への苛立ちだった。)
| ……なんか、やさしさがしみる。逆にちょっとつらい。
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(苦しいのはきっと一瞬。それが過ぎれば、すぐ楽になる。息の根を止めるべく伸ばされた手に抵抗する気も無く、召喚器に触れる事すらしなかったのは影に抗う意志など疾うに失せていたからだ。ゆっくりと瞼を下ろした刹那、視界の隅に“誰か”の姿が見えた気がするけれど――それも気のせいだと諦めた。平生より荒々しい馴染みのある声が鼓膜を揺らしても、首に添う冷たい感覚が突然に離れても。誰かによって守られたという実感が静かに頭へ落ちても、男の感情はじっと佇んだまま動かなかった。静かに語られる言葉がなぜだか泣いているように聞こえて、その存在を守らないとと思うのに。そっと瞼を持ち上げ、ひらけた視界には痛い程に頼りない背中が映る。あの時とは、まるで逆の立場だった。)なに、してるの。……何しに来たの?(彼の言葉を反芻するかの如く羅列を紡いで、小さく笑んだ。まるで小馬鹿にするような響きは、自分自身が“影”にでもなったようで。浮かぶ感情は複雑な色を成して、全てが混ざり合えば黒に堕ちることが明白だった。何かを考えたいのに何も考えられない。言いたい事がある気がするのに、とても言葉にはならない。助けて欲しい。けれど同じくらい、消えて欲しい。どうしようもなく泣きたいのは、こっちの方だった。)……約束が守れても、おまえが得することなんて何もないだろ。同じ学年で、同じ寮で、一年中近いところに居てさ。……覚えられない方が、おかしいんだから。(――あの寮に入って半年もの月日が流れた今でも、児玉の記憶に留まる名は五本の指にも満たない。意識的に覚える事を避けて来た訳ではなく、覚える必要がないものであると、無意識下でゆるやかに消えていくものだったから。だからこそ、約束と騙りはじめて自ら覚えた名の彼に執着を持ったのも当然だった。彼に抱いたのは純粋な好意なんてきれいなものではない。それに気付いてしまえば、――彼に何かを求める傲慢なことなんて、とても出来なかった。)救わなくて、いーよ。……おれは、ひとりでしか生きれないから。
| 優しい?……そうかな。………じゃあ、なんて言って欲しかったの。
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(あの満月の夜、掌に沈んだ爪痕は今でも痛々しく残っている。無力さの証として刻まれる其れを見る度に心持ちは穏やかでない反面、玖珂愛という人間を冷静に受け入れることも出来た。過去を受け入れ、未来を見据える。決して容易くなくとも掌には後悔と共に決意と覚悟が刻まれていたから、踞るのに慣れた丸まった背を伸ばすことも厭わない。───でも、玖珂が幾ら玖珂自身と向き合おうと、此の状況じゃ無力だ。自分の心の闇に対抗出来るのは自分以外に他ならないと身を以て体感したからこそ渦巻く無力さに、傷が疼く。『何しに来たの』なんて、いつもなら反抗心を剥き出しに答えられるような問いにも唇を噤んでしまうのが情けない。僅かに首を横へと向けても彼を見ることは出来ない侭で、濃紺は只々宵闇を映すだけ。其れでも、ピアスの煌めく耳が彼の言葉を受け取り、一文字に結ばれた唇が反抗のように「………それでも、」と紡ぐ瞬間には、躊躇いのない真っ直ぐな視線が彼へと向けられる筈だ。)それでも、……僕は、嬉しかったよ。約束を覚えててくれたことも、名前を覚えててくれたことも、………僕の名前、呼んでくれた、ことも。得だとか、損だとか、そういうのは分からないけど……でも、僕にとっては、価値のあることだった、……と、思う。(段々と歯切れの悪くなっていく言葉と共に、視線は再び他所へと落ちる。感情を言葉にするのは難しい。滅多に口に出さないことなら、尚更だ。然し此の状況だったからこそ、多少躊躇いがちであれ、存外素直に言葉に出来ただろう。其れなのに、───其れなのに。堪らなく悲しいことを彼が言うから反射的に肩が震えて、表情が歪んだ。踏み締めた地面が、鳴る。其れを軸として彼の方を振り返ると、揺れる双眸で彼を睨むように見上げた。きっと、迫力も威圧感もないけれど。)僕のことは助けたくせに、自分のことは助けなくていいなんて、身勝手だ。わがまま。ばか。僕は、そんなの許さない。許したくない。だから、………一人でしか生きれないとか、そんなこと、言うな。(彼にどんな事情があるのかなんて玖珂が知る由もない。でも、其れを放って背を向けて帰れる程に、単純な話でもない。優しい声で、優しい言葉を掛けることは難しく、優しさとは程遠い其れになってしまったけれど───其れが今の玖珂が紡げる、精一杯の言葉だった。)
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(衝撃と共に掴むものを失った指先はやけに虚しく、あーあと肩を竦め割り込んで来た存在を忌々しげに見詰めた。歪んだ口許が浮かべる出来損ないの笑みは、虚ろな瞳と相成ってまるで壊れた人形のようだ。くすくすと小さく吐息しながら目の前の光景を眺め続ける姿は傍観者に等しく、きれいな友情物語にもなり得そうな滑稽な舞台を見物して。やがて、純粋な感想を紡ぐのだ。)……まるでともだちみたいだなあ。(にたにたと浮かべる笑顔はそれを歓迎しているようでも、揶揄るようでもあった。お互いを慰め合い、肯定し、そうして傷を舐め合う馴れ合いをともだち以外の何と称そうか。愉しげに吊り上がった口端からは、弾む声が淡々と流れて行った。)あの時助けてやったから、ここまで情を持たれたのかなあ。でもさあ、そうやって無駄に懐いてくるやつのこと、おれは心から嫌悪してるんだよ。あの出来損ないの弟を見てるみたいで、反吐が出るからね。……おれがいつも心の中でなにを考えてるか、想像したことある?そんな守ってくれそうな、甘えても許してくれそうな言葉ばっかり吐いてさあ。助けてって言ったら、助けてくれるの?どうやって?――おまえにさあ、なにができるの?(くすくす。幾つもの問い掛けは責めるような響きではなく、単に“彼”の反応を引き出す為に紡がれたものだった。満足気に肩を震わせ笑いながら、焦点の合わぬ瞳を小さな彼へと向ける。ほんの些細な種明かしをするために、大仰なまでの身振り手振りを添えて。)児玉秀斗はさあ、欠陥品なんだよ。食べて寝て、人間らしいことはそれなりに出来ても、人と関係を作ることの出来ない生き物なんだ。……わかるかなあ。ともだちなんて出来たことがないし、作り方も知らなくてね。けど、どっちみちもうともだちなんて作れないんだよ。もし出来るとしたら、それはさ。――単なる、“依存対象”だよ。(――その言葉を彼に放った理由なんて、ただのひとつに決まっていた。)ね。助けてくれるの?それでもいいけど、一度でも手を離したらこいつ死ぬよ。こう見えておまえに執着しかけてるから、断ち切るなら今だと思うんだけどなあ。(提示した選択の答えがどちらになろうとも、影は笑みを深めるだろう。彼を殺すのが誰であろうと、それは些細な問題に違いないから。)
| …………。うーん。つらいけど嬉しくもあるし、そのままで。
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(――まっすぐと。向けられた視線に思わず目を逸らしそうになったのは、汚い己の心中を見透かされた気がしたからだ。身に余るきれいな言の葉は聞くに耐えなくて、結局逃げるように彼から視線を外してしまうけれど、耳に残ったその言葉は何度も心の中で繰り返してしまう。救えて良かったと、あの時は確かにそう感じていた。己にも誰かを救う事が出来たのだと、決して小さくない優越すら芽生えていた。だからきっと、そんな己にこんなにも優しい言葉は似合わない。 振り返った彼の歪んだ表情を見て、真剣に紡がれた言葉を受けて。ほら、やっぱりと自分自身に絶望を覚えた。緩みかけた口許を引き締めて彼と向き合えば、少しだけ泣きそうに歪んだ笑みが浮かんだ。)……言うよ。おれは、一人じゃないとだめなんだ。(――嬉しかったのだ。怒りをぶつけてくれた事が、許したくないと言ってくれた事が。思い込みであっても、必要とされる事がこんなにも心地が良いだなんて、知らなかったから。けれど、だからこそ、彼にだけは縋ってはならないと思い知らされた。沈黙を保っていた影が呟く。まるでともだちのようだと。気味の悪い笑みと共に影が囁く。そいつに縋りたいんだろうと。影が目の前の彼と視線を合わす。いやな予感がした。けれども何か言葉を発する前に、影はすべてを語り出す。――依存。恐らく彼に助けを求めた瞬間から、己はそれに落ちてしまうだろう。だから、自ら手を伸ばすことを許す訳には行かなかった。このまま死んでしまう方が、きっと自分にはお似合いだから。)おれさ、……クガメグムと、ともだちになりたかったよ。けど、無理なんだろうな。縋ることしか、出来そうにないから。(諦めを覚えた笑みは少しだけ穏やかで、彼自身をも拒むようなものだった。全部忘れて、そのまま踵を返してくれれば良い。それだけが、望みだった。)
| 何、その沈黙。………結局どっちなのかわかんないけど、……まあ、べつにいっか。
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(『言うな』と言っても、彼は言う。だからきっと『行くな』と言っても、彼は行くのだろう。───数ヶ月前、初めて彼と面と向かって言葉を交わした時。彼に口では勝てないと心底思った。いつだって脱力感に溢れた全ては玖珂の想像を一回り、二回りと難なく飛び越えてしまう。苦手意識の塊は時が経つに連れて一欠片ずつ崩れ、違う感情を構築して行った。だからこそ、彼の泣きそうな笑みに苛立ちが募る。「じゃあどうして、そんな泣きそうに笑うんだよ」と、少し掠れた声で紡ぐ玖珂こそ泣きそうだというのに、雄猫が威嚇するように睨みつける双眸は強気な侭だ。唇を噛み締めると、血が滲む。 そうして、沈黙が続いた後。彼と同じ姿を、声をした影が語り出す。ゆっくり、ゆっくり。其れは、嬲るように。改めて彼の影と対峙すると矢張り其の不気味に満ちた笑いに緊張で喉が鳴るけれど、不思議と、心は落ち着いていられた。暗闇に同化しそうな影を見据えていた双眸が、再び彼に視線を戻すと───語られる言葉と其の笑みは、如何にも物悲しく。風の吹く音さえ煩わしく思う静寂で、漸く開いた唇は言葉を落とす。)何で、最初から無理だって決めつけるんだよ。(目を逸らしたのは一瞬、再び彼と視線搗ち合う頃には、丸い輪郭描く双眸が僅かに寂しさを映し乍ら彼を睨むだろう。口じゃ彼に敵わない。また躱されるかもしれない。でも、伝えなければ意味はない。言葉巧みに操る技量なんて持ち合わせなくとも、今の玖珂に其れを考える余裕なんて一匙もなかった。)………べつに、縋ればいいだろ。僕は、君のことが嫌だと思ったら「嫌だ」って言うし、君が間違ってると思ったら「間違ってる」って言うさ。だから言うよ。今の君は嫌だし、間違ってる。………でも、僕は君を見捨てない。最後まで付き合うよ。……それでも、一人じゃないと駄目だって言うの?(彼を真っ直ぐに見上げて伝えた言葉は、模範解答には程遠い捻くれたものだったろう。『好きなだけ縋れば良い、僕が受け止めてやる』そんな砂糖水のように甘たるく微温湯のように生温い台詞は、玖珂には似合わない。彼にも似合わない。真向勝負で挑んだ結果が良いものであるよう、人知れず握り締めた掌に小さな祈りを捧げた。)
| ……最近さ。おまえの雰囲気、やわらかくなった気がする。
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(泣きそうなのはどっちだと、笑って言うことが出来ればどれだけ良かっただろう。本当に言いたい事を伝える事すらせず、それなのに嘘を隠し通す事も出来ない自身はとても滑稽で、歯痒くて仕方がない。けれど、どうしようもなかったのだ。――“いいひと”だと、あの日抱いた彼への印象は今でも変わりなかった。強気な猫目で人を威嚇するくせに、少しでも不意を突けば素直な優しい性格が見え隠れして。どちらかと言えばお人好しにすら感じるその優しさはひどくあたたかくて、心地が良いものだった。まるで好きな玩具に焦がれた子供がそれを独占したがるかのように、今まで焦がれに焦がれた“友達”という存在に彼を据え置き、幼稚染みた独占欲と共に彼に執着心をぶつけてしまえば――きっとすぐにでも関係が壊れてしまうだろう。彼が仮にそれを受け入れたとしても、執着の重さで彼を壊してしまうのが怖かった。彼に害を与える前に、自分が消えてしまう方が余程良い筈なのに。――睨むような視線にも怯むことなく、諦めを覚えた心は希望など疾うに捨てていた、つもりだった。息を呑んだその瞬間。ぱちりとゆっくり瞬いて、言葉を失ったかのように呆然と立ち竦み、思考はまるで停止していた。)は……、(“縋ればいいだろ”。あまりに安易に紡がれたそれは、今の頭ではとても理解出来なくて。そのまま踵を返せば良かったのに。自身を頭ごなしに否定して、そのまま去って行けば良かったのに。くしゃりと前髪を掴んで、視線は一度足元へと落ちる。長い長い溜息を、吐き出した末に。)……なんだそれ。………………なんだよ、それ。(嫌だと思えば嫌だと言う。間違ってると思えば間違ってると言う。それでも最後まで見捨てないのだと、彼は堂々と告げたのだ。――なんだか、ひどくばからしくて。気が付けば、笑っていた。)それさ。適当に付き合うよりも、ずっと面倒だろ。……自分で重荷背負って、どーすんの。(同時に、おそらく泣いていた。莫迦なのは自分なのか。それともお人好しが過ぎる彼なのか。分からないけれど、胸に疼いた感情の名前も分からないけれど。一方的に縋る関係ではなく、そこに彼の意志も加わった、まるで“友達”と呼べる関係を許してくれたようで――救われた気が、した。)……ほんとうに、縋りたくなる気持ちも、あったけどさ。多分、……ともだちなんか出来るはず無いって、決めつけてたんだ。全部過去とか環境のせいにして、努力も何もしないでさ。焦がれてるくせに自分で遠ざけて、だから特別な存在なんて出来やしないのに、やっぱりなって諦めて。……それでも、肯定してくれる人が、ほしかったのかな。(そっと瞳を伏せる影が見える。俯いたそれは肯定の証なのだろうか。――両親からの愛を失って、ひとりぼっちの心で生きていく中で、欲しかったものはきっと人との繋がりだった。手を伸ばせば届いたであろうそれに触れる勇気もなく、そんな自身を正当化した影を素直に認めれば、もう迷うことは何もない。乾いた涙は瞳に赤を残したものの、改めて彼と向き合った時には普段の調子を取り戻していた筈だ。)ちなみにさ。……いいの?最後まで付き合ってもらって。(それは先程の言葉を掘り返すようなものだけれど。自身の過去を、今ならすべて、話せる気がしたのだ。)
| ………どうだろうね。自分じゃ分からない。………君に影響されたのかも。
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(十六年と少し、生きてきた時間はそう長くない。其れなのに、人との距離の測り方なんて忘れてしまった。否、元々知らなかったのかもしれない。未だ純真な少年だった其の頃から些か遠慮のない物言いは高く高く聳える壁のように人を遠ざけ、家庭環境も相俟った卑屈じみて捻くれた性格では閉鎖空間でコミュニティを築くことも困難だった。決して当り障りなく傍から見て“普通の少年”らしい生活を送れていたとしても、決して表面化しない亀裂があっただろう。───だから、分からなかった。彼と出会って、言葉を交わして。そうして少しずつ進む中で、何処まで踏み込んで良いのか分かる筈がなかった。今だって何て言葉を掛けるのが正解か不正解かも分からず、只々歯に衣着せぬ言葉が口から飛び出てしまうばかり。気の利いた言葉なんて言えやしない。其れでも彼を確りと見据えて『見捨てない』と言い放つ玖珂の双眸に迷いなく、静かな瞬きと呼吸音と共に彼の反応を窺った。彼が息を吐き出して、笑って、───泣いて。見たことのない其の姿は、大きな身体とは正反対にちっぽけに見えた。)確かに、面倒かもね。でも適当に付き合うよりはずっとマシ。……君のこと背負うくらい、どうってことないよ。(漸く口許に小さな笑みを浮かべて、静かに泣く彼に向け言葉を放つ。必要最低限の適当な人間関係に比べたら、確かに面倒なものかもしれない。でも、人間関係なんてそういうものだろう。面倒でも何でもそうして続いていくのが縁だなんて、玖珂が言ったところで説得力には大きく欠けていそうだから言わないけれど。彼の吐露を聞いて、また其れに良い言葉を返すことなんて出来ないだろう。でも、思う侭に言葉を紡ぐことだけは出来るから、唇を開くことは止めない。)………僕は、さ。分かったような口を聞くには、まだ君のことを知らなすぎる。だから、君のことを全部分かってるなんて、簡単には言えない。でも、……それでも、僕が見てきた君は嘘じゃないと思うから。君が僕を見ててくれたみたいに、……僕も、君を見てるから。(唇が紡いだのは、一つの肯定。其れは彼への感謝も含まれていた。あの満月の夜、闇に飲み込まれる寸前だった玖珂を助けたのは、彼だ。彼が自分を見てくれていた一つの肯定が、玖珂を救った。だから、玖珂も彼を肯定する。君を見ている人は居ると、其れを伝える為に。普段はちっとも似ていないのに、今日は何だか似た者同士のようにも思う。再び彼と向き合い、高い位置にある目を見詰める。先程のように睨み付けるような目じゃなく、少しの穏やかさを宿して。)………付き合う気がなかったら、最初から言わない。さっさと帰ってる。……だから、好きなだけ付き合うよ。君の話。(最終確認のように問われた其れに返すのは、相変わらず素直じゃない余計な一言がプラスされた言葉。長くても、拙くても、好きなだけ付き合おう。「ちゃんと、聞いてるから」と、年相応の少年のように笑って伝えることも忘れずに。)
| おれに?……うーん。ゆるくなりすぎたら矯正するね。まかせろ。
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(今まで見ない振りを続けて来た自分と向き合うのはひどく難しくて、そんな苦悩に立ち向かうより、諦めてしまう方が余程簡単だった。影の出現を見越しておきながらも端からそれに抗う気持ちなど生まれずに、恐らく彼が来てくれなければ、苦しむ暇などないほどに呆気無く自分を失っていただろう。それでも彼は来てくれた。影の言葉を聞いて、諦めに満ちた自身の言葉すら聞いておきながら、縋れば良いと手を差し伸べてくれたのだ。――こんなにも小柄な体の何処に、そこまでの強さが秘められているのだろう。他でもない自分の弱さを痛いほどに思い知らされながら、それでも支えてくれる彼は、どこまでも眩しかった。)……背負うまでもなく、潰れそうに見えるのに。ぜったい潰れないんだろうな、クガメグムなら。(頼もしい彼の言葉は少しだけ嘘みたいで、だけれど、彼が言うのならば本当に“どうってことない”のだろう。冗談めかした口振りで笑みを零しながら、彼に対する信頼は確かに胸に存在していた。まともな人付き合いなんて出来やしなかった過去を振り返れば、これから重荷を背負わせてしまうのは確実だろうけれど。自身が彼を肯定したように、彼も自身を受け入れ、そのままの自分を見ていてくれると言うのなら。あとは勇気を出して、少しずつでも歩み出す事を始めてゆけば――きっと今より、人間らしく生きていく事が出来るのだろう。 ほんとうは、まだ少し怖くもあるけれど。誰よりも信頼の置ける彼の前でなら、過去にも向かい合うことが出来る気がしていた。穏やかな彼の言葉にそっと頷いて、緊張を解くように軽く息を吐いて。幼い頃の思い出話は、静かに幕を上げた。)……ほんとに、おれが小さな頃。お父さんもお母さんも優しくて、欲しいものは何でも手に入って、すごく満たされた日々を送ってたんだ。 でも、弟が生まれた途端、二人ともおれには見向きもしなくなってさ。空気みたいに扱われてた。食事も別々で、一緒にどこかへ行くこともなくて。その代わりにお金だけは十分に与えられてたから、好きなことはいっぱいしたよ。両親と弟にさえ干渉しなければ、どんな我儘だって許してもらえた。……その我儘を叶えるのも、家族じゃなくて家政婦だったけどな。(幾度も夢に見たその過去こそ、全ての元凶だと思い込みたかった。寂しくて仕方がなかったのだと、そう口にしない代わりに表情にはその文字が滲んでいた事だろう。)どれくらいそんな日々が続いたかは覚えてないけど、暫くしたら、両親はまたおれを気に掛けてくれるようになった。……だけど、おれがだめだったんだ。その頃には一人で過ごすことが当然になってたから、今度は愛情の受け入れ方が分からなくなってて。何度も二人を拒絶した。そのうち、両親はおれに関わらなくなったよ。代わりに弟だけ愛するようになった。おれは人との関わり方も、接し方も、その頃には何もわからなくなってた。……一人で過ごすことしか出来なかったんだ。(地に落ちた視線は何を見詰めるでもなく、拾い上げた過去を辿るように揺れる。懐かしさと寂しさが入り混じったような、思い出だ。)弟はどこに行っても人気者で、……勉強も運動も苦手だったけど、色んな人に愛されてた。成績が良くても人と関わることの出来ないおれとはまるで正反対だったから、弟を知るひとにはよく噂されてたよ。おまえの兄はどこかおかしいんじゃないかって。そういう環境が煩わしくて、高校は実家から離れた所に進学した。一人暮らしを始めて、弟の真似をして振る舞えば、誰も自分を知らないこの場所では友達もできるんじゃないかって、思ったけど。……無理だった。話し掛けて、その場ではなんとなく仲良く出来ても。名前はすぐに抜けて行くし、人の顔だってまともに覚えられなくて。だから諦めたんだ。他人と人間関係を結ぶことを。(自分は欠陥品なのだと自覚して、弟の知り合いが口にしていた言葉は正しかったのだと思い知らされたのは、その頃だった。同時にそれを全て過去のせいだと思い込んだ。けれど、今なら否定出来る。自分がもう少し勇気を持っていれば、幾らでも道は拓けたのだろうと。)……クガメグムの名前を覚えられたのは、約束があったからだと思う。覚えて欲しいって言われたみたいで、嬉しかったから。……結局、覚えられないってことはなかったんだ。その努力をしなかっただけ。(自嘲気味に力なく笑うけれど、もうそれを嘆くだけの自分ではない。改めて彼の瞳を見据えたならば、そこには前向きな意志が宿っていた事だろう。)だから。これから、……少しずつでも、努力をしていこうかなって、思った。……でも、その前に。ちゃんとクガメグムと、ともだちとして過ごせるような関係になりたい。――そういうのは、“嫌”?(先程の彼の言葉を引き出すように、新たに出した提案は図々しいものだろうけれど。浮かんだ表情はやけに晴れ晴れしくて、もう踏み出すことへの恐れを抱いてはいなかった。)
| ………児玉に矯正されるレベルって相当だろ。自分で気を付けるよ。
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(此の身体は決して丈夫には出来ていない。背中だって、彼のように大きくはない。此間まで膝を抱えて踞っていた子供の、何かを背負うには頼りない背中。嘗ては劣等感に押し潰されそうになった其の背でも、誰かの為に───彼の為に、強く支えることが出来る背でありたいと思った。鏡を覗き込むように自分自身と向き合うことを知らなかった玖珂なら『誰かを守る』なんて大それたこと言えやしないだろう。でも今なら、兄が『守る』と言ってくれた其の言葉の意味や覚悟を理解出来そうだから。)……前の僕だったら、背負うことなんて考えなかった。背負っても、潰れてた。………でも、……君のおかげで前を向けたから。ちょっとだけ、強くなれたから。(真っ直ぐと見据えた彼の姿。其の姿に、何れだけの勇気を貰っただろうか。玖珂は弱い人間だ。逃げることしか、縋ることしか知らない人間。其れを箱に詰め込んで蓋をして、見て見ぬ振りをすれば如何にでもなると思っていた。然し、潜んでいた闇を目の当たりにして、如何にもならないことを知った。影と向き合い、受け入れなきゃいけない。目を向けることすら勇気が必要になる其れに手を差し伸べてくれたのは、間違いなく彼だった。───淡々と続く彼の告白。其れについ重ねてしまうのは、いつかの自分だ。似ていないのに、似ている。家庭環境だって、抱えた悩みだって、玖珂と彼は其々違うものを持っているだろうけれど。でも、似ていた。自分を見て欲しいと思う、ほんの小さな願いごと。兄だとか、弟だとか、そうした血縁を切り離した一人の人間として生きることの難しさを知る。一つ、また一つと、彼のことを聞く。知ることのなかった彼の今までを、抱えたものを。其れ等全てを引っ括めて受け入れて前に進むことはきっととても難しいけれど───“努力していこう”と意志を持った言葉を彼が言えたなら、彼は前に進めるに違いない。けれど、“ともだち”という言葉には、何となく気恥ずかしさが隠せずに目を逸らしてしまう。唇を閉じたり、開いたりを何度か繰り返し乍ら、漸く躊躇いがちに紡がれる言葉とは、)……僕は、……君のことは今でもよく分からないし、調子は狂うし、正直どうやって付き合って良いか分からないときも、ある。でも、……嫌じゃないんだ、そういうの。調子が狂うって分かってるのに、……君と話すのが楽しいって、もっと話したいって、思ってる自分がいる。 ……僕はもう、友達の作り方や友達のなり方なんて忘れたし、そもそも知ってるのかも分からない。だけど、───……君と友達として過ごしたいって、思う。“嫌”じゃないかって聞きたいのは、僕の方だよ。(ちっとも上手くない、“友達”の誘い。随分と長く友達なんてものとは縁遠く、だからこそ不格好なものになってしまったけれど。其の何れも、嘘は含まれていない。「僕は、……“嫌”じゃない、から」と逸らした視線を彼に戻し乍ら呟き、再び視線は外方へと。何れだけ互いに近付いても器用には生きられず、玖珂らしさの抜けぬ物言いとなってしまうけれど、其れもまた一興か。)
| おれもおまえに影響されたらどうなるんだろ。しっかりしそう?
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(長く拙い話であったけれど、それでも彼は言葉の通り最後まで付き合ってくれた。今まで心の奥に封じ込めていたものを吐き出し、またそれを受け止めてくれる人が居てくれるというのは、想像以上に幸福なものだった。彼が苦しんでいた時、自身はそれを支えようとしたけれど――もしかすれば本当の意味で彼を支えることは、出来て居なかったやもしれない。一度好意を抱いた彼を肯定することはあの時の児玉にはひどく容易かったけれど、その裏で彼が抱えていたであろう辛さを本当に受け止められていたかと言えば、答えに詰まるのも致し方ないことだ。自分自身と向き合うことがこんなにも苦しい事だったなんて、知らなかったから。だからこそ、その苦しみを乗り越えた上で、縋ってもいい、最後まで付き合うと口にしてくれた彼は、心の底から、頼もしく思えたのだ。ともだちとしてこれからを過ごして行きたいと、あまりに率直に告げた言葉を彼が受け入れてくれるかは分からなかった。もし断られたとしても、いずれそうした関係を結べるように頑張ってゆけばいいのだと、そう前向きな気持ちを抱いてはいたのだけれど。すぐには返事を下さず、どこか躊躇った様子の彼を不思議そうに見据える児玉は、やがて紡がれた言葉に瞠目する事となった。――そういえば、そうだった。彼も特別社交的と言う訳ではないし、どちらかと言えば自身とすこしだけ似た境遇で生きて来たのだから、その不器用な言い分は尤もだった。それが何だか微笑ましくて、思わず零れた笑みを彼は怒るだろうか。それでも、きっと今更だ。友達と呼ぶことの出来なかった今までだって、そんな遣り取りは幾度も重ねて来たのだから。)……“嫌”じゃないよ。むしろ、最初のともだちはクガメグムがいい。じゃあ、お互い嫌じゃないってことで、うん。…………ともだち、だな。(僅かに照れ臭い気持ちが生じて、それを隠せぬままにはにかむけれど。恐らく彼も同じくらいには照れているだろうと勝手に解釈して、最後に紡いだ言葉には、確かな重みを感じた。初めてのともだちが出来た感想は、嬉しいようで少し怖くもあって、何だか落ち着かない。けれどもそこに嫌悪感はひとしずくも混ざっておらず、やはり楽しみの方がうんと大きかった。)っていっても、これから改めて何かが変わるわけでもないだろうけど。――あんなにも焦がれてたわりに、具体的にはよくわかんないからなあ。なんだろうな、ともだちって。学校で一緒にお昼でも食べてみる?(クラスの異なる彼が相手となればそれは尚更新鮮な気がして、提案をしただけにも関わらず児玉はしっかり乗り気であった。友達の定義は未だに掴めていないけれど、この二人なら手掴みで少しずつ知っていくのが丁度良いだろう。急ぐ必要も焦る必要もどこにもないのだから、これから、少しずつでも。ひとと過ごす当たり前の日々を、心に刻んでいこうと思った。)……かえろっか。一緒に。…………ありがとな、メグム。(感謝の意を込めて、目を細めながら軽く彼の頭へ手を乗せて。その名を呼んだ事がその場限りの気紛れになるか否かは彼の反応次第として、くしゃりと一撫ぜ後にそっと手を離せば、寮へ向かって歩き出すのだろう。きっとこれからが、すべてのはじまりとなるから。随分と久し振りに抱けた希望に、そっと心があたたまるのを感じていた。)
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10月4日 満月の夜 | |||||
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(まるで歪んだ月光を忌避するように宵闇へ紛れる漆黒の傘を広げ不完全な微笑を纏う女を射る金色の眼差しは解放の喜びに満ちていた。待ち望んでいたこの日。理解していたはずのこの日。知っていたのに知らないふりをした、私。表裏一体の彼女は確かに全て受け入れてると嘯くのに一歩、また一歩と距離を詰める度に剥がれ落ちては其れでも穏やかな色彩を繕う姿が愚かで、滑稽で、ああなんて、――煩わしい。)……本物も知らない成り損ないの癖に、母親の真似事はそんなに楽しい?(下らない強がりを嘲り釣り上げた口唇から、ゆっくりと吐いた致死性の毒は彼女の瞳に波紋を立てる。共有す記憶に導かれ振り上げた掌で頬を張れば、動揺を来した体は容易く足元へと転がって。其れでも遠ざかった傘へと身を捩り、手を伸ばす姿に深めた笑みは柔らかく慈愛に満ち、差し伸べた指先は寸での所で傘を弾き飛ばす。見開かれた眼が此の身を映さず彷徨う姿が余りにも寂しくて、寂しくて。ヒールを腹部へそっと沈めれば苛烈さ滲ませ踏み躙る其の先端が衣服の下、暴き晒すは引き攣れた火傷の痕。途端、女が抱くなけなしの矜持は呆気なく崩れ去り、悲哀と苦痛に満ちた声で繰り返す拒絶が静寂に積り、)辛いわよね、苦しいわよね…だったらさっさと言いなさいよ。縋る相手ならちゃぁんと、わかっているでしょう?その為に綺麗な自分を取り繕って――……あまぁい言葉を吐いたんだから。(長い黒髪へ伸ばす手を拒絶する力は彼女に無い。手にした一房を優しく梳けば、震える弱い身体に瞳を細め相反する強い力にて無造作に髪を引き、其の上体を手繰り寄せて、)出来ないの?言えないの?だったら私がその名前、今すぐ教えてあげるわよ?……だって私は君、君の気持ちはぜーんぶ私が預かってる。ねえ、 、…。(紅を引いた唇で甘く其の名を象れば目を閉ざした彼女が横に振る首筋をそっと撫ぜる指先は柔らかく、)……ふふっ、仕方の無い子。だったら、…今度こそ一緒に還りましょう?大丈夫よ。あの子はずっと、……待ってるわ。(反抗の名残さえ潰え、力無く落ちた両腕を横目に、晒された其れを締め上げる指先は次第に力を増して行く。宛ら、女の身体を弄ぶように、) | |||||
……夢なら今すぐ覚めてくれないかしら。 | |||||
(人生で最も長く、其れでいて驚くほど穏やかな心地を手にしたあの満月の夜から確かに其の声は自分の元へ届いていた。いつか襲い来る試練、認めねばならない現実、知らぬ振りをし続けた弱く脆い自分の姿。――だからこそ人目を避け、棺さえ存在せぬ路地裏の更に奥での邂逅に覚悟を固めた筈なのに。あの時からずっと手放した事の無い傘を持つ手は影の出現に震えを来し募る恐怖が心を埋めて、最後の虚勢を着実に剥がしていく。)真似事じゃ、ない……私は今もあの子の、……。(記憶に強く刻まれた姿と影が重なれば振り下ろされる手を避ける術等持ちはせず、響く乾いた音を倒れ伏す此の身が掻き消した。唯一残った支えさえ跳ね除けられ、代わって露わとなる爛れた肌は女の抱く醜さにも似て。)ぃや、…いや、や、め……――っ…!!(取り繕った自分、捧げた言葉、手を伸ばした――其の相手。脳裏に浮かぶ彼が、あの柔らかな姿が確かな輪郭を持つほどに徳永の心は悲鳴を上げる。身体に及ぼされる痛みなど最早届かぬず、乱れた胸中は金の瞳に囚われて自分と同じ唇が綴る其の名前に揺れた覚悟は少しずつ体裁保てず泡沫と化し、)……がう、ちがうわ。わたしは、彼を、そんな……。(信じてる、信じて欲しい、だけど――こんな自分、信じて貰う価値はない。抱え続けた罪悪感は破裂し、分不相応な願望の片鱗を女の嗤い声が嘲った。「ぜぇんぶ知られたら、どうなるかしら?」弧を描く唇へ感情を乗せた彼に、少しでも己が言葉を信じてくれた彼にこんな姿をいつか知られるぐらいなら、いっそ――。首を擡げた望みを掬い上げるように、妖しく輝く月光を宿した眼に誘われ女の意識は永劫の深淵を密やかに願う。) | |||||
…寮に帰ったら、夢を見る間もないくらいぐっすり眠りましょう。 | |||||
(あの夜から一ヶ月。予感に近い感覚は在った。なればこそ。収集された作戦室に集まった顔ぶれに眉を顰めたのは極自然な行為だったろう。自ずと導き出された結論に「徳永さんは何処に?」問う声は幾らか厳しく、探索役を一手に担う少女を責めるような色すら伴った。けれども其の不満は現状を予測出来なかった自分自身にも向かう物で、吐いた息は苛立ち混じりに。そうして特定を待つ僅かな間。足りぬ顔は一つでは無かったのに、只一人だけを求めた相も変わらず薄情な自身に気が付けば、苦笑漏らさざるを得なかった。然れど場所が示されれば同時、足は動き出す。―自身が何故彼女の名を呼んだのか。心を砕いてくれた言葉に応える為か、単なる義理か、感情の判別に疎過ぎる此の男には分からなかったけれど。)……徳永さん、(駆けて、駆けて。漸く見付けた二つの影を呼ぶ声は静かに其の空間を裂く。武器握り締める力強めれば、一気に彼女らとの距離詰めて。月光宿す彼女の分身の顎下、メイスを添えた。)退いて下さい。貴女を傷つけるのは本意じゃあない。…でも。今から5を数える内に退かなければその顎を砕きます。(其の姿が今も自身の内に在る其れと同種だと理解しているからこその対応であった。「5、4、3――…」カウントする間に、彼女の無事を確認する為に視線を下方へと滑らせれば、白い肌に似合わぬ傷跡に僅かに目を開くも、一先ずは影への対処が先だと鋭い眼光携え視線を上方へ戻し、其れを見据えた。無事退いてくれたのならば、渦巻く感情を呑み込みつつ「大丈夫ですか」と静かな声音で問うだろう。然し、其の手が彼女の首に纏わり着いた侭であれば、右手は情け容赦なく渾身の力を込めて振り上げられる筈で。) | |||||
そうね、上手く眠りに落ちれたら良いんだけれど。…ふふ、ダメね。自信がないわ。 | |||||
(緩やかに終焉を手繰る指先は呼気では無く思考を奪い、眩い月の光を残して視界を白く染め上げた。然し、一番忘れてしまいたい筈の姿は遠く霞む世界へ身を投じた今も鮮やかな色彩を宿した侭。其れはまるで母として生きる為に棄てた筈の自分を突き付けるようで、溢れ出た自己嫌悪に碧い瞳は仄暗い水底と化し心は深い闇へと閉じ籠る。それなのに。たった一度、此の名を紡いだ静謐な声音は其れだけで消失を望んだ意識を強く揺さ振った。裁きにも似た宣告へ従う影は余りにも従順で、突如齎された解放に支えを失った上体は冷たい地面へ身を委ね、)……なにを、しにきたの。……――帰りなさい。…賢い君なら……わかるでしょう。(茫とした眼に映る姿は紛れも無く求め続けた青年で、込み上げる衝動に任せ唇に乗せた其の名を必死の思いで飲み干した。いっそ穢い自分を知られる前に此の距離感を壊せたなら――酷く澄んだ思考に従い代わって青年へ突き付ける初めての拒絶は平素理屈を重んずる彼の反論さえ封じるように。ただ鮮明になった視界へ彼の姿が過る度。其の声が耳朶に響く度。彼へ言葉を紡ぐ度、冷え切っていた双眸へは押え切れぬ深い思慕がちらついて。過る悔恨から目を逸らし務めて装ういっそ冷淡なまでに落ち着き払った様相を保たんと、空いた片手にて双眸を秘し彼を遮断して巡らす思考は更なる刃を模索する。そうでもしないと自分さえ欺けなくなった無様な女へ――酷く楽しげに、影が笑う。無意味な仮面を、引き剥がすために。「帰りなさい?自分がただ、知られたくないだけの癖に……、」)…――っ、い、いや。いやよ、…だめ、言わないで……見ないで、聞かないでっ!!(影の思惑を悟り一瞬にして瓦解した表情の下からは絶望が過り半身の告白を遮らんと必死の思いで否定した。願わくばこんな姿、――彼だけには見られたく無かった。) | |||||
――― | |||||
まあ、加賀美君。…ほぉら良かったじゃない、喜びなさいよ。…ちゃんと見返り手に入ったわよ?(青年の登場を喜悦滲ませ歓迎したのは紛れもない影だった。半身から数多の感情を押し付けられてきた影は誰よりも知っていた。彼と言葉を交わす度、取り繕う端々から滲む甘さの意味を。刹那浮かべる其の表情が、何より女が自らが抱く中で一等嫌悪す感情である事を。故に、眼下にメイスを捉えた影はいとも容易く手を離す。目前の女が棄てた仮面を身に纏い柔らかな笑みに紅を歪め、くすくすと肩を揺らしながら伸びる指先は武器を一撫でした後、青年の頬へと静かに伸びた。)優しいのね、加賀美君。……でもダメよ、悪い女に騙されちゃ。(月の如き禍々しき眼差しと揺れ動く碧眼。互いの存在示す其の瞳が無ければまるで中身が入れ換わった様に振る舞い続ける影は酷く楽しげに寄せては返す波の如く、伸ばした手を静かに引く。――女が執心し、甘い言葉を紡いだ相手、そんな資格は無いと知りながら、心に触れたいと願った相手。それなのに、今尚自分を取り繕う女に告げる宣告はたっぷりと時間を掛けて。愛おしげに青年を見据えた後、弱き姿を見降ろす瞳は殺意にも似た嫌悪を孕んだ。)ねぇ、加賀美君。私は君に優しく出来た?ちゃんとその手を取れていた?全部、君を受け入れられていた?…上手に出来てたならそれで良いの、だって全ては私の自己満足。見返りなんて必要ないから、…――そんな話、嘘に決まっているじゃない。…本当は誰かに縋りたい、甘えたい、……愛されたい。そんな資格なんて無い癖に、いつだって見返りばかり求めてる。綺麗な言葉で着飾って、誰かのためって微笑んで、…全部自分の為なのに嘘で固めて他人の心を欲しがってる…ねぇ、浅ましい女でしょう?……可哀想な加賀美君、君は一番の被害者だわ。…こんな女、放っておけばよかったのに。(澱み無く、並べ立てる言葉は常日頃から其の胸中に巣食っていた自己嫌悪の片鱗だった。それはまるで幼子のように、弱く醜い女のように。大人として、母としての生を願った女とはまるで矛盾した感情を然し否定できずただ茫然と首を静かに横へ振る。「嘘じゃ、…な、……」途絶えた半身の声は結局形にならず、愚かしさに一瞥をくれた影はただ青年へと穏やかな笑みを向けた。自らの正当性を、主張するように。) | |||||
…じゃあ、今夜は貴女が眠くなるまで話でもしましょうか。 | |||||
(解放された彼女を視界に捉えれば、安堵の息を一つ。呑んだ感情は其の侭消化するつもりであったのに、隠された激情は、然し耳朶に響いた彼女の宣告にて露になった。常の笑顔は遠く、先まで押し殺していた声音は静かながら明確な怒気孕む。)…分かりますよ、俺は馬鹿じゃあないですから。ここで帰れば貴女を喪う事くらい。…どうして、一人で抱え込もうとするんですか…。(根本的に身勝手な男は、事前に現状を打破する力を持ち得なかった自身にも無論腹を立ててはいたが、こう云った状況を選択した彼女に対しても同様の感情を抱いていた。加えて訴えかける奇妙な空虚感の正体は、やや弱った声音で零された其の言葉がより示そう。嗚呼、寂寞など生涯理解し得ない感情だと思っていたのに。続く言葉を紡ごうとした刹那、武器に触れる指が頬に伸び、―其の手は、其の言葉は、何時かの満月、隠遁された記憶を擽る。惑うように、其の手の主見詰め、其の声に耳を傾け、一瞬の間。弱弱しい声音が鼓膜震わせればゆるり、下方に投げる視線は、色の判別しづらい物であったろう。して、今一度視線を自身に笑み向ける彼女の影へと戻せば、)……普通の事じゃないですか。全部。何かに縋りたいと思うことも、甘えたいと感じることも、…愛されたいと願うことも。…それを願う資格のない人間が居るとは、俺は思えない。(先の感情的な様子とは打って変わって、真摯に言葉紡いだ。「それに、」と紡ぐ声は明瞭で、先よりも些か強く。)打算かどうかなんてどうだって良い。そんな物は一切関係のない事だ。俺が可哀想かどうかは俺が決める。勝手に被害者という役割を押し付けられたくはない。(明確な意思表示は、近頃は隠されていた男の悪癖でもあった。何処までも手前勝手な男は一方的に言葉を切れば、先月の彼女のように武器を地に置き、片膝着いて此処で漸く臥した彼女に寄り添う。彼女の視界を遮る白い腕を左手で力任せに持ち上げたのならば、其の碧眼に自身が映るよう覗き込む。)…嘘でも嬉しいと言ったでしょう?嘘だとしても、嘘ではなかったとしても、俺にとってはどちらでも構わない。…貴女は貴女だ。――それでは、足りませんか?(傲慢とも取れる物言いは、利己的な男の特性を現していた。細い腕握る手滑らせ、今度は彼女の掌を握る。右手は彼女の頬包み、逃がさないとばかり真直ぐに揺れる碧眼射抜く。――人間関係において不器用極める此の男は、自身の意思を乱暴に打つける事しか出来ないで居た。) | |||||
本当に、……いいの?でも、…少し困った事になるかもしれないわよ。 | |||||
ど、うして…君がそんな……(驚愕の滲む問いにも似た口振りはまるであの夜の彼を辿るように。まるで彼の変化を記すに似た其の音は心を揺さぶり、微か心へ喜悦の花を綻ばす。然し、其れは同時に己が世界の中心が彼と化した事実を女へ突き付ける事と相成って、矛盾と堂々巡りに塗れた思考はまたも自分への嫌悪感に収束する。――聞かれた、知られた、暴かれた。閉ざし切れぬ世界の端から感じ取る青年の眼差しに指先は小刻みな震えを来し、ただ、今すぐ消えてしまいたいと。刹那抱いた願いは、然し青年の前では存在さえ許されない。平然と影の言葉を解した其の肯定はまるで万人の中へ己が名も刻まれている錯覚を生みだした。はっきりとした否定は自らが抱く慕情は罪悪ではないと、許しを得た心地にさえ陥った。其れでも、自分を普通に含められず、理由を打ち明ける勇気も持たぬ女は青年の言葉を素直に受け入れる事が出来なくて。秘した相貌を歪め横に首振り再び示すは穏やかな、拒絶。だったのに。地に触れたメイスを皮切りに心の奥底まで無遠慮に踏み込む足取りに身を強張らせ、懸命に施す抵抗は青年の力の前ではまるで意味を為さず。力付くで此の身を開いた彼への恐怖に見舞われ瞑る事さえ適わぬ両眼は迫る漆黒――焦れ、求め、望むが故に遠ざけた眼差しを受け、芽生える情動は呼吸すら、奪い去る。)……――ずるいひと。(きっと彼が知る事はないだろう。頬を包む其の掌に覚える安堵の念を。其の唇が紡ぐ言の葉一つで心に満ちるぬくもりを。拙くも綴る自分本位で強引な姿さえ包み込みたいと願う女の胸中を。――此の身を縛る黒曜に囚われ、熱情を宿し潤んだ碧眼に滲む思慕の名を。満たされる程に疼痛を放ち、心を黒く染める嫌悪は未だ根深く此の身を蝕むが開けた視界の先、佇む影が静かに瞼を伏せ、)…ずっと気付いてたわ。誰かに縋って、甘えて、……また、愛して欲しいって思ってる自分がいることぐらい。……母親として生きて誰かを守りたくて、そのために選んだ手段に打算が含まれてた事だって。(ゆっくりと語る胸中は同時に受け入れたと信じていた記憶を呼び起こす。其れでも、)…口に出した今もやっぱり…望む事は許されないって、こんな想い抱えちゃいけないって…自分を疎ましく思うわ。でもね、……あの時感じた幸福も、私を受け止めてくれた君の思いを…無かった事にはしたくないから。……今なら彼女も私だって認められる。(歩み寄る影を見つめ、手を伸ばせば触れ合った指先が溶けあって、確かな温もりが胸中で花開いた。罪悪感は今も変わらない。自分だって好きにはなれない。其れでも、認めた事で何か変わる未来があるならば――)ありがとう、……加賀美君。(影へ伸ばした掌を彼の右手に重ね指先を絡めたなら頬寄せ、大切な其の名を囁き微笑みと感謝を捧げよう。やがて享受す温もりを胸に留め深呼吸を落とし、)あのね、加賀美君。君が私に、君の話をしてくれたように…私も、君に私の事を聞いて貰いたいの。……聞いてくれる?私の、…昔話。(他の誰でも無い青年を前に、指先は再びもしもの恐怖に小さく揺れる。けれど、黒曜を見つめる碧眼には先には無い強い決意の色が宿っていた。) | |||||
勿論、構いませんよ。……でも、困った事って何です? | |||||
(胸中満足す憤懣が身勝手極まりない物だと云う自覚は在った。然れど打つけずには居られぬ程の激情は、自らが最も厭うた物では無かったか。其の事実が僅かに冷静な脳裏に過るも、嫌悪は沸かず。寧ろ得心が行った。こう云う事だったのかと。何時かの友人が、少年が、少女が、激昂していたのは、こう云う気持ちからだったのだと。成程人間とは面倒だと、発話しながら理解していた。然し、初めて抱いた感情の処理等出来る程器用ではなく、動き出した身体を止める術等ない。―彼女が、此方を見ない事が嫌だった。帰れと云う宣告以降、両の瞳を塞いだ彼女に、何を伝えようとも響かない気がした。だからこその強硬手段に、罪悪感は無い。震えながら抵抗示す腕を掴む力は強く、其の掌からも、自身の存在を彼女に示すように。そうして。力尽くで覗いた碧眼に安堵を覚えたのは、最早本能的な物なのかもしれなかった。心の侭に言葉紡ぐ間中、捉えた碧離さずに。求めた答は得られずとも、耳朶に響く声に自然頬を緩ませ、)…俺、結構我儘なので。(と、紡ぐ声は笑み混じりの吐息と共に。――それでも、彼女の呟きが場に落ちれば笑みは鳴りを潜め、然し穏やかな表情で耳傾ける。言葉を挟まなかったのは、彼女の意思表示の邪魔をしたくはなかったが故に。然れど、掴む手も、頬に添える手も離す事はなく、依然として”此処に在るのだ”と云う主張を続けていた。彼女の影が彼女の中へと戻る様見れば、自然と落ちた息は、溜息と呼ぶには些か明るい色相を呈していた。して、此処まで言葉紡ぐ事無かったものの、礼の言葉が鼓膜揺らせば、)…俺は、お礼を言われるような事は何も。したい事をしただけですから。…でも、良かった。徳永さんが自分を諦めてしまわないで。(右手に重なる温もりに見せた笑みは、安堵の表情にも良く似ていた。一旦口を噤めばふっと吐息漏らして、彼女の指絡ませた侭、頬を親指の腹でゆるりと撫でる。慈しむような其の動きは、自覚した物ですらなく。そうして投げられた疑問符に、)…俺で良ければ、聞かせて下さい。俺ももっと、貴女の事を知りたいと思うから。(熱秘めながらも僅かに揺れる碧眼覗く黒々とした瞳は何処までも真っ直ぐに。何時かからは考えられない程、柔らかな表情にて紡ぐ意思は明確で。掌握る左手に、痛くない程度に力入れて、―自身の熱分けるように。此処に居るから、傍に居るから。そんな想いが、声に乗せずとも伝わるように。) | |||||
寝る間を惜しんででも君と話をしていたいから、…本末転倒だなー…って。 | |||||
(今日の彼は理解出来ない事だらけだ。拒絶すら意に介さぬとばかりの態度も、静けさの中で燃える激情。そんな彼の姿以上に自身の傍らに寄り添うような体温が今の自分には何よりも、怖かった。―他者へ数多の見返りを乞う女は其の実、対価無しに与えられる情を何よりも恐れている。矛盾した気質は影を受容した今も変わらぬ侭。然し、柔らかな彼の笑みは眼差しにも増して甘い衝動と化し女の思考を麻痺させて、)…我儘は私の方よ。今だってこんなに君に縋って、…此の心を満たせる存在は君以外、誰もいないって…実感してる。(零した言葉は残酷で数多の人間を裏切るに等しい。されど、彼の我儘を叶え得る人間は自分だけであって欲しいなんて。漸く返した肯定は喜びが滲むと同時に厭うた自分を体現したに過ぎず、矛盾した思考に瞳は揺れる。それでも、心にぽっかりと空いた寂寥さえ埋める彼の温もりが心地良く。今だけは彼と共に在りたいと、不埒な囁きに流される。)なら、覚えていてね。君が心の侭に生きる事で救われる人間が少なくとも一人此処にいるって。……私は君に救われてばかりよ、…ねえ、どうして?私はなにを、返せばいい?(優しい指先を甘受し心蕩ければ贖いもそこそこに表情は緩む。そんな自分を律するよう、首擡げた疑問を紡げば下がる眉は不安を伴った。――其の感情は揺るぎ無い彼の瞳を受けて尚、高まる。然し、与えられた熱から伝わる言葉無き想いは何より澄んでいて、指先の震えは何時しか止まっていた。)私の家ね、母子家庭なの。ただ、母は生まれつき身体が弱くて…小さな頃から毎日、母のいる病院へ通ったわ。母も、「私には小百合だけ」って言ってくれてとても、嬉しかった。…でも、ある時見てしまったの。母の病室で、……私の見た事無い幸せそうな笑顔を男の人に向ける、母の姿を。母にとっての一番は其の人で、私は代用品。おまけに其の人は私達を援助してくれていて…母の一番を取り戻す術なんて何処にも無かった。でもね、あの人がいない時は私が一番なんだって思うと嬉しくて、…私は母の傍にいた。(大人に成りたかった筈なのに小さな頃からまるで成長なんてしていない自分に苦笑を漏らし深い呼気を吐き出した。再び開く唇は躊躇いがちに、)やがて、私だけを愛してくれる人と出会ったわ。彼は少し年上の優しい人で、出会ってから毎日が幸せだった。それなのに、どうしてこんな私を愛してくれるのか全く理解出来なくて…そんな私の不安を彼は何度も埋めてくれたわ。…結局、私が彼を信じれた切欠は……彼の子を身籠った事だった。どうしようって思うより幸福の方が勝っていて、彼も、卒業したら結婚して、家族三人で、生きて行こうって、…けれど、ある時、訪ねて来た彼の母と少しもめて、…私は……あの子を、まもれなか、……(二年の歳月を掛け折り合いを付けた現実は言葉に成らず、彼の視線から思わず逃れ、彷徨う瞳は転がる傘を捉えた後、事件の証たる腹部の火傷痕を這い、)…母親みたいに生きて誰かの役に立てば贖罪になると思ったわ。見返りを求めず、人を守り、愛せば、きっと……それなのに、一度知ってしまった喜びを、忘れられなくて。…こんな私に愛される資格なんてないのに、あの子を裏切っているのに、…今だって、自分でも驚くぐらい……加賀美君のこと――。(彼に話すべきではなかったと、誰より自分が知っていた。其れでも、膨らむ慕情は結局言葉に成らなくて。彼の名を紡げば締め付けられる胸の痛みにはらはらと零れる涙に瞬けば、半端に唇を閉ざして穏やかに微笑んだ。自分勝手は紛れもない、女の方。絡めた指先を解けばそっと彼の黒髪を撫ぜた後、其の肩口を押して、)重たい話で、ごめんなさい。…君の好意に甘え過ぎたわね。 | |||||
…俺とはいつでも話せるんですから、今日くらいは寝る方を優先して下さい。 | |||||
…不思議だな。… 嬉しいです。こんな時に、不謹慎かもしれないけれど。(じわり、胸に染みるように広がる喜悦は現状思えば些か不適当かもしれなかったが、緩んだ口許まで現わになれば誤魔化しようもなかったろう。音に乗せれば余計に実感伴い、皮膚温度を上昇させるかのようだった。)まるで、俺みたいな事を言うんですね。…俺も貴女に貰ってばかりだと思っていました。今の今まで。と、云うよりも、今現在ですら何一つ返せていないと思っていますよ。…ならきっと、お互い様です。違いますか?(丁度一月前の真円が此方を見下ろす夜、其れは正に自身が発した問では無かったか。想定外の一致に笑み滲ませ語る言葉は、其れこそ先月の彼女に貰った物と同等だ。―彼女もまた、不安なのだと理解すればこそ、妙に安堵を覚えるのは。聖女のようだとすら感じた彼女も、根源こそ異なるものの自身と同じ疑問抱くのだと、奇妙な実感。―――そうして。彼女の唇が言葉刻み始めれば、静かに視線だけを注ぐ。壮絶な昔話に紡ぐ言葉持たず、然れど真摯に耳傾け、優しく握る指を、相槌代わりに握り直してみたりして。只声失った其の瞬間、温もり分けるように右手で頬撫で、左手は握る力一層強く。彼女の視線の先を追えば、僅かに伏せた瞼は、何を想っての事だったか。そうして唐突に出た自身の名に、思わず瞼上げ、)…俺のこと?(其の侭反芻するも、溢れる雫に思わず目見開き、頬を撫でる其の手で目元から溢れる涙拭う。然し、続いた言葉に閉口し瞬きを一つ。肩口押した手を思わず掴んだのは、反射的な。)…どうして。(漏れた声は、何処と無く弱く。然れど続く声持たぬ男が再び情動に身を任せ其の細い手首掴む力は、無理矢理其の視界開けた時と同じに強い。)…俺は、こういった事を聞いても上手い言葉を返せる性質ではないし、…頼りないかもしれないけれど。…どうして。どうして、そこで、退くんですか。どうして、…俺から、逃げて行こうとするんです?(落ちた言葉は、作戦室に彼女の顔が無かった際から燻っていた物だったと、発話して初めて気がついた。―近付いたと思った。其の瞬間、遠退かる。涙流す女性に対しての態度としては不適切この上無い事は理解しながらも、溢れた感情を隠す術も知らず。嗚呼でも、知っていたところでそんな余力等、きっとなかった。)…甘えが過ぎる事だって、確かにある。それでも、少なくとも今は。俺は徳永さんに甘えて欲しいと思ってる。だから、俺を。……拒まないでくれませんか。(形になってしまった願いは何処までも身勝手で。彼女の過去鑑みれば酷く残酷なものかもしれなかった。―徹底した利己主義の元を歩いて来た男の願いは傲慢で、無償の受容などとは程遠い。なればこそ男は苦しげに顔歪め、我儘に自身の意思だけを彼女へと投げる。) | |||||
……はい、わかりました。…何だか今日の加賀美君、お兄さんみたい。 | |||||
じゃあ、君が嬉しいと喜んでしまう私は差し詰め共犯者かしら。(吐露された胸中に伴い浮かぶ微笑みは彼に訪れた変化の証。彼が宿した情を覗かせる度に世界は鮮やかに色を付ける。漸く自ずと浮かんだ微笑みは、然し幼さからなる悪戯めいた調子を覗かせた。真直ぐに伝えるには如何にも、気恥しいから。)…あの時ね、本当は少し君の気持ちに共感してた、口には…だせなかったけれど。…でも私の分は今夜、沢山貰って…いえ、……私ね、見返りを求める癖に貰ってばかりだと其れで終わりになってしまいそうで……お礼や言葉だって、兎に角なんでも相手より少しでも多くを渡していないと、…どうしても、その、…不安で。(一度、二度。繰り返す瞬きの間に記憶を紐解けばあの日の声がいとも容易く蘇る。嘗てひた隠した共感の念を口にすれば同時にその癖までもが露呈する体たらく。思わず気まずげに口を噤むも、一瞬の躊躇いの後、平素は笑みの下に潜めた自らの一端を言葉に換えた。―――そんな、日常の狭間に時折露見す女の悪癖とて元を辿れば過去へ行き当たる。決して忘れた事の無い記憶は音にすれば数え切れない沢山の感情に襲われて。巡る思考に陥る度、触れた指先から伝わる優しくも心強い彼の力は自分を支えてくれていた。いっそ再び真暗な闇へ身を投じるが如き絶望を前にしても、彼のぬくもりは心を満たし確かに女を繋ぎとめていた。此のあたたかさ無しには、何もできない自分を思い知る程に。――故に、半端に吐露した思慕の先を辿る彼の声に自らの失態を知った女は息を詰める。穏やかな指先は去り、手首に走る痛みは先頃与えられた恐怖と変わらず、瞳を大きく見開いた。)私は、…(違う、どうして、なんで――脳裏を巡る言葉の数々は然し、震える唇の前では役割果たせず凍りつく。自分の行動を省みる程青年の言葉を否定する術は失われ、彼の優しさに甘えて欲を出した自分が何より憎らしい。おまけに見上げた彼の表情が、痛々しくて――与えてしまった彼の痛みを、一時でも、癒したかった。)…私は加賀美君がいなければきっと自分と向き合えなかったわ。加賀美君だから頼りたいと思って…少しでも自分を知ってほしいと思ったのよ。(未だ触れた儘の指先に力を込めて上体を起こせば半ば無理に其の肩口へ額を埋め、惑いを打ち消すように深い呼気を吐き出して、)拒んだ訳じゃない、……怖いのよ。全部伝えて加賀美君に嫌われる事が、何よりも。…勝手な想像だって分かってる、それでも無性に怖くなるぐらい私は、……加賀美君に焦れてる。(本当なら彼に少しでも、触れたかった。けれど其の為に両腕を振り払う事なんて出来る訳も無く。身勝手な思いを吐露すれば押し寄せる罪悪感は一入で、今はただ彼の望みに応えるべく、新た波紋生ずると知りながらも他に術持たぬ女は此の身を駆りたてる恋情伝えんと額を彼の肩へ擦り寄せた。そっと身体を離せば、熱と涙で濡れた碧眼は黒曜を見据え、)好きよ、加賀美君。君が好き……ごめんなさいね。(再び零れた謝罪はさて、誰に宛てた懺悔の形か。表情こそ和らがずともせめてその我儘を叶えたいと願う女は静かに微笑みを携えた。) | |||||
逆に、今日の徳永さんは子どもみたいだ。…聞き分けは良いですけどね。 | |||||
…良いな、悪くない。(揶揄したような表現にくすりと漏らす笑みは、愉快気に。何時の間にか消えた敬語にも気がつかず、緩やかに上る口端は、彼女に釣られたようで。)……俺は使える物ならは貰った方が得だと考えてしまうので、その点徳永さんの方が随分と人道的だと思いますけど。(なんて冗談染みた本音一つ漏らして、直ぐに、)ただ、…返したいと思うのなら、それは嬉しい事だけれど、返さなきゃ、と思うなら、俺は嬉しくないな。…多分、大切なのってそういう事でしょう?(首を傾いで問う言葉は拙く。感情を判断軸とする事に慣れていない男は、漸く掴みかけた理解の糸を離すまいと。――紡がれる過去に言葉挟む事が無かったのは、其の術を持たなかった事も大きかったが、感情の問題を置けば、現象としては過ぎた事だからでもあった。なればこそ、其の焦点が現在へと戻ってくれば掴み易く、況して自身の事であれば尚更。―未熟な男は、打つける感情が途方も無く身勝手な物だと知っていた。勝手な期待と、勝手な失意。然し其の何方もが、特別な物である事もまた、自明だった。なればこそ、彼女の答を聞く間は口を噤み、肩に感じる温もりに、投げる視線は戸惑い交りに。そうして耳朶に響く言葉に思わず彼女の腕掴む力は抜け、熱く潤んだ碧眼に囚われる。)…え、(漏れた声は随分と間の抜けた物で。然し其れ以上に何を返せると云うのだろう。驚愕から開かれた双眸は、然し其の視線を逸らす事は出来ぬ侭。―ぐるり、胸中に巡るは、恐らく隠したかった筈の彼女の気持ちを暴いてしまった自身への後悔と、それから、―…)俺は、その、…(言葉が途中で切れるのは、突然降って沸いた事象に対処しきれる器用さ持ち得ないからに他ならない。只、今一度口を開いて彼女を見詰める視線はひたむきに。)……少し、時間を下さい。きちんと考えてみたいと思います。まずは、しっかり向き合ってみたいと思うから。徳永さんにも、自分にも。…ああでも、嫌いになる事は無いので、それだけは安心をしていて下さいね。(並べた言葉は、些か都合の良い物かもしれなかったが、現状で出せる精一杯の結論だった。ゆるり、絡めた指解いて彼女の頭を撫でるのは、少しでも其の不安を取り除けたらと云う思いからであったけれど、果たして。ーそんな折、唐突に入った伝令に瞬き一つ。僅かに険しくなった顔は、此の場に居ない少女の無事を案じて、)……徳永さん、ごめんなさい。俺は行くので、先に戻っていて貰えますか?…徳永さんにはゆっくり休んで欲しいですし。(勝手に決めた今後の処置は、普段通りの口調にて。力無く掴んだ侭であった右手も離して立ち上がりつつ、)…その、言わせてしまったみたいで、すみませんでした。…でも、聞けて良かった。―それじゃあ、また。(勝手な心情を置いて去るのは卑怯だったろうか。其れでも伝えたかったのだと走りながら言い訳一つ。―そうして駆ける内、思考は未だ戻らないと云う何時か探索を共にした明るい少女へと移行していく。) | |||||
御所望なら駄々を捏ねても良いわよ?……ちょっと練習が必要そうだけれど。 | |||||
……、…お気に召したなら何より。(剥がれた敬語に虚を突かれ、不意に鼓動が高鳴った。其の上不自然な沈黙を繕う声は如何にも上擦って、)私は君のそんな素直な所に憧れるわ。…でも余り自分を卑下する物言いを続けるとそのうち怒るわよ?(軽い口調とは裏腹に見据える碧眼に宿すは真摯な色。然し続く言葉に瞳は驚きに揺れて、)…そうよね。こう言う気持ちは本来、自ずと浮かぶものよね。…無理に作って押しつけた所で、何の意味も無いわ。(其の言葉はすんなりと胸中へ染み込み、心に巣食う強迫観念を少しずつ解き行く。其の判断の主軸が彼の感情に在ると知れば湧き上がる喜びが満ち、自然と緩む口許は弧を描き彼への同意を強く示していた。重ねた時の果てに生じた自分の歪みは決して一つではないだろう。其れでも、今なら嫌った自分を変えていけるとさえ思えたから、――けれど。彼の為なんて利他主義掲げる姿は自己満足と変わらない。この想いを伝えればどんな事態に陥るか予想できた筈なのに。お得意の嘘と笑顔で取り繕えば良いものを、彼の信頼を裏切りたく無いと自己愛に溺れ、青年へ焦れる程に昂る嫌悪感を飼殺し紡いだ慕情は、ほら、やっぱり。示される驚きも、困惑に似た表情も予想の範疇を出る事は無く。信頼の証と換えて新たに負わせた責に気付けば静かに瞼を伏せ当惑する彼へ再度謝罪を紡がんと唇を開いたのだが、)……私は、君の其の言葉だけで満足なのに。(嫌わずにいてくれるなら、其れだけで。嗚呼でも。想定していた“どうして”の四文字は鼓膜揺らさず代わって紡がれた結論の通り、彼が自分と向き合うなら、其の心中を探り感情に触れると云うならば。――これ程喜ばしい事はない。突如触れた温もりは、自分の嫌悪感さえ浄化する心地がして面映ゆさ覚え瞳を伏せれば静かに頷き微笑んだ。刹那、降り注いだ現状報告は女の耳にも届いていた。息を飲み、瞳を見開く女と比較して青年の決断は余程早い。きっと少し前迄なら、自分もと追い縋り見境無く手を伸ばした事だろう。然し、淡々と現実を受け入れ眉下げれば離れ行く右手を見据え、)良いから早く行きなさい。それから…そう言う時は、いってきます、よ。(一刻を争う現状に今の自分は足手纏い。平素感情に流され見過ごす合理性を選択したなら、伸ばした掌で彼の背を強く押し出した。徐々に遠ざかる姿がやがて視界から途絶えたなら深い呼気を吐き出し、)……言っちゃった、(後悔と罪悪感。それらと相対す清々しい心地を幼げな一言に乗せ、思い返すは自分を支えてくれた彼との距離。包んだ頬、触れた掌、撫ぜた髪――はて、彼の頭に触れた覚えはあったかと。未だ身に残る彼の熱を辿り、何気なく自分の所作と重ねれば共通点にころころ笑う。やがて簡単に埃を払い、立ち上がれば足先は転がる傘へと向かって、)…ごめんね、……ありがとう。(出会ったあの日から、別れを遂げた今も借りた侭だった彼の傘。何処かで出会えたら返さねば。万に一つもあり得ぬ可能性に縋り傘を差した日々はけれどもう、過去の事。心に降り続いていた長雨は終わりを告げ、閉じた傘を胸に抱けば腹部の傷に触れた後、再度囁く謝罪は月の光へ溶け消えた。彼女は、彼は無事だろうか。今の自分には祈る事しか出来ないけれど、せめてあの寮で仲間達と共に出迎える事が出来たなら。凪いだ碧眼にて満月を見据え、帰るべき場所を目指し進める足取りは至極穏やかで――。) |
10月4日 満月の夜 | |||||
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(沈黙に徹した舞台に月光が差し込む深夜0時。無機質なガラス窓に映りこんだ一人と鏡像が一人と一人に変わる時、揃った役者に乾いた拍手を贈ったのは、深く澱んだ黄色い瞳の、)…嬉しいよ、玄。ようやく受け入れてくれる気になった?(くすくすと愉しげに第一声を奪ったのは、幾度となく夢に見た、同じ顔、同じ声で嗤う影)なあんて、君には無理だよね。……いいよ、安心して。ちゃんとシナリオを用意してあるから。(直後、柔らかに音を紡ぐ唇は歪み、三白眼を崩して作った無理やりの笑顔に嗜虐の色が満ちる。その声色からは想像もつかぬ容赦ない蹴りが正確に少女の中心を捉え、地に伏した弱い女のカラダを踏み付ける。何度も、何度も――。けれど、呻き声を散らしても尚少女の瞳は光を失わず)…はは、知ってるよ。君は痛いのも苦しいのも耐えてしまうものね。そういうのは慣れっこだ。…だからね、どうしたら一番効果的か考えたんだ。……そう、恥ずかしいのがイイ。(倒れた少女を押さえ込むように覆い被さり、抵抗の芽を摘むべく両手を絡め取ると厭らしく釣り上げた唇が彼女の耳元で責め立てる)…神様は気紛れで残酷だ。中途半端に君の夢を叶えてあげるから、こんな格好して…やめられなくなっちゃって………でもさぁ、(ファスナーを弄ぶ指先が組み合わさった金属を解し、彼女が頑なに身に付ける男を“模した”鎧を引き裂いたその下は布一枚。零れる嘲りの声が次第に音を増しながら、嫌がる少女の声と重なり大きく響く。そして心許ない壁を容易く捲りあげれば、本来の形を無視して押し潰されたソレは彼女そのもの)…ごらん、コレが君の真実だ。…ほら、こんなに窮屈そうに…可哀想にね。………今、楽にしてあげるから。(女の証を何かで塗り固めたところで、剥いでしまえば全部オシマイ。止めてくれと啼く声はか細く、)どうしたの、見られて恥ずかしい?……あはは…そうだよねえ……だって君は、(どれだけ鍛えても柔い塊に指を這わせば、恥辱に滲むその顔は正しく“女の子”だ)…ねえ、どんな気分?自分に自分を暴かれるのは。……私は君、君の望みそのもの。いい加減認めて?………けど、玄がそれも辛いって言うならいいよ…――…一緒に消えよ?(今度は詰る代わりに慈しみを込めて彼女に囁いた。そうしてそっと唇を寄せる姿は愛を確かめる仕草にも似ていたが、彼女のそれが反論の形を成せば牙を剥き、食らいつくは喉元に) | |||||
…………こういう時、なんて言えばいいんだろうな。 | |||||
(ヒトの思惑の外で時は等しく流れ、欠けた月がまた満ちる。寮から離れ、住宅街を抜けた人気ない小道を通り、遠い昔に役目を終えた廃ビルの前。生者の眠る棺も含め、立ち会う者の無きこの決別の舞台で独り、時を待った。――そして今、目の前に現れたのは鏡越しに見つめてきた本当の、自分?)…違う、(態とらしく小首を傾げ、甘く声を響かせ、柔らかく微笑む彼女は誰だ?――知らない。こんな”女の子”は、)…俺じゃ、ない。…(先の満月、あの夜から決意は始まっていた。彼女は敵じゃない。向き合うべき己自身。伸ばしかけた手はしかし、分かっていても――やはり無理だ。彼女を受け入れる事は等しくあの人を裏切る行為、出来るわけがない。胸に抱いた決意は揺らぎ、そんな心の隙を嘲笑う彼女は容赦なく力を振るう)……ッ…!(一瞬呼吸を奪われて後、吹き飛ばされた体が地面の上で大きく波打った。鈍い痛みが腹を背中を伝って脳まで届き、苦しみに喘ぐ声が静夜に響けど)…こんな、の、痛く、な…――(それから数度、上体を起こし彼女を睨む事すら出来ない体が唯一反抗の色を瞳に託せば、紫の双眸は暗闇を映し続けて繰り返される仕打ちに耐えた。体の痛みを受け入れる。それが己の影が課した試練なら、これほど楽なものはない。だが、そんな事は写し身である彼女は百も承知で「じゃあ、ココが痛いのは、どう?」胸を指して嗤う)…!…ふざけるな!…やめ、ろ…っ…!(固く締め上げられた手首に頭を振って逃れようにも力の差は歴然。怒気を孕んだ制止の声は聞き届けられず虚しく消え入り、最も目を背けたい現実を露にされてしまえば)それは、…だめだ………やだ、…(朱に染めた眦を隠さんと顔を背けても、為されるがまま自由を奪われた姿は何処までも惨めで、彼女に踊らされていると解りながらも羞恥で気が触れそうな少女の抗議はやがて、懇願に変わる)や、めて………おねが、……――見せ…な……で(それすら無として扱われ剥がされた鎧の下、圧迫から解放された素肌が外気に触れて見えるのは、弱さの象徴。どれほど背が伸びでも声を低くしても髪を切っても装っても無くならない、不完全の象徴。痛い。見ないで。イタイ。恥ずかしい。いたい)…ちが……(ぼやけた視界の奥で優しく笑う自分を見た。彼女の吐息が唇に触れる。甘美な響きを以て落とされた心中の誘いに反論は途切れ、体中から力が抜けるのを感じながら、ふと思ってしまった。――いつか不完全な自分があの人を失望させるくらいなら、このまま“当真玄”で居られるうちに消えた方がいいのかもしれないと) | |||||
……弱音でも零してみれば? | |||||
(満月の日には何かが起こる。今までの経験を思い起こし、そして前回の光景を思い浮かべた顔は僅かに歪む。深夜には似つかわしくない普段通りの格好で足を運んだ作戦室にて、既に集まっている何時もの面々と数多の空間の空白を眺め、心のどこかで「やっぱりか」と息を詰まらせた。脳裏に思い浮かべたのは一人の少女。彼女の元へと急ぐべく駆け出した足は平生の愚鈍さなぞ少しも感じさせてはいなかった。最悪の事態を想定することは当然。けれど、最高の事態を想定することが許されない訳もない。絶えず頭の中に浮かび続ける少女は、少女と思えない程に気丈で、かわいいけれど格好よくて、強い。だから大丈夫。きっと大丈夫だと高を括っていたとでも言うのか。やっぱりバカだ俺は。唇を噛み締める時間も、惜しい)――――…!……(視界に認めた、倒れ込む二つの影。今度こそ確りと握り締めた無機質な銀を米神に放ち、具現した醜怪な男は少女の頭上に眩い炎を咲かせた。威嚇射撃とするには華々しい火花は攻撃の意図こそ無くとも、注意を逸らす程度には作用しただろうか。踏み込んだ爪先が床を蹴り、覆い被さる金目の少女の肩を掴んだ。男にしては細い腕がそれでも相応の強さを以て彼女を引き倒すことに成功したのなら、機敏な動きでその痩躯を二人の合間に入り込ませる。背にした紫の双眸を横目に確認すれば必然的に視認した柔肌に、小さく息を呑む音が空気を乱した)―――…玄ちゃん、遅くなってごめんな。大丈夫か…?(浮かべた微笑も努めてやさしく響いた声音も何かの意図があった訳ではない。見せ付けられた紛れもないオンナノコの姿に少なからず動揺もあった。けれど、嗚呼。ゆっくりと前方へ向き直り、細めた瞳に映る少女。寸分違わぬ容姿を持つ筈の二人は何故だか別人のようにも見えて――網膜にはまだ、弱弱しい女の子が焼き付いている)……、…なぁ。そんな…死にそうになって、なにしてんの。…俺、来たから、…頼りねぇかもしれないけど、少し位は安心しろよ?………頼むわ。守ってやるから、(視線は前方に向けたまま、思わず洩れた言葉が乾いた大気を揺らした) | |||||
…あんたにか?……それは御免だな。格好悪い。 | |||||
(“当真玄”を辞めて、“げん”が消える。それもいい。いつかその日まで積み上げた思い出が全て偽物になるくらいなら、今日までの10年を本物にしたい――。心に浮かんだ免罪符に手を伸ばし、抵抗の意思が潰えた体は蹂躙を受け入れる準備をした。刹那、脳裏に浮かんだのは彼女とも違う、もう一人の自分の姿。その身で大切なものを支え、自らの生涯を費やした男は何を想って生きたのだろうか。支えるべきものの幸せ?放棄するには重過ぎる責任?考えてみても分からなかった。だってもう、選んでしまった。彼じゃなく彼女を。楽になる道を)……ごめん。(約束を破って。そっと閉じた瞼が瞳を覆う水滴を押し潰せば、溢れ出た雫が頬を伝う。「もういいよ。……誰かの為に誰かを生きるのは、これで終わり。」慈愛に満ちた彼女の狂気が剥き出しになる。鋭い牙が薄皮に触れた瞬間、全てが終わると信じていた。――なのに、)…な、んで……(瞼の裏で火花が散った。彼女の呻く声を聞き、訪れた開放感。自由を手にした両腕は無様に宙を掻き、何事かと瞬かせた目が現実を映したとき、虚ろな紫は絶望に沈んだ。「玄ちゃん。」今、最も聞きたくなかった声が鼓膜を震わせ、)…うえ、…ひ……ろ……(呆けたまま口にしたのは、此処に居るはずのない少年の名。嘘だ。誰にも見られまいと逃げてきたのに、――見られた。それは)……やだ、…あ……ちが…(嫌だ嫌だと頭を振っては幼子の如く彼の好意を撥ね付けて、裂かれた布地をかき合わせるよう己を抱けば、吐息に近い声が切れ切れに啼く)…やめて、くれ……そんな…こと、言わ…(彼の前では強く格好良く在りたかった。守られるのではなく守ってあげたかった。でも、それももう叶わない。――翳る瞳は彼を映さず、ぼろぼろと溢れる失意の涙はそれ以上の言葉を紡げぬ少女の代わりに拒絶を示し続ける) | |||||
―― | |||||
(少女は受け入れた。本当の己と向き合う事よりも、全てを捨てて消え去る事を。誰かの為と嘯きながら自分の為に彼女は選んだ。だから共に消えよう。可哀想な彼女の物語はこれでおしまい。月光を受けて色づいた首筋に静かに牙を――)……なあに。今度は君が玄のヒーローにでもなるつもり?(爆ぜる音。終幕を阻む火の粉は闇夜を照らし、新たな役者の登場に華を添えて赤く散る。現れでたのは王子様。か弱いお姫様を庇うように、優しく落ちる声はよく出来た台詞のようで、)…あはは……ねえ、何を勘違いしてるの?今は君の出番じゃないよ?(可笑しくて可笑しくて、肩を震わせながら問いかける。見てみろ、彼の後ろで少女がその顔に浮かべたのは希望じゃない。――絶望だ)ゴメンネ。初めから君はシナリオに居ないんだ。これは私と玄、二人だけの物語。………ほら、よく見てみなよ。君の後ろに居るのはだあれ?…玄ちゃん?違うでしょ?君の知ってる玄ちゃんはもっと強くて格好良かったでしょ?(見据えるは彼の先、声なき少女に向けて言い聞かせる口調は穏やかで、淀みない長台詞を遮る声もなければ彼を追い詰めるよう身を寄せながら「…ね?」彼女が厭う女の顔で甘く問う)当たり前だよ。だってそんなの作り物…その子の理想だもの。……けどザンネン。その子はね、疲れたの。だから“当真玄”を辞めちゃうの。全部全部終わりにするから………――上広、あんたは要らない。(語る声は緩やかに滑らかに言葉を紡ぎながらも徐々に冷たい音を織り交ぜて、最後に落とした声は低く硬く、彼もよく知る“当真玄“の声だろう) | |||||
んー?…じゃあ、誰になら言うのよ。そーいうの。 | |||||
(弱弱しくも明確に提示された拒絶に伏せた双眸は光を失うこともなく、只管に前方を見据え続ける。微かな三日月を象ることすら希少だった唇が存分に描く弧に奪われた視線は次第にその真を見極めんとするように鋭く尖り、男の唇には気持ちばかりの微笑が張り付いて)…そうか?よく言うだろ。ヒーローは遅れてやってくるって……まァ俺はそんなものになる気はねぇが、…君を助けたいし、救いたいと思ったから来たんだよ。この前、玄ちゃんが俺にしてくれたようにね(流れ落ちる雫はこれまで抑止されていた感情の表れなのだろうか。――女の子の涙はきらい。視界の端でキラキラと光る輝きが押し込めた心の一端を煽動し、胸に僅かな亀裂が走った)…へえ。勘違いか。……俺を見捨てないって約束は?…言わないなんて出来んし。俺も約束しちまった。君には本音を喋ると決めたんだ(初めてみた君の笑顔がこんな形だなんて。堪らず吐き捨てそうになった世迷言を押し留めるは彼女の言葉。刻まれた罅割を沿う真実に負けじと唇を開くことが出来たのは、此処に足を運ぶに至った明瞭な理由があったから。尖った犬歯を覗かせる尊大な微笑と共に。原動力とするには随分と自分本位なその力は言い放った性質の悪い言葉にも充分に反映されていることだろう)あァ…そうね。俺の知ってる彼女は確かに君の言うような、女の子だったよ。…君よりも少しだけ、男勝りかな?でも、…それだけだろ(言い切りに表れた強い意思。声音を向けるは“女”でしかない彼女であれど、彼女が自身を通り越して“少女”に話しかけるのと同じく、其処には二つの意味が含まれて)―――玄ちゃんに俺が必要なくても、俺には君が必要なんだもん。(まるで子供のような口振り。でも彼女は、いつか重ね見た母ではない。耳慣れた少女の声に何故だか少し笑ってしまって、くつくつと震える喉の音が冷めた夜の空気を裂いた)……。そうか。終わりにするなら。君が君を捨てるなら…、…くれよ。…その辺の男よりも格好良くて頼り甲斐がある…俺の知ってる、作り上げられた当真玄じゃなくていい。泣き喚いて全部を諦めて死にそうになってる女の子でいい。…なんでもいいんだ。――…ちょーだい。……勿論。その後でまだ君がダメなら、俺も一緒にそっちにいくよ(湾曲した双眸と赤い唇。彼女にも劣らぬ甘い声音で囁いた。狂気ではない、確かな正気の下で――どうだ?と、) | |||||
―― | |||||
(強い光が、胸を刺す。高揚する心が頬を歪ませて、にやりと薄気味悪い笑みを浮かべた女がその台詞終わりを待てば、再び軽やかな笑声を振りまきながら言う)…随分と格好いい台詞だね?…君が救ってくれるの?私を?玄を?…両方?(細めた目をそのまま弧に変えて、喜色を湛えて彼に擦り寄る。直後、“約束”少女にとって何より意味のある言葉が耳に触れた瞬間、彼の奥で嗚咽が止んだ。――そして再び少女は涙する。その身にも降り注ぐ欲望の雨に。同情よりも確かで、純粋な彼の想いに)…ああ…イイね。そういう君なら大歓迎。…今からシナリオに入れてあげるよ、上広くん。(きらと光る彼の牙は鋭く、その強い想いは彼女の心を抉るだろう。痛いのは彼女だけ。此方の女はむしろ嬉しそうに唇を釣り上げるばかりで、)玄、どうする?随分と好かれてるみたいだよ?…どんな玄でもいいって…ビックリしちゃったけどさぁ…そうだよね。だって彼、君が“オンナノコ”の方が都合いいんだもんね?…ホント、ヨカッタじゃない。男の子じゃなきゃ価値のない君に、女の子…それも出来損ないの君に価値をくれる人だよ?ずっと一緒に居てくれるってさ。イイじゃない。彼のオンナノコになっちゃえば?(滑らせた舌が彼女を煽る。「だって、それが君の望みでしょ?――独りは嫌なんでしょ?」希望の言葉は同時に彼女を追い詰め、最高の客演に舞台は盛り上がる。――ゆらり、彼の奥で地に伏した少女が身を起こせば、今度は彼女が、喋る番だ) | |||||
誰にも言わないけど、強いて言うなら、…どうでもいいと思ってる奴。俺も、向こうも。 | |||||
(悲嘆に暮れる少女が独り涙の海に溺れようとしていたその時、静かな水面に投石が一つ)…やく…そ、く……(小さな波紋は次第に輪を広げ、終いに波を立てた。嗚咽を抑えながら耳を傾けた彼の真っ直ぐな言葉の数々が失いかけた理性を呼び覚ます。その間にも彼の、彼女の声が重なって脳内を揺さぶる。“げん”も辞めて、消えるのも辞めて、現実と向き合うのも辞めて、全てを受け入れてくれる優しい彼と一緒に幸せに――なれる、のか?ゆっくりと起き上がると、水膜越しに見えた彼の背中。大きなその背に思わず手を伸ばす。そして縋る様に触れたくせに、自分の姿を見せぬよう振り返るなと呟いて)……買いかぶり過ぎだ。俺があんたに出来ることは何もない。前に言ったろ…俺じゃあんたの悩みをどうしてやったら良いのかわからないって。……同じなんだ。あんたの悩み、少し分かるよ…親が喜んでくれるなら、自分が望まない事だって頑張れる…辛いことも、何でも……だからこそ、それが叶わない時、苦しいんだ。苦しくて苦しくて、……その苦しい時、どうしたらいいのか分からない。……わからなくて、…ずっと探してたんだ。(見て見ぬ振りした心の闇、ぽっかりと空いたその穴に彼の痛みの欠片を嵌めれば、嗚呼、ぴったりだ。「…でも、探し疲れたんでしょ?」彼の奥、彼女が確信を持って問う。その通りだ。どれだけ思考を男に置き換えても、体はそのまま。乱れた着衣の下、力なく頷いたまま下方で止まった視線が捉えたコレは変わらない。過去をなぞる様に指を其処に埋めてみれば、――やっぱり痛い)……ほんと、こんなので良いならさ、あんたにあげたいよ。俺の、ぜんぶ。(空の皿に載せられた初めての錘。要らなくなんかない。少女も少年が欲しかった。だけど彼の目に映らないのをいいことに、流れ続ける涙はまだ、下へ下へ。久しぶりに外に出たそれはとても辛くて、忘れてはならない約束を脳裏に突き付ける)――…けど、無理なんだ。ずっと前に約束したから。大事な人に、“げん”として、傍に居るって。…だから俺だけ幸せは駄目なんだ。………嘘ついたら針千本…痛い思い、しなきゃだろ?(乾いた笑いがアスファルトに転がって、何処かに消える。彼女の望みを、彼の優しさを受け入れるは罪だ。罪には罰が必要だ。しかしその罰を彼まで背負うことはないと、拒絶の声を今度は彼に届けよう)…正直こんなに早く、この日が来ると思ってなかった、けど……ごめん。傍に居るってのは、もうヤメだ。だから、………上広、(これが最後の機会になるのならと、今までで一番丁寧に呼んだ彼の名に続けて「頼む、」と、努めて明瞭に音を成せば、)…俺を嘘つきにして。…――約束、破らせて、 | |||||
……うん?信頼してる人はダメ?…俺、逆カモ。 | |||||
…両方。……なァ、いい加減に玄ちゃんの中に戻って欲しいんだが、…あんたに言うことじゃねぇか(神経を逆撫でするかの如き響きで放たれた格好いいの一言に密やかな不快感を滲ませながら、自分を通り越していく言葉に堪らず押し黙ったのは口を開けば何を言うか分からなかったから。彼女の言葉が少女を追い詰める為だけに存在しているものだと悟れば次第に細められていく双眸が、一つ瞬きをしたその時。背に触れた微かな感触に思わず洩れかけた驚嘆の息を結んだ唇で封じ込めた。反射的に振り向きかけた顔は大人しく少女の言葉に従って、斜め下の床に固定される。そのひ弱な手つきに似た、ぽつぽつと零れるような言葉に耳を傾けて)……ね。それじゃやっぱり俺も同じだよ。こんなに格好つけても肝心の解決法は浮かんでないようなものなんだ。……それなら一緒に見つけていくって道も選べるんじゃねぇのか。……だから…何もないなんて言うなよ(自分は簡単に諦めた。彼女は違う。その心中が如何でも例え表面上だけであっても、身を裂く痛みを隠して戦い続けていた。その健気さに心が締め付けられて、無性に、哀しい。肯定や許可ではなく願望の形で送られた言葉。次いで紡がれるであろう言葉の予測を立てれば見事正解。予想通り。軋んだ心臓の上の布を握り締めれば痛みはそのまま心に移る。どうしようもない?)―――…じゃあ、俺も嘘つきになっちゃうんだ……うん、(非難ではない。悲哀。諦めるのか?――違う。駄目だ。俯けた顔、視界に僅かに彼女の姿が入り込めば握り締めた指を解いて、背面に伸ばす。体は斜めを向き、目を閉じて――その手は伸ばされていた彼女の指を掴む。若し遠ざけられようとも長い腕は冷めた空気の中で必死に伸ばされて、彼女の手を包み込むように覆うだろう。滑らかな動きとは裏腹に力の篭もった細い指は他者の、自分の温かみを、彼女に、)…前に言ってたな。その手が何を守るためにあるのか。決めるのは――…。…俺は、…俺が、あんたを守ると決めた。でも君だけじゃない、自分も守る為だ。…俺は自分の為に生きたい。道は幾らでもあるんだ。見つけられるんだよ。迷っても間違えても…ひとりじゃなければ。…だから……俺は…君に痛い思いをさせてでも、傍にいてほしい。――…若しかしたらこの気持ち。君の大事な人も、持ってるのかもな。……なあ。その人はどんな人?…君が君の為に生きることは、許されない?………それを決めるのはあんたじゃないのか。玄ちゃん(伝えたかった。)誰かの為に生きて、自分の為に死ぬ?…違うだろ。まず、自分の為に生きるんだよ(見つめた静かな世界。透き通った淡い硝子に、少女が灯る。その瞳の奥で泣きそうな顔をした男が一人。―――ひとりだから、笑えないんだよ。) | |||||
…だからそういう格好悪い姿、見られたくないんだよ。 | |||||
(心の奥底で夢見た救いの手を咄嗟に払うことは出来なかった。そうしてぎこちなく動かした視線の先、淡緑の珠に映し出された少女の泣き顔を目にすることを恐れていたからこそ、誠実の瞼に覆われた彼の眼に息を飲み)…自分…の為、(胸に刺さった希望を噛み締めれば濡れた顔は情けなく崩れ、抑えていた嗚咽がまた、小さく静寂を揺らし出す。肩の震えが止まらなくて、指先から伝わる温もりに縋るよう、ただただ彼と繋がるその手を支えに微弱な声が問うたのは、)…俺にも、…許されるのか…?(彼に、彼女に、何より許されないと決めた自分自身に。生まれた瞬間から存在を否定された少女は、存在の肯定を求めていた。その対象は――自分でも、良いのだろうか。自ら戒めの茨を敷いて閉ざした道を、彼は見つけ出してくれた。ぼろぼろの視界は更に歪み、目の前の新たな道を進むべき足は戸惑いを見せながらも、心許なさを埋めるように彼の手に両手を重ねれば)俺は、――…いっしょに、見つけたい。(はらはらと毀れゆく頑なな心が、今、素直な言葉を吐いた。悲しい瞳に映る少女は、在るかも分からぬ答えも君とならと、上を向いた唇で言う)……だから、(その為にはまず、失くした心を取り戻さねば。揺らいだ決意が再び宿る。ゆっくりと支えを手放した少女は覚束無い足取りで一歩、また一歩と彼を離れ、もう一人の自分に向けて精一杯の声で哭く)俺は、誰かの為に生きてる間は俺が存在する意味があると思ってた。…怖かった。誰かを支える為だって言いながら、自分が立つことに必死だった。……愛されたい。また独りになるのは嫌。全部お前の言う通りだ。………認めるよ、俺は、……――生きたい。(涙に滲んだ声と共に先刻諦めた手が彼女に届いた瞬間、「…言ったでしょ?誰かの為に誰かを生きるのは、これで終わり。って」また一つ、静かに軌跡をなぞる雫を拭う優しい指が在った)…ああ。…それで、俺の為に、俺を生きればいいんだろ。(頷く彼女の両手が少女の泣き腫らした目元を覆い、――再び暗闇を見つめる瞳に光が差した時、その時にはもう、二人の少女は溶け合い、当真玄、ただ一人が其処に居た)……なあ、(そして腫れた目を細めて笑う少女は、勇気を出して彼に問う)…俺の過去も今も全部知ってさ、…その上でこんな面倒なの欲しいって物好きが居るなら、もう一度、約束したいんだ。……いいかな。 | |||||
あー玄ちゃんってあからさまに甘え下手っぽいしねえ……納得。 | |||||
(もう二度と見ないように閉じ込めた秘密も痛みも共有して、芽生えた感情はひどく本能的だ。失いたくない。曖昧な思考から滑り落ちた言葉が妙に唇に馴染んだのは、朧げな少女の内側に自分との重なりを見つけているから。許されたいのは、失いたくないものは、自分も同じ。導いたこの答えは彼女の道を照らす手掛かりになるだろうか。今は痛切な問いに声を出すよりも、彼女の手を強く握ろう。君はここにいて俺もここにいるんだと、巡る血流が指先まで満遍なく温めていく。重ねられた両手から仄かに伝わる少女の体温と混じりあって溶けていく様を想像すれば、この想いも伝わればいいのになんて夢物語を描いて――。放たれた少女の言葉に不甲斐ない意識が戻った。口にしなければ気持ちは伝わらない。それを暗に伝えられたようだ。息を呑むことも忘れて少女を見つめる自分は想定内の驚きも喜びも浮かべているだろう。綻ぶ頬を自覚する。いつものような緩やかな微笑が其処にはある筈と覗いた純真の瞳に映る自分は、確かに笑顔。彼女に負けず劣らず歪められた酷い笑顔の紛い物。ああ、そのブサイク加減に笑える。――これから一緒に進む道は予想するまでもない、苦難に満ちた茨の道だろう。若しかしたら道なんてないかもしれない。歩みを進めていく中で、こんな顔をまた彼女に見せることもあるのかもしれない。それでもいい。離れていく少女の背を眺める真剣な眼差しは彼女が再び本来の姿に戻り、此方を向いた瞬間に柔く蕩けた。おかえりなさい。口の中で溶かした言葉の代わりに、紡いだのはたった一言、) いいよ。(今度こそ、最高の笑顔で迎えられたかなぁ。――細められた彼女の目と視界の狭まった自分の目ではとても確認出来なくて、でもきっと大丈夫だ。心を包む充実感はそのまま冷たかった世界に広がり、和やかな空気を齎してくれる)うん。約束しよう。…ついでに俺流のヤクソクも、もう一回。しとくか?……確か指切りよりも重いんだっけなぁ…?(その空気を巻き込むように広げた両腕はわざとらしい動作で少女を引き寄せようと平らな胸を晒した。白い牙は少年のような無邪気さを強調する癖に、傾けた頭と控えめな微笑がその印象を真逆に変えてみせるだろう)…ま、冗談だが。……なぁ玄ちゃん。俺さ、君のこともっと知りたいと思ってるんだわ。…すンげぇ物好きだから。…な、教えてくれないかな。もっと。 | |||||
…仕方ないだろ…心配もかけたくないし……大事なんだから…。 | |||||
…ありがとう。(視界いっぱいに広げられた両腕は開かれた彼の心の如く、一番の笑顔は多弁をも凌ぐ心強い後押しとなる。これから語るはきっと纏まりもなく、代わりに拙さを繕うこともない有りの侭の自分の話。――大丈夫。何度も言い聞かせたそれを合言葉に、開いた口から不規則なリズムで紡がれた第一声は、当真玄の過去から)…俺、有り体に言えば捨て子、ってやつでさ。…何も知らないんだ。本当の両親の顔も名前も、…自分の名前も、誕生日も、…ぜんぶ。(物心ついた時には全部が全部偽物だった。その事実を知るのはもう少し後の話だけれど、「小さすぎて捨てられた記憶なんてないけど、無いものは無い…それだけはわかるんだ。」伏せた瞼を縁取る睫毛が小さく震えた。下降した過去を覗く目は虚無の闇を必死に見つめながら、それでも彼に届ける為だけの音を喉奥から絞り出す)…で、7歳のとき、今の父さんと母さんに引き取られたんだ。条件、付きで。……家族になるための条件、(「何だか、わかるか?」視界から外した彼に問うその声は、自ら答えを口にする緊張に胸を締め上げられ上擦った)…男の子に、なるコト。……要約すれば、息子を亡くして心を痛めた妻を元気づけたい男に、死んだ息子に瓜二つの孤児が拾われる…そういうハナシ。(冒頭から重苦しいにも程があると自嘲に唇を歪めて、だからこそ誰にも語る事などなかったのだと独り言ち、言葉は途切れる。しかし、「知りたい。」彼の望みを唯一の希望に変えて、与えられた温もりを思い出すよう両手を擦り合わせながら息を吐く)…小さな俺には欲しいモノが沢山あった。自分の家、美味しいご飯、新品の洋服、なにより…――自分を愛してくれる人。…幼心に家族ってものに憧れてた。……だからかな、正直意味がわからなかったけど、一つ確かなことは俺に“家族”ができるってことだった。そりゃあ嬉しかった。(遡る。遡る。過去、初めての父と母に出会った日を想い、語る口調は自然と弾みをつけていった。思い出すは息が詰まりそうな世界に気がつく前の記憶)それにさ、初めて会った時、母さんは俺を見て泣いたんだ。知らない名前で呼ばれたよ……似てたんだと。顔も声も。…俺を見て泣きながら喜んでくれて…嬉しかった。この人が笑ってくれるなら、何でも頑張れる気がした。強要されたワケじゃない…俺が二人の息子になりたいって思ったんだ。(どこか誇らしげに語る姿はしかし、続く言葉を思って次第に音は途切れとぎれに、震えながらに紡がれる言葉こそ当真玄の今)けど、中学の頃からかな。だんだん体が言うことを聞かなくなって…そしたら体と一緒に心も我儘言い出した。…二人が喜ぶなら何でも良かったのに、息子を演じるほどに俺は代役で、結局偽物から抜け出せない、って。…俺は本物になりたかった。男とか女とかそれ以前に、「げん」じゃない、俺自身が必要とされる何かにさ。…でも、そんな我儘言えるわけない。母さんの為、父さんの為って色々理由つけたけど、…言えないのはただ怖かっただけ…「げん」じゃなくなった自分に価値が無くなるのが。…だってそうだろ?俺はその為に引き取られて…用が済んだら、また…独りになるのかと思ったら………その繰り返し。…――なあ、(話しきり、全てを認めた充足と同時に湧き上がる恐怖に思わず滑らせた口が)…要らないって、言っていい…から、(刹那に夢見た未来を否定するは、臆病者の予防線。否定される前に否定する。大事になる前に手を放す。――後者に関しては、もう大分手遅れだったけれど、) | |||||
……大事ね。成程。…うん。君のそういう優しいとこ、すげぇすきよ。 | |||||
(紡がれる少女の軌跡に固く結んだ唇は音こそ出すことはなくとも、密やかに咥内に歯を立てては彼女の痛みを胸と記憶に刻んでいく。真摯な貌に浮き上がる歪みにも満たない変化は、不意の問いに脳裏に幾つかの想定を浮かべつつも無言の肯定を返した。予想はできる。けれど―――直接、彼女の口から紡がれることによって現実を思い知らされたのは当然に彼女の方だ。少女を見詰める双眸の僅かな動揺もゆっくりと閉じた瞼に閉じ込めて、静寂を保ったまま、言葉の節々に合わせて微かに傾く頭だけが少女に応える。人の話を聞くのも他愛のない相談に乗るのも、優しい言葉をかけるのも得意。然し今回ばかりはその括りに少女を入れられる筈もなく、安易な言葉も行動も何も取りたくはなかった。自身の中に在る少女の立ち位置を自覚しているからこそ、早急に現状に対処しようとする面と逡巡し躊躇する面とが、開いた筈の指を再び握り締めさせる。両親。自分の価値。酷く覚えのある言葉がいつかの痛みを呼び起こす。爛れた傷跡は向き合ったからといって直ぐに治せるものではない。そんなことはとっくに分かっていても、焦る心は止められない。それはまた少女に抱いた感情も同じことで、 本当なら今すぐにでも震えるその身を抱き締めたかった。以前彼女がそうしてくれたように、短い髪にそっと指を絡ませてやさしく撫ぜてあげたかった。その欲望に背かずに伸ばしかけた指先が、呼びかけるような言葉に止まる。なに?――頭を傾ける動作に沿って揺れた髪は見開いた硝子玉の曇りを薄らと覆い隠してくれただろうか。彼女が何を思ってその言葉を紡いだのか。幾らでも理由は考えられる。筈なのに――。断絶された脳の回路が思考を止める)―――……俺はあんたにそんなこと、言って欲しくねぇんだわ(低く掠れた声音は存外感情を込めずに、視線を落とした床面へと放たれた。やさしくしようと思っていたその手で、強引に掴み取った細い手首。背に回した腕は乱暴とも言える強さで彼女の体を掻き抱き、繊細な夜の静寂を壊していく)……苦しい?でも、動かんで。……どれだけ俺が君のこと想ってるか、分かれよ…(――肩口に零した囁き。どんな抵抗があろうと無理矢理にでもその体を離さなかった時間からどれ程の時が経っただろうか。掴んだ片手首はそのまま。もう一方の掌は緩慢に細い背を滑り、涙の痕を残す頬に添えられた)…わり。ちょっと、怒った。……さっきね。なんでもいいって言っただろ。…投げやりとかじゃない。本当に、君自身が欲しいんだ。どうしようもねぇくらい。俺は、(飲み込んだ言葉は吐息に変わり、僅かに身を屈めれば目線は少女と同じになるだろう。ゆっくりと近付けた貌は真正面からその瞳を見つめて)…君に俺が必要なくても俺には必要なんだって。忘れたなら何度でも言ってやる。……だからもし少しでも君にとって俺が必要なら…そう言って欲しいんだよ(歪めた表情が徐々に解れ、和らぎ、ただただ熱情に溺れていた双眸が瞬きを一つ、二つ)……、もうひとりの君が「要らない」って言ってきたの。…僕、ほんとうに傷付いたんだから。……玄ちゃんの本音。聞かせて? | |||||
…あんたの、そういうはっきり言うとこ、…少しびっくりする。…嫌じゃないけど | |||||
(全てと向き合ったと豪語するにはまだ時間は必要で、押し殺すことに慣れた本音はやはり、痛みを恐れて自分を守る為の嘘を吐く。それがどれだけ彼を傷つけるかも知らずに、それ程の価値が自分にあるとも認められずに、震える唇に歯を立て今にも崩れ落ちそうな身を奮い立たせ、聞くのが怖いその先を待っていた。そして、――訪れたのは、強すぎる否定。それらしい強がりを用意していた口から零れたのは小さな悲鳴で、奪われた手首に導かれ彼との距離を失えば、息が、詰まる)……あ、…(痛い。彼の背に回すことも出来ずに宙を彷徨った両腕は重力に従い、一瞬の抵抗の後、抱かれるがままその場に立ち尽くした。損なわれた心を埋めるように、彼の体温が、想いが、傷口にぶちまけられた消毒液のようにじわじわと広がっていく。痛いのに、優しい)…お、れ…は、(近すぎる距離も強すぎる想いも、彼への気持ちを認めた今では必要以上に感じてしまう。心臓がうるさい。彼の手が触れた場所が熱い。揃えられた目線、目の前に並ぶ二つの真摯な瞳から逃れることは出来ず、燃える淡緑に映り込む自分の顔が苦しげに唇を動かせば、潤み声が途切れとぎれに)…おれは、……欲張って、一番大事なものを落とすくらいなら…最初から、他に手を伸ばさなければ良いんだ、って…思ってた……のに、(もう、彼を欲しがる手は戻せない。躊躇わずに“大事”だと言える日の為に、もっと君と、話がしたい)…今は欲しいよ……――おまえが、ほしいんだ…。(欲しいならあげる、自分が彼に伝えたのはそれだけだった。違う。これが、本音だ。初めて嘘を纏わせずに紡いだ気持ちと共に彼に身を託せば、不思議と涙は枯れ果てて、代わりに乾いた喉から漏れる吐息は次第に微弱な笑声となる)…ごめん。全部、嘘。……要らなくない。要らないって言ったらいやだ。(呟く姿はいつになく子供染みた響きを成して、指切りには不都合な体勢だと分かりながらも寄せた身をそのままに)…俺にも、おまえが必要だから、――…約束しよう。(形もない一方的な約束は、彼と自らに向けて誓われる。それから温もりを惜しむよう空いた手で彼の背をぎゅっと強く、一度だけ抱けば、そっと元の距離に二人を戻して)…帰ろう。(皆の待つ寮へと踏み出した。そしてつい、気恥ずかしさに急かされて少しばかり多く歩みを重ねれば悪い癖で彼を置き去りにするけれど、「…あ、」と気づきの声を上げてのち、振り返った少女の腫れた目は、不器用ながら躊躇いなく弧を描き)……ほら、(彼の足も一歩、二歩、前に進むのを待って、今度は彼の隣を行く時間を大切にした足取りで歩き出すはず。――道中、ふと空を仰げば明るく丸い金色が紫を染め、それに満ちた自らの心を重ねれば、ちらと隣を覗き見てから)…俺にはやっぱり、こっちの方がいい。(言うは我慢を止めた途端に溢れ出した想いの一つ。他にも胸中に仕舞ったそれらを伝えるには朝までかけても時間が足りないだろうから、焦らずこれから“先”に取っておこうと、久しぶりに描いた不確かな未来は、うん、なかなか悪くない) |
10月4日 満月の夜 | |||||
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(時満ちた宵闇に現る女は合わせ鏡。煌々と照る真円に共鳴するが如く爛々と輝く双眸は、ちょうど一ヶ月前より満ち欠けに追じ仄暗さを深めた瞳を捉え一体何を宿したか。視線結び歪に弓引く唇は戦慄にも似た感情を引き出したが瞠目も刹那、存外にも沈着冷静な様子に募った激情は、その心裡を共有する者ならではの憤懣だった。気の遠くなるような間じゅう鬱積させられた沈鬱さを留めおいてやる義理などない。唇に湛えた薄ら笑いを捌け口に流れゆく狂気は奔流の如く、”運命に従ったと語るその顔貌を思いきり歪めてやりたい”本能の儘。)ねーえ?ちょうどひと月前からかなぁ、特に運命運命運命運命ってうるさいね。ゆっとくけど、全部が全部”私”のせいだよ。今までのもソレもぜんぶゼンブゼンブ全部全部全部!!ぜーーーーんぶっ、そういう”運命”引き起こした私のせいー!!!どう?ザンネンだったねー?責任転嫁してたつもりだったのに、ぜ〜んぶ自分のせいだよ。ね、ね、どう?ま〜た間違えちゃった気分は?ねえねえねえ今どんな気持ち?(夜半の大気を劈くひと息は更なる高音の嘲笑を伴った。胸裏に沈めた柔さへ与える一打だけを特別意識した一声放つや否や秘め留めた情操の解放に心が震え、両肩を掴み覗き込む顔貌はその力強さに反し恍惚が塗り潰す。)くるしい?いたい?ないちゃいそう?んふふっ、でもね、ナナミのがず〜〜っと痛かった。ナナミのほうがずっとずっとず〜〜っと痛かった苦しかった辛かった泣きたかった。私だって分かってたくせに!!(ぎり。ぎりぎり。両手に篭る力はもはや平生の比に非ず、語気荒く釣り上がった眉、ぎらりと強烈な輝き保つ瞳は怒気をその儘表そう。指先で感じる骨軋む音に幾分か胸裡満たされれば、)……でもね、ナナミが運命ってコトバに頼っちゃう気持ちもよぉお〜っく分かるの。だって私はナナミ。ナナミは私、……あっこら逃げないでってばぁ!(肩へかけた圧力が弱めると同時、トーンダウンした声色はあまくやさしくやわい。不意を突かれ駆け出した彼女を追うには「ま〜た鬼ごっこ〜?ナナミ鬼ごっこちょー得意だけどな〜?」と歪な笑みを呈し、逃げ道塞いで告げるコトバは追い打つべく。)そろそろへらっへら笑って取り繕うのも疲れたでしょ?ナナミが変わったげるよぉ、私の運命まるごと、ナナミが。ね。いいでしょ?いいじゃんいいじゃん超いいじゃんサイッコーの提案じゃん?堕ちちゃいなよぉ楽だよぉ、もう逃げなくていいよぉ?ナナミったら天才だな〜!…………んふふ、今ねーサイコーにゴキゲンだからぁ、餞別あげちゃお!(乾いた音が空に響く。フェンスを越え遥か遠く下へ遣った視線が示唆するは”投身”、両掌へ向けた視線が意味するは”絞殺”。この時ばかりは幼気に輝くひとみは即ち”自ら墜ちるか落とされるか”、餞はとびきりの、)………―――"選べ"。(唇は歪な下弦の月を象って、細まった双眸の奥、金色は鋭い。) | |||||
ドッペルゲンガーに会うと死んじゃうとか言うよね、……ぎゃー!どうしよう!? | |||||
(ひと月前をの運命の導きにより日を追うにつれ陰鬱が侵食する胸裏は而し表面に出すことを良しとせず、仄暗さ揺らぐは影に浸された時間の内一部と僅かであったからして、立平奈南にそう大きな変化は見出だせまい。薄氷の下荒く渦巻く胸裏は確かながら目を逸らすべく心ここにあらずで迎えた月満ちる日10月4日。恐らく合わせ鏡に相まみえるだろうとの予期に突き動かされるように寮を後にして、影時間へと差し掛かった折行き着いたのはポロニアンモール非常階段を上がった先、ひゅうひゅうと秋夜の冷風吹き過ぎる屋上。闇夜に溶けるようにごく自然に現る女はまさに”鏡”であり、狂気色濃いその姿に慄き喫するも予期通りだと、宵闇に塗り潰された瞳が宿すは諦念だった。)…………ゃ、めて……………。おねがい…………お願いだから、…………ッ痛っ、(鼓膜を劈く高音。更なる高音でもって向けられる嘲笑は、奥底へ沈めた柔さを切裂く一声は不快極まりなく、地へ落ちた視線ごと顔貌はコンクリートへ向けられたが、覗き込む狂喜が回避を許さない。両肩へ篭められる尋常ならぬ握力が逃避を許さず、鋭い痛みへの反応に追じて正面から受け止めた罵声は急所を突く疼痛を思わせて止まぬと、零した反応は肩に走る衝撃より胸へ響く其れに所以する。――全身で感じる鼓動が意味する逃走本能は、一瞬の力の緩みを機に鏡合わせから離れるべく。逃げたい逃れたい逃げたい逃れたい逃げたい逃れたい逃げたい逃れたい。いつになく重たく強く脈打つ拍動は満足に逃走し得ぬから”鬼ごっこ”は永遠にも感ぜられたし、ああ、この感情はようく知っている。)ゃ……だやだ、やだよぉ、やだぁ、………〜〜っ、…………ふっ、うえぇえっ、(背に有るは今や余りに頼りない柵一つ、迫るは”責任”そのもの。首を横にやだやだと幼子のようにごねるも短なこと、止めとばかりのとびきりの選択肢にびくりと大きな痙攣ひとつ。頬を伝う大粒の涙と嗚咽は死への恐怖と言うより”選択”の恐怖に起因した。) | |||||
…俺が生きてるから、少なくともあと1ヶ月は大丈夫なんじゃないかな? | |||||
(唐突に入った指令に瞬く間もなく、反射的に「直ぐに。」と返答したのは、さて、何故だったろう。頭を過るは以前タルタロスで会った明るい声。ノートに踊る楽し気な文字。―『まだ戻らない』簡素なればこそ其の危機的状況を刻銘に示す報告を否定するが如く足は逸る。本日二度目の大疾走ともなれば両脚が悲鳴を上げるも、現在ばかりは聞かない振り。一度探索を共にしたきりの彼女。”仲間”だとかそう云った情念は下らないとばかり、思ってきたけれど。)…良くは、ない…!(―欠けるのは、喪うのは。良くはない。頭を過ぎるは未だ入院中の隣人。元より静かだった隣室は輪をかけて静かに。意識は未だ戻らないと聞いた。如何に薄情を地で行く男であれど、少なからず思うところはあった。他人ならばいざ知らず、友人とはいかないまでも、知人以上の関係ではあったのだから。其処に今一人加わる等、余りに寝覚めが悪すぎる。――そうして、漸く見えた頼りなげな少女の姿は、そんな男の心中を煽るが如く。)アストライアー!(咄嗟に手にとった召喚器を米神に添え、撃ち抜くと同時、発する声は鋭く。さすれば、彼女と影の合間を裂くように電撃が走るだろう。距離を空ける事に成功したのならば、休む間なく其の隙間に自らを埋め込む。武器構えた侭愉快気な少女の影と対峙しつつ、)…立平さん、怪我はない?(視線は其の侭に、言葉だけを背に庇った少女に投げる。先程のすっかり混乱した様子の彼女が頭を過ぎれば、つと唇を開いて、)落ち着いて、…俺も居るし、もう大丈夫だから。(と、思わずそう零した。―常とは随分違った彼女の様子に、何か不吉な予感が大きく首を擡げた故に。) | |||||
あ、そか。てか時間有るなら対策しとけばいっかー!なんか呪文でも唱えとく? | |||||
(”ゆっとくけど、全部が全部”私”のせいだよ。”――うるさいな、聞きたくない。”ね、ね、どう?ま〜た間違えちゃった気分は?ねえねえねえ今どんな気持ち?”――サイテー。サイアク。もう”そろそろへらっへら笑って取り繕うのも疲れたでしょ?”―その通り。しゃくり上げる呼吸困難を他所に、鏡合わせの鋭さの一頻りを反芻し思うところを心内へ沈ませた折、浮かび上がったのはいっそのこと空に身を投じてしまえば楽になれるやも知れないと、身に染み付いた逃走本能に因る諦念。やがて咽ぶ声も感覚を広めゆくなか、鏡合わせに責任を請け負って貰えるならとの決断故かそれとも出奔選ぶ準備故か、背に控える柵へ込める力を強めたその時、鋭い一声が空を裂く。虚ろにコンクリートへと注がれていた視線は音の出現地を探すべく持ち上げられた折稲妻が眼前へ落ち、一体何が起きたのかと髄内が理解し得たころ、見開いた目は鏡合わせでなく少年の背を見据えていた。喫驚に掠れた一声はあまりにも頼り気なく聞こえるかもしれない。)か、がみ、センパイ、どして……?(窮地を救った言いようのない頼もしさに震えた胸裏を他所に、開いた口が発するのは至極シンプルな疑問の一声。ぎゅうと指先が柵へ込める力は強まるばかり、)………………っわた、わたし、え、選ばなきゃで、でもどっち選んだらいいかわかんなくて選べなくて、………どうしたらいいかわかんなくて、…………こ、こわくってっ、(脳髄を占める恐怖はまともに返答さえさせ得ぬと稚拙な文言は、咽ぶ音が混じったお陰で支離滅裂に拍車をかけよう。) | |||||
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(平坦で短な命令にいとも簡単に平静が剥がれ落ちる様が、滑稽なほどその顔貌を崩す様が愉快でたまらなかった。鬱屈させられた憤懣吐き出した故の様相に愉悦見出した女は追撃を緩めることなく、)てっかさ〜、運命だったって片付ければ責任逃がれ出来ると思っちゃってるぅ?そしたらぁ、誰のせいにもなんないもんねぇ。”私”のせいって責められることもないもんねぇ、やぁ〜だチョー打算的〜。(彼女は己。己は彼女。寸刻前そう告げたように、彼女の秘める柔さを理解するからこそ、柔さの最も鋭く刻まれる法を知っている。しゃくり上げる自身を前にして三日月を模った唇はんふふと恍惚すら滲む笑い声を漏らしてから、)ほらはやくぅ、選べっつってんじゃん。そうやって泣けば済むとでも思ってるぅ?(調子よく紡ぐ声は楽しげに少女の更なる反応を狙いがてら、ほらぁと一歩近付いて、――刹那、沈黙を破る鋭い一声が”落ちた”。次いでほんの僅か目の前へ落ちた雷は他の誰でもなく自分自身を狙っていたと、月満ちる日がゆえか研ぎ澄まされた反射神経をして、反応が遅れれば致命傷を負っていたに違いないと確信した。細めた双眸が見つめるはもう半身ではない。半身を背に己へ向いた彼だけを捉え、)ひっどいなぁせ・ん・ぱ・い。女のコに手出したらダメじゃぁ〜ん。てか”大丈夫”って、なに?助けたげんの?(ある程度保たれた距離を縮めるべく一歩踏み出して、背へ投じた疑問文へと割り込んだ疑問は単純な好奇心半分疑心半分。何かしらの反応が得られたらばふんふんと首肯重ねる様呈するが、)……ね、せ〜んぱい?ここで甘やかしちゃったらぁ、もしなんかあったときぜ〜んぶっ、”私”ったらせんぱいに責任転嫁しちゃうよぉ?”私”にはさ、リクツなんて通用しないの。てか保身だね。超感情的になっちゃってるしぃ、ウザいでしょ?アハッ。(先程の如く雷が進路を妨げようものならその場で足を止め後ろ手に両指を絡ませながら、足止めない限りは彼と半身との距離を縮めつつ、続ける文言は半身の決死の静止も素知らぬ振り。眩いほどの月明かりが微笑みを照らす。)だからさぁ……ここはもう、放って帰ったほうが得策だと思わなぁい?(でしょ?―首傾げる動作に追った確認は分かり易く同意を求めていた。) | |||||
呪文?…参考までに聞くけれど、どんな? | |||||
まだ戻ってないって聞いたから、様子を見に。…一応、無事みたいで良かった。(問う声に返す言葉は端的に。明らかに動揺した様子の少女は心身共に完全に無事と云う訳にはいかないようではあったが。―して、続いて聞こえる嗚咽混じりの訴えは、要領を得ず理解はし難かったが、一先ず聞いている事、傍に在る事示すが大事と「うん。」と返す声は柔く。然れど、其の言葉の先を探すより先に、再び耳朶を震わせる声は、少女の物で在りながらも随分と落ち着いて、愉快気な色すら伴っていて、)傷をつけるつもりはなかった。…事実、無事だろう?(真っ向から視線絡ませつつ投げる疑問符は些か結果論染みた物ではあったが、真実、狙いは影自体よりも、其れとの距離を稼ぐ事に在ったのだから致し方ない。次いで、聞こえた声には暫しの間を置いた後、)……助ける事が出来るかは、分からないけれど。力になりたいとは思うよ。(静かに落とす声は、男自身が其の感情を測りかねているようでもあった。然し為ればこそ以前良く見せていた上辺のみを取り繕った態度とは些か質の異なる物で。そんな男に軽い声と共に首肯示す影に対して僅かに見せた苦笑は、それなりに真摯に向き合う男自身を茶化されたように感ぜられたが故に。――近付く影を阻止する動きは見せぬ侭、影の言葉にも、背から聞こえる悲鳴にも似た声にも反応を返す事無く、視線をやや下げ長考。たっぷり5拍程度の合間空け、目前に迫った影を見据えて、小さく笑う。其れは思わず漏れてしまったと云う体の、)……うん。少し前までの俺だったら、本当に戻っていたかもしれない。何食わぬ顔で手遅れでした、と報告していたかもしれないね。(他人事のように述べる言葉は然し、確かに現在も胸中に燻る思考の1つではあった。それでも、男の足は動かない。其れが紛れも無く少女の影に対しての返答で在ったけれど。「けれど」と、紡ぐ声は柔いが故に真っ直ぐ落ちる。)それは、嫌だから。…俺もね、俺に抵抗したいんだ。理解した上で抗いたい。だから帰らない。…今の立平さんを置いて帰るような人間にはなりたくないから。でも、これを選ぶ事は俺の勝手で、俺の自己満足だ。だから正しく、俺の責任なんだ。…何かあれば、それは本当に俺のせいかもしれないし、受け止めたいとは思うよ。上手く出来るかは、分からないけれど。(「だから、大丈夫。」――最後、後方を振り向き繰り返す言葉は、先よりも感情の整理がついた所為か、状況にそぐわず明朗ですら在った。) | |||||
【Event7終了】 | |||||
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>ラヴァタの言うとおり、再び大きな試練が訪れた…
>…!? >…頭の中に、不思議な声が囁く… 我は汝…、汝は我… 汝、”愚者”のペルソナを生み出せし時、 我ら、更なる力の祝福を与えん… >”特別課外活動部”のコミュのランクが”6”に上がった! >これから先、どうなってゆくのだろう… >……。 >次の満月に備えておく必要がありそうだ… |